北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

■ 北村方義とは 彼の揮毫した幟(飯綱町夏川地区)

2016年12月02日 | 04 武田熊治苞信(三代)

 お祭りのときには神社の参道、地区の集会場等に幟旗が建てられます。北信地方でも明治期になって、あちこちで競って大きな幟を掲げようとしました。最近は人口減少もあり幟をあげなくなった地区もありますが、平成27年秋には、須坂の福島(ふくじま)町で北信最大級の幟(以前、当ブログで紹介)が建てられたり、今年は小布施の郷原神社で2番目に大きな9反幟が建てられました。幟を作ったのが宮大工で、さらに彫工が参加して装飾もされたりします。

 今回、長野市の隣の飯綱町の夏川地区の幟を紹介します。

幟の全体像。2本建てられています。右の旗には、「明治33年」とあります。

 

向って左の幟旗には「北村方義 拝書」とあります。北村方義(まさよし)については後で説明します。

 

幟の基部の脇には、獅子、象の木鼻があります。

 

もう一つの幟の基部。

 

明治33年ということ、作風から武田苞信(熊二、2代武田常蔵の二男)を疑っています。

 

 

象の木鼻。

―宮彫師は、寺社彫刻だけではなく色々なものにチャレンジしていました。

 

●北村方義(まさよし)について

 儒学者、書家。天保5年(1834)生まれ。19歳で江戸に出て亀田綾瀬門に入り勉学にいそしみ塾長になった。安政5年に信濃に戻り、佐久、水内郡で子弟の教育にあたり、文久2年須坂藩の立成館の教授に迎えられた。藩主、堀直虎候の補佐を務めた。直虎候は後に江戸城にて将軍に降伏論を迫り、その責をとり自刃した。方義は明治3年大監察兼教授となり、明治維新後の安定に尽力した。晩年は妻科に塾を開いて多くの弟子を育てた(嘯古堂;しょうこどう)。妻科神社本殿の東側に彼を顕彰した石碑がある。(つましな風土記)。明治34年没。

方義は「ほうぎ」と呼ばれることが多いですが、正確には「まさよし」になります。

 ちょうど2016年12月10日から来年の2月19日まで須坂市博物館で開催されます(下記のパンフレット参照)。

(注意)終了しています。

北村方義展の案内(須坂市博物館):(注意)終了しています。

 

妻科神社(長野市南長野)の本殿の東に建つ石碑。

 

石碑の拡大。嘯古堂北村翁碑とあり。

 

石碑内容(嘯古堂遺稿より)

 

おそらく、夏川地区の幟をたてた地元に北村方義の弟子がいて、師に揮毫を依頼したと思います。

方義揮毫の幟は、北信地方で沢山見られます。

・嘯古(しょうこ)堂遺稿とは

北村毅太郎による発行。北村方義の没後に顕彰のために明治45年3月に刊行された。

 

以降は省略。

 


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