goo blog サービス終了のお知らせ 

新古今和歌集の部屋

源平盛衰記図会巻の一 豊明節会1


源平盛衰記圖會巻之壹

  平安 穐里籬嶌輯錄

豐明節會

王風哀しんで以て思ふ周道蕩して章を無し。洛を卜て隆の替を乱を興して罔亡不らんを易し。力政九鼎と

張子房が詩を謝瞻が作れるも實なるかなや。夏の寒浞、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、

唐の祿山みな先皇の政にも随ず民間の愁をも顧ず、騤擾速に來ッて久しからず

して滅びにき。我朝にも承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼

等也。頃太政大臣平清盛といふ人あり。桓武天皇第五皇子一品式部卿葛原親王

九代後胤、讃岐守正盛の孫、刑部卿忠盛の嫡男也。此親王の孫高望王の時、寛平

元年五月十二日に始て平の姓を賜て上總助に成給ひしより已朱惣に王氏を出て

人臣に列る。其子鎮守府將軍良望後には常陸大掾國香と改む。國香より貞盛

經衡、正度、正衡、正盛に至まで六代は諸國の受領たるといへどもいまだ殿上の仙籍

を許れず。忠盛朝臣備後守たりし時鳥羽院御願徳長寿院とて鳳城の左、鴨河

の東に三十三間堂の御堂を造進り一千一體の観世音を姿奉る。此觀賞には但馬國を賜ふ。

其外結縁經營の人々には程々に随て觀賞を蒙る。誠に大善根とぞ覺たり。忠盛

朝臣佛智に恊ふ程の寺を造進したりければ、鳥羽法皇叡感に耐させ給はず。

當座に刑部卿に任ぜられ大内の昇殿を許さる。昇殿はこれ象外の選なれば俗骨

望む事なし。就中先祖髙見王より其跡久しく絶たりしに忠盛三十六歳にて

許されけるは當家の面目子孫繁昌の験と見へたり。法皇常に宣ふは忠盛なからまし

かば誰かは朕をば佛に成べきとて。ある時は御劍御衣或時は沙金錦絹を德長壽

院へ回向し奉るとて下し給ひけり。其上闕國のあれかし庄園のあれかし重ね/"\も

賜らんと思召ければ雲の上人嘲憤て議し申されけるは長承二年十一月廿三日五節の

豊の明の節會の夜忠盛を闇討にせんと支度區たり。忠盛此事を風(ほのか)に聞て武勇の家

に産て此恥に遭ん事身の為家の為に心憂るべし。又此事を聞ながら出仕止はんも

いひ甲斐なし。所詮身を全して君に仕ふるは忠臣也とて郎等左兵衛の尉家貞を連

て参内せらる。家貞布衣の下に萌黄の腹巻衛府の太刀を佩き烏帽子引入袖


※張子房 張良は、秦末期から前漢初期の軍略家。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦を立案し、その覇業を大きく助けた。

※謝瞻 謝 瞻(しゃ せん、387年 - 421年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚・文学者。またの名は檐。字は宣遠、あるいは通遠。本貫は陳郡陽夏県。

張子房   謝瞻

王風哀以思、周道蕩無章。卜洛易隆替、興亂罔不亡。力政吞九鼎、苛慝暴三殤。……

※夏寒浞 寒浞(かんさく)は、古代中国の人物。姓は䢵、或いは妘、或いは猗、氏は寒。夏王朝を一時期簒位し、夏王朝の遺臣である伯靡に殺された。

※秦の趙高 趙 高(ちょう こう? - 紀元前207年)は、秦の政治家。趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した(望夷宮の変)。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。

※漢の王莽 王 莽(おう もう、前45年 - 23年10月6日)は、新朝の皇帝。字は巨君。元始4年(4年)2月に娘の王氏を平帝の皇后に冊立し、同年4月に宰衡・安漢公となった。元始5年12月16日(6年2月3日)には14歳になった平帝が死去した。平帝の死因については王莽による毒殺とする記録もあり(『漢書』平帝紀注「漢注云帝春秋益壮、以母衛太后故怨不悦。莽自知益疏、簒殺之謀由是生,因到臘日上椒酒、置薬酒中。故翟義移書云「莽鴆弑孝平皇帝」」や翟方進伝所引の反乱者翟義の檄文「移檄郡国、言莽鴆殺孝平皇帝、矯摂尊號、今天子已立、共行天罰」では、王莽の毒殺としている。)、また漢書本文にはそのような記述はなく、平帝は幼少時から病弱であったため、病死である可能性もある。後継として2歳の遠縁の広戚侯劉顕の子の劉嬰を立てるも皇帝ではなく皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇帝の業務を代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱いとし、居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し[2]、また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪(身勝手な禅譲)に相当する。

※梁の周伊 朱异(しゅ い、永明元年(483年)- 太清3年(549年))は、中国南北朝時代の南朝梁の政治家・学者。字は彦和(げんか)。朱異とも。寒門の出身だったが広く諸学に通じ、梁の武帝の寵愛を得て頭角を顕わし、やがて国政の枢機に参画して権勢を誇った。『平家物語』では「朱异」ではなく「朱異」(しゅい)、「周伊」(しゅうい)、「周異」(しゅうい)と漢字の表記にばらつきがある。

※唐の祿山 安 禄山(あん ろくざん)は、唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(roxš(a)n、明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安禄山の乱(安史の乱)を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は次男の安慶緒に殺害された。

※承平の將門 平将門(延喜3年〈903年〉? - 天慶3年〈940年〉)は、平安時代の関東の豪族。第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の子で鎮守府将軍である平良将の子。下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗し「新皇」を称した。東国の独立を標榜し朱雀天皇の朝敵となったが、藤原秀郷・平貞盛らによって討伐された(平将門の乱)。

※天慶の純友 藤原純友は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男。官位は従五位下・伊予掾。瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。

※康和の義親 源義親(生年不詳 - 嘉承3年〈1108年〉)は、平安時代後期の武将。源義家の次男。河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたときに九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛の追討を受けて誅殺された(源義親の乱)。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。

※平治の信頼 藤原信頼は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。

※左兵衛の尉家貞 平家貞 平安時代後期の武将。伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」といわれた。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望ー国香ー貞盛ー維衡ー正度ー正衡ー正盛ー忠盛ー清盛

コメント一覧

jikan314
@1kamakura 江戸の秋様
コメントありがとうございます😊
この平家物語は、他の序と違い、「祇園精舎の鐘の声」が無く、源平盛衰記の違い過ぎるバージョンで最初は戸惑いましたが、ゆっくり2ページを目標に読んでいこうと思っており、次は気長にお読み頂ければ幸いです☺️
1kamakura
江戸の秋

ここら辺は平家物語に出てくるので、とても興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます😊
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「平家物語」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事