不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「文武」天皇と「浄原御寓」(二)

2018年09月05日 | 古代史

「文武」の統治した宮が「浄原宮」であることが「藤原継縄」の上表文で明らかとなっているわけですが、『三国仏法伝通縁起』によってもそれは明らかとなります。

『三国仏法伝通縁起(下巻)』
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?(もたらす)来所以然者。…」

 この記述によると「道光」が「遣唐使」として入唐したのは「天武天皇」の時代のこととされているようですが、この「道光」は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が『書紀』にあります。

「白雉四年(六五三)五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聡 道昭 定惠〈定惠 内大臣之長子也〉 安達 安達中臣渠毎連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 氷連老人 老人眞玉之子。或本以學問僧知辨 義德 學生坂合部連磐積而増焉 并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」

 つまり彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことであって、「天武」の時代ではなかったはずなのです。しかし、この「道光」が帰国後著した「一巻書」として『依四分律鈔撰録文』という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされています。このことから(「凝然」も含め)一般にこの「浄御原天皇」を「天武天皇」のこととする訳ですが、それでは『書紀』の記述と整合しないこととなってしまいます。
 また、上の『三国仏法伝通縁起(下巻)』中では「而其帰朝。定慧和尚同時。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に帰国したとされていますが、「入唐」が同時であったのは「白雉年間」の記事で判明しますから、彼らが行動を共にしていたというのは不自然ではありません。しかし『孝徳紀』に引かれた「伊吉博徳」の言葉として「定惠以乙丑年付劉德高等舩歸」とありますから、彼は「乙丑年」つまり「六六五年」には帰国したこととなりますから、これとは食い違います。
 また「帰国」については『縁起』では「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、もし「天武」により派遣されたとするなら「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなってしまいます。しかし、これは仏教の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
 この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、『書紀』に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉德高等舩歸』 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶今年共使人歸。」

 この「乙丑年」はすでに見たように「六六五年」であり、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったとと思われます。このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、「道光入唐。未詳何年。」としています。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は『書紀』と整合しないことを知っていたものと思われます。それはこの時代に「遣唐使」が送られたという記録は『書紀』にないことからも疑問に思われたのではないかと推察されます。
 『書紀』で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが『孝徳紀』であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、『孝徳紀』の記録を知っていて「無視」したと考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられ、これに注目した結果『孝徳紀』の「記録」を軽視したと言うことかもしれません。
 しかし、これらのことは「道光」が云う「浄御原天皇」というのが「天武」ではないことを如実に示すものと思われ、「七世紀半ば」の「倭国王」が「浄御原天皇」と呼称されていたと云うことを示すと思われます。
 以上のことは「大長」年号についてすでに書いたことでも補強されます。
「大長」という年号はいわゆる「九州年号」中に存在しますが、史料によりその場所(年次)が異なるのが知られています。『二中歴』によれば「大化」の後に入れられており、『八幡宇佐宮御託宣集』でも「持統」の代の記事として書かれています。しかし「常色」と「白雉」の間、つまり「七世紀半ば」に入れている史料もあります。(『如是院年代記』、『開聞山古事縁起』など)
 この記事がもし正しければ『伊豫三島縁起』において「文武」ではなく「天武」と書かれている事とつながります。

『伊豫三島縁起』では「…天武天王御宇『天長九年』《壬子》六月一日。…」(『続群書類従』巻第七十六「伊豫三島縁起」の段)とあり、これらからは「大長」についてその元年が「壬辰」(「六四四年」)であり、「六五二年」までの九年間継続したという推定も可能となります。その場合『伊豫三島縁起』の「壬子」という年は「六五二年」と考えるべき事となるでしょう。つまり「白雉元年」と一致するわけです。

 さらに『伊豫三島縁起』では以下のように「東夷」を「征罰」したとされています。

「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日。為東夷征罸。第一王子伊豆國御垂迹云云。」

 ここでは「天武天皇」が「東夷征罸」するために「第一王子」を「伊豆国」へ派遣したように書かれています。この「東夷」が何を意味するかは不明ですが、『書紀』には「天武」が「東夷」を「征罸」した(あるいはそのために「王子」を派遣した)というような記述は見あたりません。ましてこの「天武」を「文武」の書き違いとして、「王子」(これは後の聖武天皇となると思われる)は「文武」の死去した時点でまだ七歳であったとされますから「東夷」など征伐できるはずもなく、またそのような記事は確かに『続日本紀』にはありません。
 この「東夷」がいわゆる「蝦夷」を指すとすると、『書紀』を見ても「蝦夷」への武力対応は『斉明紀』に最も明確であり(「阿倍比羅夫」の遠征として描かれています)、それは「六五〇年代」ですからまさに「七世紀半ば」の出来事となります。その場合「壬子」とは既にみたように「六五二年」を指すとみて矛盾はないわけです。そしてこの記事に対応するのは『天武紀』にある「伊勢王」の「東国限分」記事(以下のもの)ではないでしょうか。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔…辛巳。遣伊勢王等定諸國堺。…」
「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔…己丑。伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…。」

 これらの記事のうち前二つの記事では「諸国」とされていますが、実際にはそれが「東国」のことであったのは三番目の例が示しています。そこには「亦」とありますから、以前の「諸国」も「東国」を意味していたことも確かでしょう。
 しかし、ここで出てくる「伊勢王」は、すでに見たように生存していた実年代は「七世紀半ば」と見られ、その場合この「東国限分」の実年代としては「六四九年」から「六五一年」にかけての話となりますから、上に見た「六五二年」付近のことと思われる『伊豫三島縁起』の「東夷征罰」と重なることとなります。

 以上から見て、「文武」つまり「浄原御寓」が『日本後紀巻五』に言うように「丁酉年」つまり「六九七年」以降統治していたという記述は疑わしいものと考えられ、実際には「白雉年間」に存在した人物であったと考えられる事を示しました。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)旧ホームページ記事を転載

コメント

「文武」天皇と「浄原御寓」

2018年09月05日 | 古代史

 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。臣聞黄軒御暦。沮誦攝其史官。有周闢基。伯陽司其筆削。故墳典新闡。歩驟之蹤可尋。載籍聿興。勸沮之議允備。曁乎班馬迭起述實録於西京。范謝分門。聘直詞於東漢。莫不表言旌事。播百王之道猷。昭徳塞違。垂千祀之炯光。史籍之用。蓋大矣哉。伏惟聖朝。求道纂極。貫三才而君臨。就日均明。掩八州而光宅。遠安邇樂。文軌所以大同。歳稔時和。幽顕於焉禔福。可謂英聲冠於胥陸。懿徳跨於勳華者焉。而屓戻高居。凝旒廣慮。修。國史之墜業。補。帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…。」

ところでこの記事とは別に『日本後紀巻五』に『続日本紀』編纂に関する記事があります。

「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之龜鏡。炳戒昭簡。作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳。道契八眉。握明鏡以惣萬機。懷神珠以臨九域。遂使仁被渤海之北。貊種歸心。威振日河之東。毛狄屏息。化前代之未化。臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳。孰能與於此也。既而負・餘閑。留神国典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足。刑部卿從四位下淡海眞人三船。刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等。分帙修撰。以繼前紀。而因循舊案。竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已。寳字元年之紀。全亡不存。臣等搜故實於司存。詢前聞於舊老。綴叙殘簡。補緝缺文。雅論英猷。義關貽謀者。惣而載之。細語常事。理非書策者。並從略諸。凡所刊削廿卷。并前九十五年・卷。始自草創。迄于斷筆。七年於茲。油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善□惡。傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺。裁成国史。牽愚歴稔。伏増戰兢。謹以奉進。歸之策府。」

 この記事の年次は上の「逸文」の記事の「以降」のものであり、時系列としては「逸文」が先行しています。しかし、内容を見ると「逸文」では「菅野真道」以下による『続日本紀』撰進が「中途半端」であったので、再編集したという意味のことが書かれていると考えられるのに対して、それ以降の記事とされる「巻五」の方が「逸文」で否定された「菅野真道」等により『続日本紀』が撰上されたという趣旨の記事が書かれています。このふたつの記事は明らかに「矛盾」であり、両立できないと思われます。このことはこの両者の真偽に対する根本的な疑いが発生するところです。

 『日本後紀逸文』は「菅原道真」が「勅」によりまとめた『類聚国史』などに引用されていたものですが、「巻五」及びそれを含む計十巻は江戸時代になって突然出現した史料です。「応仁の乱」以前には四十巻存在していたとされていますが、その後散逸したとされていたもので、これについては「塙保己一」(の門人)が京都で発見したとされていますが、そもそもそこまで全く史料として見つけられていなかったと言うことも不思議です。
 『日本後紀』には「偽書」の疑いがあるものもかなり多く、この「塙保己一」版にもその疑いが発生するところです。
 一般にはこの巻本については「偽書」とはされていないようですが、「逸文」と矛盾するとすれば、どちらかに問題があることとならざるを得ません。(一説にはこの「塙保己一」版は「柳原紀光」(公家)による「校訂本」であるというものもあるようです)
 史料的には「逸文」の方が確実性が高く、また「素性」も確かであるのに対して、「十巻本」については一抹の不明確さがあると思われます。このことはこれら異なる系統の写本の間で「互いに矛盾する」記事があった場合「逸文」の方が信憑性が高いと判断できることを示します。その問題の「十巻本」の中には「但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。」と書かれた部分があり、これによれば「文武」が「七世紀末から」「八世紀」にかけての人物であると判断できる訳ですが、これと「矛盾する」と考えられるのが冒頭の「逸文」の記事内容です。
 この「逸文」の中には「先典」という言い方が出てきます。これは『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原の前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。しかし、「浄原(宮)」というものがいつ出来たのかと考えると、旧説とは異なり、「天智」の革命王朝の時点ですでに存在していたと推定されます。
 「国史大系」の『日本後紀逸文』の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それでは「持統」が不在になるばかりか「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまいます。この解釈には通釈としても問題があることは間違いありません。
 現代ではこの部分については「浄原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔にも「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。このため単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われます。つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。 
 上に見たように「逸文」の記述では『続日本紀』の記述対象期間としては「干支」などが記載されておらず、その点が「十巻本」と異なっています。しかし、この「十巻本」のこの部分の記述に「不審」があるのですから、この「干支表記」も同様に疑わしいと考えざるを得ないこととなるでしょう。
 そのことは鎌倉時代の僧「凝然」が著した『三国仏法伝通縁起』からも裏付けられます。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)旧ホームページ記事を転載

コメント

氷連老人と薩夜麻が同時に捕囚となっていた理由について

2018年09月05日 | 古代史

 「持統」の「大伴部博麻」を顕彰する「詔」の中でその名前が出てくる「冰連老人」という人物については、彼が「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと考えられるものであるのに対して、「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの事は「何らかの」矛盾を含んでいることを示すものと思われます。
 この「矛盾」に対しては、全くの推測と仮定の世界とならざるを得ないわけですが、一つのストーリーが考えられるでしょう。つまり、彼はそもそも「学生」ではなく、その名目を借りた「軍事スパイ」であったためであり、戦場となることが確実となった「百済」で諜報活動を行っていたが、戦いが始まってしまい、倭国から派遣された軍隊と共に戦いに参加し、「薩夜麻」達と共にそこで捕虜となった、というシナリオです。

 「博麻」「薩夜麻」などは「兵士」であり「将軍」であったわけですが、それに対し「冰連老人」は「遣唐使」であったはずです。その彼らが同じ場所に「収容」されているわけですが、それが「唐国内」であったとすると当時「倭国」や「百済」と戦いになった時点で「唐国」は「倭国」などから派遣されていた人達をいずこかに「収容」したと言うこととなります。(太平洋戦争当時のアメリカにおける日系人の「強制収容」と似ています)果たして、このようなことがあったのでしょうか。
 「唐」側資料を渉猟しましたが、戦争の相手国からの「使人」や「学生」あるいは「諸蕃」の「子弟」を「充てていた」とされる「宿営」などを、「拘束」したとか「収容した」というような資料は見あたりませんでした。(逆に本国に送還したという記事ならありました。)
 唯一確認できるのが「六五九年」の「遣唐使」を「両京」(長安と洛陽)に分かれて幽閉したというものです。この中に「氷連老人」がいたとすると彼等に「薩夜麻」達が合流する必要があり、それは「百済王」達が「唐皇帝」の前に連行された時点以外ないと思われます。これらの中に「薩夜麻」が混じっていたとする他ない訳ですが、その想定は困難でしょう。なぜなら「百済王」達はその場で(倭国からの遣唐使も含め)解放されているからです。それは「薩夜麻」達が「虜」とされて歴年拘束されていたとする状況と整合しないと思われます。
 『書紀』によると「天命開別天皇三年」つまり「六六三年」時点でまだ「虜」とされていたように書かれており、「百済王」達の置かれた状況とは異なることが判ります。このことからこの時点で「氷連老人」と「薩夜麻」達が合流したわけではないこととなります。

 既にみたように、「博麻」は「旧百済」の地で「債務返済」のため労働していたと考えられる訳であり、「氷連老人」が「薩耶麻」達と共に補囚になっているところを見ると、彼は「六五九年」の遣唐使が「派遣」された時点付近で既に「百済」(あるいは「新羅」)にいたという可能性が出てきます。そして、「百済を救う役」が「勃発」した時点で参戦した「倭国軍」の中に「薩夜麻」や「博麻」がおり、彼等と共に「旧百済」の地で「唐・新羅連合軍」の「虜」となったとみる以外にないのではないでしょうか。いずれにせよ「氷連老人」はなぜ「百済」にいたかですが、それは「軍事情報」の収集という重要な任務があったものであり、その最中に戦闘に遭遇したということではないでしょうか。
 「六五九年」に派遣された「伊吉博徳」達を含む「遣唐使」団は「洛陽」で行われた「冬至」の儀式に参列し「暦」などを受領する目的であったと推量されますが、それ以前に派遣されていた「遣唐使」達も同様にこのとき「洛陽」に集まっていたという可能性もあるでしょう。(むしろ「唐」政権により「洛陽」に集められていたという可能性さえあるでしょう。それは一種の「捕虜」としてです。)
 そして発生した「出火事件」の関連で彼等「倭国」からの人々は一斉にその身柄を収監されたということが考えられます。しかしこのときに「氷連老人」がその中にいたとすると「薩夜麻達」と一緒に「捕虜」となることはできません。明らかにそれ以前に「半島」にいなければならず、可能性としては『書紀』で「六五三年」に派遣された「遣唐使団」のうち遭難しなかった「吉士長丹」を「遣唐大使」とする一行がその目的を果たし帰国したという「六五四年」に、同時に帰国したかあるいはその途中「百済」に止まったかということが考えられます。(帰国が「百済」、「新羅」を経由したことはこの両国の送使を伴って帰国したことからも窺えます。)
 このいずれかであれば「六五九年」の遣唐使が派遣された時点ですでに「百済」国内にいることは可能であり、「新羅」が「唐」と連合して「百済」「高句麗」と対処する段階で「百済側」に立って行動していたとみることもできるでしょう。

 そもそもこの「冰連老人」の派遣は「白雉四年」(六五三年)に行われたものであり、「新羅」との間に緊張が走り、また「高句麗」と「百済」の間に結ばれた「麗済同盟」の活発化により、その「新羅」と「唐」との間が急接近している時期でした。
 また「倭国」としては「六三二年」という時点以降「唐」との正式な外交関係が途絶している状態であったため、「六四七年」(常色元年)に即位した「倭国王」は「唐」との正式な外交関係確立を目指し、そのために「新羅」を懐柔する作戦を立てたわけです。そのため「倭国」は「唐」の暦の受容など「唐」の政策にすり寄る形で関係改善を目指したものと思われます。しかし、意に反し「新羅」は「唐」との関係を強化する方向で動き出し、「倭国」にとっては「橋渡し」の役を果たさなくなってしまいました。
 「六五一年」には「新羅」からの使者を追い返す事件が発生した事もあり(「新羅」の服を捨て「唐」の服を採用したことに激怒した)、直接「唐」との間の関係を正常化する目的で「遣唐使」を派遣したものと考えられます。
 またこの時点(六五二年)に「倭国王」は死去したと推定され、代って即位した「新倭国王」の方針の変更により「唐」との親和政策を強化する方針の下派遣されたと思われます。
 このような時点での派遣は多分に「政治的」なものであったはずであり、彼ら派遣された「学生」「学問僧」などの中には「純粋」に「唐」の制度や仏教などを学ぶ者達以外に、「ロビイスト」的活動をその中に含んでいた者もいたと思われます。派遣された彼らは「唐」の都で過ごすこととなったわけですが、その間学業に励みつつ、それを兼ねて「情報収集」などの仕事を行っていたものと思われます。
 その後、更に「半島」の緊張状態が極限に達しようと言う時に、「唐」から「冬至の会」に参加するよう要請があり、これを千載一遇の好機と捉えた「倭国王権」は、最後の切り札的に「六五九年」の遣唐使を派遣したものと思われます。
 この時の遣唐使団には「蝦夷国」の使者が同行していました。これは実は「唐」に対する「示威行動」でもあったと考えられます。すなわち「蝦夷」という「唐」から見て「絶域」中の「絶域」とも言うべき場所さえも「支配」している、という「統治領域」の「広大さ」を誇示することにより、唐に対し「抑止力」としての効果を期待したものではないでしょうか。
 「倭国」としては「唐」など歴代の中国との交渉は長いわけであり、「倭国」の「領域」も既に「唐」としてはほぼ把握していたと思われますが、しかし「百済」をめぐる情勢が緊迫してくると、「倭国」に何らかの軍事的影響が及ぶ可能性が出て来たわけであり、国内では「副都遷都」を含め、各種の「防衛策」を講じていたものと思われ、「隼人」「蝦夷」についてもこれを「服属」させると共に、その事実を「唐」に「披見」する事で、「倭国」の「実力」と「版図」の広さを改めてアピールし、その事により「唐」に対し「軍」を派遣するなどの「行為」を抑制させるための「抑止力」として機能させることにしたものと推察されます。

 ところで、「薩夜麻」はその後解放されましたが、「冰連老人」が同時に解放されたのかどうかは不明ですが、彼はその後「七〇四年」の遣唐使船で戻るまで「唐」国内に居続けたものであり、「薩夜麻」が「唐皇帝」の元に「劉仁軌」により連行された際に「泰山」まで引率したものと推量されます。その後「博麻」や「薩夜麻」達が帰国したあとも「冰連老人」だけが帰国しなかったかあるいはできなかったということも考えられます。もちろん、それは「本来」の業務である「勉学」に努めるという意味もあったかもしれません。あるいは、引き続き「残留」して「唐軍」等についての軍事情報を収集すべきという命令が(薩夜麻から)与えられたという可能性もあり得ると思われます。彼はそもそも「軍事情報」を収拾するのが役割であった可能性があり、そうであれば、その「業務」を貫徹する様に指示が出たのかもしれません。
 またそれを口実として帰国を許可されなかったという可能性も考えられ、それは一種の「口止め」が行われたのではないかと思料します。この点については「大伴部博麻」の帰国が「六九〇年」という段階まで遅れた理由と同一ではないかと考えられ、彼も帰国が許可されなかったという可能性があります。

 ところで、「大伴部博麻」が帰国できた理由のひとつとしては「徳政令」があるかもしれません。「天武」「持統」両時代に出された「元本」と「利息」の双方について「乙酉年」以前についてはこれを免除するというこの「朱鳥の徳政令」は、「債務」を「労働」で支払っていた人たちにも適用され、彼ら「全員」が解放されたことを示します。
 これは「国内」に出されたものですが、「国外」で同様に「労働」による「債務」返済に従事していた人たちにもその恩恵が及んでいたのかもしれません。これは「戸籍」がある限りの者全てに適用されたという可能性もあるからです。
 ただし、「利息」「元本」共にその権利を失う「債権者」側にとっては、「大事件」であり、かなり強烈な「反感」や「拒否」があったかもしれません。または「政府」(「国家」)に対し「肩代わり」を要求するものも多数に上ったのではないでしょうか。
 これに対し全員であるかは不明ですが、一部の者には「肩代わり」することもあったのではないかと思料され、それに併せ「博麻」の場合も「債務」の「肩代わり」をしたと云うこともあり得ます。彼の場合は「主君」のために身を売ったのですから、国家がその賠償をして当然だからです。つまり「薩夜麻」等「博麻」の献身を知っていた人によって、「博麻」の捜索が行われ、発見された彼の「残債」を肩代わり(立替払い)したと言う事も考えられます。それにより彼は帰国できたのかも知れません。
 これに関しては、「天武」の葬儀の際に「倭国」を(たまたま)訪れた「新羅王子」に「博麻」の「捜索」と「支払い」を託したという可能性もあります。
 この「捜索」により「旧百済」領内で「債務」返済のため「労働」に従事していた「博麻」を見つけ、「唐」からの還りの「学問僧」に付けて帰国させたという可能性もあると思われます。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2017/02/06)旧ホームページより転載

コメント

三十年にわたる捕囚の理由について

2018年09月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」の帰国後「持統天皇」から出されたという「詔」によれば、彼は「土師連富杼等」の「唐人所計」を本国に伝えるために「身を売った」とされています。しかし、先に検討したようにこの時に帰国したのは「土師連富杼」ともう一人(弓削連元寶兒)が一緒であったもようです。彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。

 この「大伴部博麻」達は既に考察したように、「百済」の国内のどこかに「収容」されていた可能性が高いと考えます。
 このように「百済」からの帰国と仮定すると、その道のりは『魏志倭人伝』に書かれた「魏使」の行程と余り違わないかもしれません。そうであればその行程としては「陸行一月」程度以内及び「水行」は実質的には「数日」でしょう。「魏使」の場合は「帯方郡」からですから、水行期間が長かったと考えられますが、「熊津都督府」付近とするとほとんど「陸行」と考えられます。

 時も場所も違いますが、「古代ローマ」での「奴隷」の売買の相場は「年収」程度の金額が相場であったようです。また「秦漢」では「」の購入費用は代々「田一畝分」程度とされています。
 仮に「大伴部博麻」が体を売って得た金額が「新羅」での「年収」分と考えると、その金額は上に述べた帰国行程から見て「二人分」の「帰国費用」としては多すぎるぐらいではないでしょうか。
 このことは実際にはもっと少ない金額で帰国できた可能性が想定でき、そうであればその返済期間に自分自身の帰国費用の工面に要する期間を加えたとしても、「三十年」は余りに長いと考えられるものです。
 もし仮に「新羅」の平均年収程度を借り入れたと想定しても、「十年程度」で返済可能ではないかと思慮します。(収入の20パーセントを返済に充てるとする)
 そして「自分自身」の帰国費用の捻出に更に「五年」程度かかると想定した場合は「十五年」、これをいくらか大目に考えても「二十年」ぐらいの期間があれば帰国可能となると思われ、「三十年」という長期の滞在期間には「不審」が感じられるものです。
 また、天武紀には「遣新羅使」が数多く送られており、これを利用することはそんなに難しくなかったものと思われ、それにも関わらず帰ってこられなかったということに「不審」を感じるものです。
 つまり、三十年も滞在が長期化した理由は「別」にあるのではないかと推察されます。この理由として考えられるのは、「政治的」な理由ではないでしょうか。

 「大伴部博麻」は「六九〇年」になって「新羅」の船で帰国していますが、これは実は「薩夜麻」の死去の話を聞いて帰国したのではないでしょうか。つまり、彼は「薩夜麻」の生存中は、その帰還が「許されなかった」のではないかと思えるのです。
 彼の存命中に「大伴部博麻」が帰国すれば、「捕虜」となっていたこと、さらには「部下を売って帰国した」と「薩夜麻」にとっては印象の悪い話を流布される可能性があり(部下を売ったかどうかは別として)、これは「倭国王」としてははなはだ「不名誉」な事であり、民意が離れていく事を懸念したものと思われるのです。

 「薩夜麻」については『書紀』は帰国記事だけであり、その後のことが(その前もそうですが)一切書かれていません。「百済を救う役」及びそれに続く「白村江の戦い」で捕虜になった人物で「君」の称号で呼ばれるような「高位」の人物の帰還は彼しかいないのです。
 これら一連の戦いでは多くの人間が捕虜になった模様であり、「大伴部博麻」や「八世紀」に入ってから帰国できた「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等」等の人物などもいますが、彼らに対してはその時点の天皇より彼らの労苦に報いるような「顕彰の詔」と多大な褒賞が与えられています。であるとすれば、帰国した「薩夜麻」にも同様に「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう詔が発せられても良さそうなものですが、それらは「全く」記載されていません。
 もし、彼が取るに足らない存在であれば「郭務悰」を伴って帰国するなどの行動や、その帰国に際して「郭務悰」に先立って「対馬」の守備隊に「身分」を明かし、攻撃しないよう要請するなどの行動も不可能でしょう。(彼は「筑紫君」なのですから「対馬」の人間にとっては「既知」の人間であったと考えられます)
 そもそも「郭務悰」と同行している、という事は「郭務悰」はこの「薩夜麻」という人物について「熟知」していたと考えられるものです。つまり、「薩夜麻」が「筑紫君」であること、『書紀』には記載がないものの、推測によれば「倭国王」であり、少なくとも「百済遠征軍」の将軍の一人であったことなどです。
 彼の発言や行動あるいは指示が「倭国」では有効であることを承知していたからこそ、同行したと考えられ、逆に言えば「薩夜麻」の存在が「倭国内」で重要であることが推察されるものです。
 また、他の帰国者のように「褒賞」などを与えられ一種の「お茶を濁す」ような事も可能でしょうが、彼に対してはそのようなことをするわけに行かなかったことが「何も書かれていない」このとの「裏側」にあるのではないでしょうか。つまり、彼は「最重要人物」であったと思われ、そのような人物である「薩夜麻」が「帰国」後もそれなりの地位に復帰したであろう事は想像に難くないと考えられます。

 また「彼は」「筑紫君」という立場でしたが、「大伴部博麻」は「筑後の軍丁」ですから、「薩夜麻」の部下であったわけであり(だからこそ主君のために体を売ろうとしたと考えられますが)、そんな彼(大伴部博麻)に「薩夜麻」の立場を悪くするような「証言」ができるわけもないわけであり、彼(薩夜麻)がその後も生きていたであろう事は間違いないことと思われますから、彼のために「体を売った」とされる「大伴部博麻」が帰国できる条件が整わなかったものと考えられます。
 つまり「薩夜麻」の死去は「六九〇年」という年次にかなり接近した年であることが推定されるものです。そして、「やっと」帰って来ることができた「大伴部博麻」は「捕囚時」のことを話したのでしょう。その結果、「持統天皇」は詔を出すこととなったものです。
 その「持統」の詔では「朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」とされ、「薩夜麻」達を帰国させるのに「身を売った」ということが「尊朝愛國」とされ、最上の美徳であるように顕彰されていますが、それもそのはずであり「薩夜麻」が国内において「至上」の存在であったことをその過大とも誇張とも思える詔の表現が示しているようです。
 しかしこの「大伴部博麻」が帰国してから話した(話すことができるようになった)内容については、「多くの人々」が「薩夜麻」と結びつけて考え、そして受け取ったものと思われ、この「倭国王」の挙動に対して「失望と怒り」をもって受け止められたのではないかと思われますが、「持統」もそれを念頭においての「詔」であったという可能性もあるところです。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2016/12/06)旧ホームページからの転載

コメント

「大伴部博麻」の収容されていた場所についての考察(二)

2018年09月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」の収容先について「唐」の地である可能性が高いと推量したわけですが、他方「半島」のどこか(百済あるいは新羅の地)であるとみることもまた可能である様に思われます。

 先に見た「慶雲年間」の「捕虜」の帰国も、また『天武紀』の「捕虜」の帰国記事からも、当時の「捕虜」達が「」という半奴隷的立場に落とされていたことが明らかになっていますが、当時戦争捕虜が「」として扱われるのは通常のことであったものです。もし「博麻」達が「唐」に連れて行かれて「」ないしは「官」という立場となったとすると、この場合は「逃亡」(特に国外への逃亡)はかなり困難であったと思われ、「博麻」が身を売ったところで「唐国内」から脱出し、列島に戻ることはとても不可能であると思われます。
 また結果的に「博麻」は「身を売った」とされていますが、三十年経過の後に釈放されて帰国しています。この釈放は上で見た『続日本紀』の「刀良」等などとは当然異なるものです。「刀良」は「身を売った」わけではありませんし、釈放されたのは「長年月」年月経過して「老年」に達したための一種の「恩赦」のようなものであったと思われます。(そういう制度や運用は実祭にあったもののようです)しかし「博麻」の場合は明らかに「仲間の帰国費用」という「債務」を負い、その返済のために必要な期間「労働」に従事したものであり、その期間が過ぎたため「解放」されたものと考えられ、この二つは明らかにその「性質」が異なるものです。
 この「博麻」の場合は「律令」に言う「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。
「役身折酬」とは『養老令』「雑令」では「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。

(以下『養老令』雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」

(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」

 ここで書かれたような「債務返済」の一方法としての「役身折酬」というような規定を「博麻」達が知っており、それを自らに「適用」しようとしたのではないかと考えられます。(これは彼等に「律令」の知識があったことを示しており、この「六六〇年代」において「倭国」に「律令」が施行されていたことを「示唆」するものでもあります。)
 彼らはこれを「抑留」されていた場所で行おうとしたものであり、これは彼らが「官」や「」という立場ではなかったことを示しているでしょう。確かに『持統紀』の記事では「虜」となったとは書かれているものの「没」されたとは書かれていませんから、「」や「官」となったわけではないことが窺えます。
 元々このような返済方法は「良民」(自由民)にしか許されておらず、「官」のような立場にいる人間には、そのようなことは不可能であったでしょうし、そのようなことを考えるという「発想」がなかったものと思われます。
 「唐」に連行され、「」ないし「官」などという立場に「落とされた」人間が、更に「債務」を負い、そのために「労働」で返済しようというのは、基本的には「無理」な話であると思われます。そもそも「」の労働は「無対価労働」とされ、いわば「ただ働き」です。けっしてそれが何十年続こうと解放されるということはありませんでしたが、「良民」が「債務」を払いきれず「労働」で返済するという場合は「賠償」が済むと解放されるのが普通でした。(但し、債務があまりに多い場合はその労働期間も長くなり、「終身」「」同然に労働させられる場合もあったとされます)
 
 この事からの推論として、「彼等」は「唐」国内において「」でも「官」でもなかったこととなり、「自由民」として存在していたと推定されることとなります。そのようなことが実際に可能だったのでしょうか。そうは思えません。
 また「唐」国内では人身売買ができなかったと考えられます。「唐」で自分の身を売ったとすると、買ったのは「唐人」であることとなりますが、「唐律」では「人身売買」は「死罪」とされていました。「人」を掠(かすめる・さらう)し、掠売し、あるいは和売して「」と成したものは「死罪」とされていたのです。また、それを買ったものについても「別」に「罪」が決められており、「唐律」では「良人」を「」としては買えないこととなっていました。
 確かに彼等は「戦争捕虜」であって、「良人」でないのは確かですが、だからといって自由に「売買」ができたとも思えません。というより「戦争捕虜」だからこそ自由には売買できなかったという可能性があると思われます。それは、戦争は国家対国家で行われたものであり、「戦争捕虜」の「所有」は「国家」に帰するものと考えられるからです。(あるいは官となるのが通常)しかも、戦争終結に当たっては往々にして「捕虜同士の交換」などの「戦後処理」が行われるなど、外交活動の道具ともなるものです。
 彼等が収容されていた場所が「唐」国内であったとした場合は、一応「軍」の監視下にあったはずであり、そのような人間である立場の者を「買った」人物がいたとしたらまた不思議です。少なくとも、「唐」において、自分の身を売るとしても「買い手」が付かない可能性が高いと思われます。(そのような「リスク」を犯す意味がないと思われます)
 「」や「官」であったとすると「良人」ではありませんが、それは別の意味で売買はできないわけですから、いずれにしろ「博麻」が「身を売る」ということは「唐国内」ではできなかったという可能性が高いものと思料します。

 「持統の詔」に現れた彼等は割合自由に活動していたと思われ、「衣糧無きにより」とされていることから、逆に「衣糧」さえあれば帰ってくることが可能であると彼等が認識していたことを示すものですが、更に、彼等を「買う」というものがいたと言うことなどを総合すると彼等が収容されていた場所は「唐」の国内ではなく、「彼等」が「唐」の国まで連れて行かれたわけではないことを示しているとも思えるものです。
 これに関係していると考えられるのが『斉明紀』の「斉明」による「軍派遣の詔勅」です。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていました。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
 また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを想定すると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
 この「詔勅」により戦いが始められたとすると、『書紀』に書かれた「阿曇連」「阿部臣」の両者が将軍となっている派遣軍は一旦「新羅」に向かったものです。しかし、『書紀』にはこの戦いの情景が活写されていません。あくまでも「戦いの場」は「百済」であったかのように書かれています。これは「百済再興」という目的ならば首肯できるものですが、「百済支援」というのであれば「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。つまり「斉明」によるとされる「発遣の詔勅」の目的は「百済再興」ではなく、「百済支援」であり、そうであれば「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われることとなります。これがその一年後であって、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的であるなら、違和感はぬぐい得ないものです。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

 このため、戦略的「効果」としては薄いものになったと見られ、この後再度今度は「阿曇連」だけを大将軍として同様の戦いが行われます。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 この記事では「百済」に向かったように読めますが、少なくとも一部については「新羅」へ向かって「背後」を衝く作戦が行われたと見られます。この時は「阿曇連」の水軍が主体で戦うというより、「地上戦闘員」を多数擁していたと見られ、そのかなりの部分が「新羅」へ向かったものと思われ、彼らにより「上陸」作戦が敢行されたと見られますが、その中に「倭国王」も「親征」したものと考えると、彼とその周辺の人物達が一斉に「捕囚」となったとした場合、それは「新羅」の地であったという可能性が高いでしょう。
 そして「百済」が「唐」「新羅」の連合軍に敗れた後、彼ら(連合軍)は「旧百済」の首都であった「熊津」に「都督府」を設置しました。それに伴い、「薩夜麻達」は「重要人物」と言うこともあり、「新羅軍」の手に落ちた後は「旧百済国内」のどこか(「熊津都督府」からそう遠くない場所と思料される)へ移送され、「都督府」の監視下に置かれていたのではないかと推測されます。つまり、「唐軍」ではなく実質的には「新羅軍」の「捕囚」となったというわけであり、「唐国内」まで連行されたとは考えにくいこととなるでしょう。

 このように「旧百済」の国内で「捕囚」生活を送っていたと考えられるわけですが、この時「帰国費用」を「博麻」に「貸し付けた」(形としてはそうなる)人は、彼ら「博麻達」の立場や思惑、心情などを「知っていた」(分かっていた)ものと推察され、彼らに「同情的」な人物であったのではないかと考えられます。
 「百済」は元々「倭国」と深い関係にあり、これらのことは「博麻」に対して「融資」に応じ、帰国に要する費用を立替えた人物は「旧百済」関係者と推測され、彼は「百済」の「富貴層」に属する人物で、何らかの形で「倭国」と「関係」の深かった人物であったという可能性を想定させます。(「熊津都督府」の経営はもっぱら「旧百済国人」がこれに当たっていたとされることもこれを裏書きするものです)

 この「百済を救う役」とそれに引き続く「白村江の戦い」では推定で「総計七万四千人」という多数の「倭国人」が派遣されたものと考えられ、そのうちのかなりのものが戦死し、(多くは海戦での死者と考えられます)また、戦後一部のものについては帰国できたものの、かなりの数の人間(数千人以上ではないか)が「捕虜」となったものと思料されます。
 これだけ多数の「捕虜」が発生すると、彼等を一時的に収容する場所も複数必要となると考えられますし、「唐軍」と「新羅軍」の関係を見ると別々に戦っていたように見受けられ、その際の捕囚も各々の軍の帰属で収容場所も変わったとも見られます。その中には確かに「唐」まで連行されたグループもいたものです。
 その後、「倭国」との戦争状態が六七〇年代に終結したことを受け、その時点で「熊津都督府」の管理下にあった捕虜は解放されたものと見られますが、半島情勢がその後大きく変化し、「旧百済」の地であった「熊津都督府」も「新羅」に制圧されるところとなるなど、新羅」が「唐」を追い出して半島全体を支配する構図となったため、「唐」に連行されたグループの中には「帰国」が出来なくなったものもいたものでしょう。
 もちろん「衣糧」ないし「旅費」を持っていた「遣唐使」などはその一部のものが「新羅」経由で帰国できたものもいたようですが、全体としては帰国が大幅に遅れたものです。
 しかし、「旧百済」の地に「収容」されていたグループの大多数はその後「帰国」出来たものと考えられ、「百済」であれば、「倭国」ともそれほど遠距離ではありませんし、人身売買に関する「唐律」を「百済」が受容していたとも考えられませんので、「博麻」のように「身を売って」旅費を稼ぐというようなことも可能であったものと考えられるものです。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2015/08/15)旧ホームページを転載

コメント