
にようゐんおわうじやう
十二 女院御往生の事
去程にじやつくはう院のかねのこゑ、けふもくれぬと打しられ、
せき
夕やう西にかたぶけば、御なごりつきせず、思召れけれども、
御なみだをゝきへて、くはん御ならせ給ひけり。女院はいつしか
むかしをや思召いたさせ給ひけん。忍びあへぬ御なみだに、
袖のしがらみせきあへさせ給はず。御うしろをはるかに御
あん
らんじせくつて、くはん御もやうかくのひさせ給へば、御庵
しつ
室にいらせ給ひて、仏の御まへにむかはせ給ひて、天子聖

霊じやうとう正覚、一もんばうこんとんせうほだいといの
むかし
り申させ給ひけり。昔はまづ東にむかはせ給ひて、伊勢
ぐう まんぐう
大神宮正八幡宮、ふしおがませおはしまし。天子ほうさん
千しう万ぜいとこそ、いのり申させ給ひしに、今は引かへ
て、西に向はせ給ひて、くはこ聖霊かならず一仏ちへど、いのら
せ給ふこそかなしけれ。女院はいつしか、昔こひしうもや思
おんあんしつ
召れけん、御庵室の御しやうじに、かうぞあそばされける。
此比はいつならひてか我心大みや人のこひしかるらん
しば
古しへも夢になりにし事なれば柴のあみどのひさしからじな
又御かうの御供に候はれける、悳大寺の左大臣、じつていこう、
御あんじつのはしらに、かき付られけるとかや。
古しへは月にたとへし君なれど其光りなきみ山べのさと
女院はこしかた行すゑのうれしうつらかりし事共、おぼ
し召つゞけて御涙にむせばせ給ふ折ふし、山ほとゝぎす
二こゑ三こゑ、をとづれてとをりければ女院
平家物語巻第十二 平家物語灌頂巻
十二 女院御往生の事
十二 女院御往生の事
去程に寂光院の鐘の声、今日も暮れぬと打知られ、夕陽(せきやう)西に傾けば、御名残り尽きせず、思し召せれけれども、御涙を置きへて、還御ならせ給ひけり。女院はいつしか昔をや思し召しいたさせ給ひけん。忍びあへぬ御涙に、袖の柵堰あへさせ給はず。御後ろを遥かに御覧じせくつて、還御もやうかくのひさせ給へば、御庵室に入らせ給ひて、仏の御前に向かはせ給ひて、
「天子聖霊、成等正覚、一門亡魂、頓証菩提(とんせうほだい)」と祈申させ給ひけり。昔は先づ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮、正八幡宮、伏し拝ませ御座しまし。天子宝算、千秋万歳とこそ、祈申させ給ひしに、今は引きかへて、西に向はせ給ひて、過去(くはこ)聖霊必ず一仏浄土(ちへど)、祈らせ給ふこそ悲しけれ。
女院はいつしか、昔恋ひしうもや思し召れけん、御庵室の御障子に、かうぞ遊ばされける。
この比はいつ習ひてか我が心大宮人の恋ひしかるらん
古しへも夢になりにし事なれば柴の網戸のひさしからじな
又御幸の御供に候はれける、大徳寺の左大臣、実定(じつてい)公、御庵室の柱に、書き付けられけるとかや。
古しへは月にたとへし君なれどその光なき深山辺の里
女院は、來し方行く末の嬉しう辛かりし事ども、思し召し続けて、御涙にむせばせ給ふ折ふし、山時鳥、二声三声、音づれて通りければ女院、
この比はいつ習ひてか我が心大宮人の恋ひしかるらん
古しへも夢になりにし事なれば柴の網戸のひさしからじな
又御幸の御供に候はれける、大徳寺の左大臣、実定(じつてい)公、御庵室の柱に、書き付けられけるとかや。
古しへは月にたとへし君なれどその光なき深山辺の里
女院は、來し方行く末の嬉しう辛かりし事ども、思し召し続けて、御涙にむせばせ給ふ折ふし、山時鳥、二声三声、音づれて通りければ女院、
※鐘の声、今日も暮れぬと
拾遺集 哀傷歌
題しらず よみ人知らず
山寺の入あひのかねのこゑことにけふもくれぬときくそかなしき
※頓証菩提
速やかに悟りの境地に達すること。死者の追善供養のときなどに、極楽往生を祈る言葉として唱える。頓証仏果。速証菩提。