古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「鎮将」と「都督」

2020年04月19日 | 古代史
 すでに「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「日本国」となった後いったん「倭王権」に戻り、その後再度「日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定しました。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった「百済を救う役」であり「白村江の戦い」です。この戦いでは「倭国側」の全面的敗北となったものですが、それは「高句麗」「新羅」の敗北とつながっています。それに関連して「百済鎮将」という名称が『書紀』に見えます。

「(六六七年)六年…
十一月丁巳朔乙丑。『百濟鎭將』劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この「鎮将」については通常「占領軍司令官」という通称的なとらえ方がされているようですが、「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされます。また「百済」制圧後は「熊津」に置かれた「都督府」が旧「百済」の地域全体を総管したものであることから考えても「百済鎮将」の「鎮」とは具体的には「都督府」を示す意義であり(「安西四鎮」など他の使用例も同様)、このことから「百済鎮将」とは「熊津都督」を意味する正式な用語であることがわかります。
 この「鎮」「将軍」という語に関して、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名です。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物悰看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここに現れる「鎮西」という用語を後代のものと見る立場もあるようですが、上のような「隋」「唐」の用語使用法との関連で考えるとこれはこの時点で使用されていたと見るのが実際には相当と思われることとなります。その意味でこの「鎮西筑紫大将軍」という記事は「筑紫都督府」の存在とつながるものとも言えます。つまり「筑紫」に「大鎮」が置かれ、「都督」として「大将軍」が任命されていたとすると整合するとも言えそうだからです。もっともそのようなことは想定できません。もし「大鎮」が「筑紫」に置かれたとすると当然「鎮将」たる「都督」が任命され、その役職として「将軍号」を持った人物が配置されると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなるはずです。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たりません。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきでしょう。
 確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われます。しかし、私見ではそうとは考えられません。
 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられます。それは第一に危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることです。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えません。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難でしょう。「熊津」でも「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲んで「劉仁願」は窮地に陥っています。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないというべきです。
 また通常「都督府」がおかれる場所はそれが戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものですから「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるものの、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味で設置する条件を満たしていないと思われます。
 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来いつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけです。その意味で「百済」と「高句麗」については征討の対象であったわけであり、征討後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったものとみられますが、元々「倭」は討伐の対象ではなかったと思えます。
 彼らと「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭国」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものです。このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえます。
 この人質を取る作戦が功を奏して当初の戦いでは倭国と唐が直接戦闘を交えることはなかったわけですが、それは「倭国」がその「唐」の意図を察知して作戦を変更し直接「新羅」をたたくこととしたことからでしょう。しかし「新羅」と戦闘になることは、以前に「高宗」から「璽書」を下され「危急の際には「新羅」に助力せよ」と指示されたことに反するものであり、その段階以降「唐」からは「朝敵」とみなされていたこともまた確かと思われます。
 しかしいずれにしても「倭」は当面の敵ではなかったものであり、当初から「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったと思われ、「璽書」に反する行動をとったことは確かではあるものの、そのことで「倭国」と戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われます。そうであれば「倭国」に「都督府」を設置する意義が認められず(ということは「都督」を任命する意義も認められないということになります)、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われるのです。
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2 コメント

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コメントを頂いて (james mac)
2020-04-24 21:29:08
服部様

コメントありがとうございます。

「都督府」の解釈についてはいろいろ考えられるとは思いますが、少なくとも「明確」な事実と、そこから確かに推測されることはそれほど論者により差があるとは思えません。それがブログに書いた、「「筑紫」に「都督府」を設置したという「唐」側の資料が絶無であること」であり、「「都督府」設置の要件の有無」です。
 この点について正確に反論することが「都督府」が「唐」が設置したものであり、「都督」は「薩耶麻」であるという論を成すものの最低の責務と思います。それなしでの反論が有効とは思えません。

 また、確かに「倭国酋長」が「泰山封禅」に出席させられていますが、だから彼が「都督」として任命されたとは言えません。このとき出席した国々は多数に渡り、特に「東夷」と「南蛮」はこのような儀典に欠くべからざる領域であり、それらも含めて多くの国々が出席したと思われますが、それら全てに「都督府」が設置されたわけでもなく、「都督」が任命」されたというわけでもありません。その意味でここに「倭国酋長」があったとしてそれと「都督」「都督府」の関係をそれほど関連して考えなければならないとは思われません。

 ブログ記事では「百済鎮将」が「唐」が設置した「熊津都督府」の司令官を意味するとしたわけですが、「筑紫都督府」が「唐」が設置したとは(同じ文章内であったとしても)確定的には言えません。それほど「単純」な話ではないと思います。少なくともこの表記部分はあくまでも『書紀』という日本側の史料であり、そこにある表記が「唐」による「都督府」設置の証拠となるわけでもありません。

 また、この「都督府」が「唐」が設置したというのであればそれがいつのことかということも問題となるでしょう。この「司馬法総」による「境部岩積」の送付時点で「都督府」があるというのですから、設置についてはそれ「以前」であることは明確ですが、該当しそうな事案は「劉徳高」等が来倭した時点らしく思われます。しかし彼等は『書紀』『旧唐書』の記述から見て「泰山封禅」が行われること、それには「倭王」だけではなく多くの列席者が必要であることを告げに来たものであり、この時点ではそれ以上の重要事項はなく、「都督府」設置という軍事的に微妙で煩瑣な作業を行う予定は全くなかったものと推測します。
 また同行したとされる「百済禰軍」などについても「墓碑」の文章から見て「倭国」へ「唐」との軍事関係の問題解決を目的として来たものと推定されますが、それは「都督府」設置という内容ではなかったと思われます。あくまでも「因果」を説いたものであり、自ら戦闘停止を行うよう説得に来たと見るべきでしょう。上の推測であれば「都督府」設置に彼が関わった可能性が強いですが、「墓碑」にはそのような表記はありません。
 また「薩耶麻」が「都督」であるとしても、当初設置された可能性のある時点(上に見るように「劉徳高」来倭時点)では、まだ「薩耶麻」帰国前ですから別の誰かがいたものこととなりますが、それは誰であったでしょうか。
 こう考えると「都督府」は「唐」が設置したものではないと見る立場にはそれなりに根拠があると思いますが、いかがでしょうか。
 
 ちなみに私見では、この部分は『書紀』の原史料であると思われる『日本紀』に書かれていたものをそのまま書いたものと思われ、「日本国」王権による「都督府」設置が行われたことを示すものと受け取るのが実際的と考えています。ただし現時点ではその点も含め確たるものをイメージとして持っているわけではありません。
 今後検討を要する点とは思います。
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都督の話 (服部静尚)
2020-04-21 12:15:24
深い知識と考察にいつも敬服しておりますが、
この倭国に都督府を設置しなかったという貴説には違和感を持ちます。
少なくとも、泰山封禅には新羅・百済などと並びで倭国酋長が参列したことが唐側の史料に記されています。また、郭務悰は2000人も引連れて倭国に来ています。引用された「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」の前者都督が唐の羈縻政策の都督で、後者都督はそうではない、と言うのはとても理解できない解釈と思えます。
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