古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

采女と兵衛

2024年01月21日 | 古代史
以下もまた以前投稿したものの再提出です。

『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。

「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」

 これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。
 またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよそ「半数」が、「釆女」として彼らの子女姉妹から一人ずつ選出していたように思われますが、では残りの半分からは何も選ばれていなかったのかというと、もちろんそんなことはなかったはずであり、それらからは「男子」つまり「舎人」あるいは「兵衞」が出されていたものではなかったでしょうか。
 「舎人」や「兵衞」は後の例からも地方有力者の子弟から構成されており、倭国王の至近で近侍・警護する役割を担っていたことから身元・素性のハッキリした人物である必要がありました。その意味では「釆女」と同様の選抜基準であったはずです。そう考えれば「釆女」を出していない残りの「伊尼翼」の子弟が「舎人」や「兵衞」として「王権」に近侍した可能性が高いと思われ、その人員数として「釆女」とほぼ同数の「六-七〇〇名」程度が想定できます。この数は後の左右兵衛府の兵員数として「八〇〇名」とあることとそれほど違わないことからも妥当性が高いと思われます。
 後の制度や例をみても「兵衛」と「釆女」は同基準で貢上するものとされているようです。以下の例では「筑紫七国」と「越後」に「兵衞」あるいは「釆女」を「貢」するようにとされています。 

「(七〇二年)二年…夏四月…壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。…」

さらに「養老令」(軍防令)を見ると以下のようにあります。

「軍防令兵衛条 凡兵衛者。国司簡郡司子弟。強幹便於弓馬者。郡別一人貢之。若貢采女郡者。不在貢兵衛之例。〈三分一国。二分兵衛。一分采女。〉」

 これを見ると両者とも同時に貢上する義務はなかったように受け取られます。つまり全郡から「兵衞」を出すという前提の制度ではあるものの、すでに「釆女」を貢いでいる場合は「兵衛」を出さなくても良いとされています。(これに関する『令集解』でも「謂。仮令。一国有三郡者。二郡貢兵衛。一部(一郡)貢采女。若其不等者。従多貢兵衛耳。」とあり、国司に対する義務として、国に含まれる複数の郡のうち兵衞を出すのは全体の三分二を下回ってはいけないと言う事のようです。)
 またこの規定は「「釆女」を既に選出している場合」の規定のようにも思われ、「釆女」というものが制度として先に決められていたようにも受け取られますが、それは「改新の詔」で「釆女」についてのものしか述べられていないことと関連しているように思われます。つまり「改新の詔」の中では「釆女」についての規定はあるものの、「舎人」についても「兵衞」についても何も書かれていないのです。(「仕丁」についての規定はありますが、彼等は一般の人達(農民など)からの選抜ですから全く別のものです)

「…凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者從丁一人。從女二人。以一百戸充釆女一人粮。庸布。庸米皆准仕丁。…」(大化二年春正月甲子朔条)

 しかし実際には「釆女」や「舎人」(あるいは「兵衛」)の始源となる制度はすでに『隋書俀国伝』時点で確実に存在していたものであり、既にかなり中央集権的状態があり、広範囲に統治を開始していたことが窺えます。ではそれらの成立はいつ頃であったでしょう。
 これら「舎人」「兵衛」や「釆女」は上に見たように「地方」の勢力から選ばれていたわけですが、「倭の五王」の時代には王権を支える勢力は「地方」と言うより「王権」に近い勢力が主体であったと思われ、そのような勢力のサポートにより「王権」が「共立」されていたという可能性も考えられるところです。たとえば「倭の五王」の「武」の上表文には「虎賁」という表現が出てきます。

「…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士『虎賁』、文武效功、白刃交前、亦所不顧。…」

 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は中国では「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。この「上表文」では「古典」に依拠した表現を使用し、「南朝」の「皇帝」など相手側に理解しやすいように言い換えていると思われますが、当然「倭国内」では別の呼称をしていたと思われ、それが「舎人」(あるいは「兵衛」)ではなかったかと考えられます。それは後の「藤原仲麻呂」時代(天平宝字二年(七五八年))に「兵衛府」が「虎賁衛」(こほんえい)と改称された例からもいえると思われます。
 その「舎人」や「兵衛」の代表と言ってもいいのが「大伴」「佐伯」「久米」等の氏族であったと思われます。彼等は「聖武天皇」の「陸奥出金の詔」やそれを引用した大伴家持の「陸奥出金歌詔」においても「海ゆかば」という彼等の家訓が示されているように、「皇帝」の至近に警衛している家柄であり、「虎賁」のような「王権」の至近で警衛する役割を行う「兵衞」のような職掌を代表する有力な氏族であったと思われ、彼等のような氏族のサポートにより維持されていた時代が「倭の五王」の時代であることが推測されるものです。

「万葉集四〇九四番歌」
「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
「… 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 『我れをおきて 人はあらじ』と いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの (一云 を) 聞けば貴み (一云 貴くしあれば)」(読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版角川書店」によります)

 ここでも確かに「梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り」というように、近侍しての護衛とその「御門」つまり「門衛」を行っていたことが彼等の自負として歌われています。
 彼等「久米」や「大伴」「佐伯」などは『書紀』によれば「神武」がまだ九州にいる頃からのいわば「同胞」であり「仲間」であったことは古田氏の「神武歌謡」の解析からも明らかであり、彼等は「神武」のような「王権中枢」と非常に近い関係があったことは明確ですから、「阿毎多利思北孤」の時代の「釆女」「舎人」とは時代の位相が全く異なる事は明らかであり、それを遡る時期である「倭の五王」の頃をその時期として措定するのが妥当と思われます。
 また、それは後の「兵衛府」が「中務省」という「倭国王」に直結する組織に配されていることからも窺えます。それは「王権」との「距離」が近いことを示すものであり、その始源についても「近かった」であろうことを示唆するものです。更にその「兵衛府」の長官が当初「率」と表記し「そち」と訓ずるとされていたことも重要です。
 この「率」はその「訓」として「そち」という「呉音」が想定されていることから「魏晋朝」時代まで遡上する起源を持っていると思われ、「率善校尉」「一大率」に使用されている「率」と同義・同音である可能性が強いと思われます。そのように「率」そのものの起源が古いと見られることはその「率」を以て「長官」としている「兵衛府」の組織自体もやはり歴史的なものである可能性を考えるべきでしょう。
 古代中国では「兵衛」は有力各豪族が自己の領域に開いた「軍府」の兵士を言い、「北周」以前から各地に存在していたものですが、これを「隋代」に再編成し「十二衛府」へと変更したものです。この段階で「府兵」と「禁軍」とに分かれました。「府兵」は「班田農民」で構成された「衛士」であり、「禁軍」は皇帝直属の「兵衛」であったものです。
 「倭国」にも「兵衛」のような、各々の諸国の有力者により編成された「軍団」を保有していたと思われますが、「倭の五王」の時代になり、いわば「大統一時代」、つまり「九州」やその周辺だけではなく、「東国」全般に影響力を及ぼすための(「戦闘」と言うより)「威圧行為」(それは「馬と剣」による)を行っていったものであり、その際逐次勢力下に置いた各国の有力者から(「質」の意味もありますが)「子弟」を徴発し、「倭国王」の周辺の警護に配置していったものではないでしょうか。これが「舎人」という制度へとつながっていったものと思われます。
 彼等は「倭国王」の至近に存在することとなるわけですから「氏素性」が明確であることが求められたものであり、そのような人物を父ないし祖に持つようなものだけが「近習できる」というある意味特権でもあったのです。これは「隋・唐」でも行われていた「宿衛」に非常によく似た存在であったと思われます。
 「宿衛」は「各諸国」(例えば「新羅」や「吐播」など)からある種「人質」として受け入れた人員を「皇帝」の近くでボディーガード役とするものであり、「新羅」からは「金春秋」の息子(金仁問)が「宿衛」とされていたという記録があります。後の『令集解』の「宮衛令」条でも「宿衛」について「宿衛。謂内舎人兵衛。」とされ、「宿衛」と「兵衛」更に「舎人」との関係が関連していることを示唆しています。
 彼等はそれまでの「倭王権」と近い関係にあった「久米」や「大伴」などの氏族とは異なり、新たに統治下に入った領域の氏族であり、ここにおいて「倭王権」の性質が大きく変化したことを示すと思われます。より広大な地域に権力を及ぼすようになると、その傘下に入った氏族の数も増え、彼等の発言力が相対的に増大しはじめた時期が「倭の五王」の最終段階つまり「五世紀末」ではなかったでしょうか。この時期付近で「釆女」「舎人」という制度が確立したのではなかったかと推察されるものです。
(続きます)


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