北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

●佐々木忠綱 村長(旧大下条村/現阿南町)の功績ー満蒙開拓団への分村を拒んだ村長

2018年08月24日 | ●全般

―大日方悦夫氏の本『満州分村移民を拒否した村長』の刊行に寄せて

 8月23日の信濃毎日新聞21面の記事で、佐々木忠綱村長をテーマにした本が刊行された。以前から興味を持っていた人物で、昨年夏に佐々木村長の家(阿南町役場の近く)もみてきた。

 南信の阿智村には、昭和初期に満州に渡った人々の記録が満蒙開拓平和祈念館で公開されている。3年前に見学させていただき、最初の満蒙開拓に至った経緯、その後の戦況の悪化で異国に取り残されて被害が増大した状況を理解した。長野県は、全国でも最も多く満蒙開拓団へ人を送り、その結果被害者数も多い。その背景には、県の主要産業であった養蚕業が世界経済の悪化により生糸の価格暴落、養蚕に依存していた県内各村の若者の職がなくなり食い扶持に困ったのである。

 満蒙開拓団を組織した日本は、そこへの移住者を国内から募り、長野県や多くの市町村はその政策の従って分村を積極的に進めた。

 南信の大下条村(合併して阿南町)の村長であった佐々木忠綱は、開拓団へ村人を送る(分村)するにあたり、先に入植した開拓団の地を視察したが、荒野を新たに開拓して作ったものではなく、地元住民から強制収用して作り上げたのではないかと気づいた。日本に戻り、妻にその疑問と分村に乗り気でないことを伝えたところ、それなら分村をやめなさいと忠告された。

 周囲の村々が、分村を進める中で、大下条村の佐々木村長は公式に分村拒否を宣言するわけにもいかず、分村に関する法案を意図的に議題にしないようにして、分村の実施を先延ばしにした。その内に、世情が変わって分村政策がなくなった。

 いわゆる「面従腹背」作戦をとった佐々木忠綱村長へは、分村推進派から猛烈なバッシングを受けた。村長のお蔭で結果的に一人の満蒙開拓の犠牲者を出さなかった。

 佐々木村長の功績は、もっと顕彰されるべきであるが、当時の周囲の人々はそうすべきと思いつつも、身近なもの、縁故者に分村へ積極的に動いた者が多く、表立って顕彰することができない事情があった。

 戦争の悲惨さを伝えることは重要であるが、戦争の抑止になるかは疑問である。昨今の日大アメフト部の問題を見ても、相手に危害を与えることが絶対悪と知っていても、勝てば官軍の雰囲気がただよう集団の中で、無理を強いる上部の人間(権力者)に正論で抗えない。問題が起こった後の事後処理をみても、組織(日大本部)の中でガバナンスを問題視して改善しようとする動きが鈍いのが事実である。

 上に立つ人間が、次世代の若者を正しい方向へ導く強い思いが乏しく、私利私欲で動くと組織・集団は悪い方へ動く。良好なガバナンスを維持するには、間違った時にはものが言える環境であること、特に上司になる人間が、組織を守る思い<正しいことを守る思いでないといけない。戦争の抑止への教育は、若い世代に戦争の悲惨さを伝えること以上に、ことの善悪を判断し上層部へ意見を言う個と、周囲の人間も意見を言った人間を尊重することが重要ではないだろうか。また、上層部に言えない雰囲気であっても、佐々木村長のように面従腹背のような形で無言の抗議をするしたたかさを各人が持つことも必要かもしれない。

 南信の方が佐々木村長の功績をなかなか顕彰できない状況の中で、長野市在住の現代史研究家の大日方悦夫氏が書籍化された。さっそく一冊注文した。大日方氏に直接お会いして色々なことを教えていただこうと思っている。


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