竹内八十吉は、文化12年(1815)生まれで、山嵜儀作の16歳年長になる。
太郎山神社本殿 正面
八十吉は明治6年に上田市太郎山神社(太郎山の頂上付近)の彫工として参加した。
棟札によると彫工の最初に竹内八十吉、善光寺妻科村彫工 山崎儀三久、花岡 巽、 彫工 後藤辰蔵とある。
山崎儀三久は山嵜儀作のことで、花岡巽、後藤辰蔵(後藤流の流れ?)の2名は不明である。
*注意 太郎山神社は、覆屋で普段は見れません。5月5日に公開されます。太郎山に登るのは人によって30-50分くらいかかります。
■竹内八十吉
上田の龍洞院の老師、村上博優氏の本「幕末~明治の宮大工・木彫名人 竹内八十吉 号信吉」に詳しく書かれています。
立川流とされていましたが、村上氏の調査では立川流との接点の証拠はなく、立川流とは違うのではないかと推定されています。
-長野県では、素晴らしい彫物、優秀な彫工は立川流のカテゴリーに無条件で入れられてしまう悪しき傾向があります。山嵜儀作も実際には石川流で修業したにも関わらず、立川流とされてきました。―
八十吉の生涯は不明な点が多く、文化12年に上田市上澤で生まれ(父は萬蔵)、11歳の時に地元で中澤本次郎について彫刻を習う。また一時、葛飾北斎の門に入って絵画を学んだとされています。また、江戸、京都に出て修行もしたと伝えられています。浅草茅町の某師匠(不明)について彫刻を修行、深川の八幡社で獅子の彫刻を作ったとも伝えられています。
明治31年9月8日に亡くなっています。
竹内八十吉の関連建造物-
・信濃国分寺薬師堂(天保11年:1860) 大工棟梁 田島嘉平。彫工 竹内八十吉、瓦師は三河から招聘。
・良泉寺(上田市殿城矢沢)の梅一木造りの椅子
・金昌寺太子堂(上田市中央)
・山際稲荷神社(群馬県下仁田新町)
・荒神宮(上田市諏訪形)・・・すばらしい彫物です。
・白山比咩神社の随身(上田市山口)
・招魂社(東京の靖国神社)の副棟梁であったとされています。(明治初期)
・科野大宮社・子安社(上田市常田)
・太郎山神社(明治6)
・伊波保神社(上田市岩下)・・・琴高仙人(鯉に乗る)、丁令威仙人(鶴に乗る)の脇障子彫刻
・堀川神社(上田市下堀)・・・「黄石公と張良」、「韓信股くぐり」の胴羽目
・龍洞院開山堂・・・龍、鶴の彫物
・願行堂天神社
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