『書紀』に書かれた「大化の改新」の陰の主役とも言えるのが「藤原鎌足」です。「藤原鎌足」は「天武天皇」から元の姓である「中臣」に代え「藤原」姓を授かったものであり、「鎌足」の子供たちのうち、その「藤原」性を受け継ぐことを唯一許可されたのが「不比等」の子孫たちであったと『続日本紀』に書かれています。(他の子供たちは「中臣」姓に戻されています)
「文武二年(六九八)八月丙午十九。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。」
また、「不比等」は記録によれば、出生に「あるいきさつ」があり、両親のもとで育てることがはばかられたため、「田辺史大隈」のもとで育てられ、それにより、「一名」「史」(不比等)、と言うということになっています。「一名」とは「通称」のことであり「本名」ではありません。この時代「通称」はよく使用されていたようであり、たとえば「大伴馬養」の場合は「長徳」という「通称」(字(あざな)と言うべきか)が知られています。しかしこの「大伴馬養」の場合は「本名」(諱)も伝わっているものであり、「通称」だけが伝わっているというのは「希」ではないかと思われます。
また『公卿補任』などによれば「不比等」の実母は「車持君」の「娘」の「与志古」とも伝えられています。
「大宝元年条 中納言 従三位 藤原朝臣不比等 三月十九日任。叙従三位。廿一日停中納言為大納言。改直廣一授正三位。/内大臣大織冠鎌足二男(一名史。母車持国子君之女與志古娘也。車持夫人)。」
「田辺氏」と「車持氏」とは『新撰姓氏録』をみるといずれも「祖」を「豊城入彦命」としており、関係があったことが知られます。
左京 皇別 車持公 上毛野朝臣同祖 八世孫射狭君之後也 雄略天皇御世。供進乗輿。仍賜姓車持公
右京 皇別 田辺史 豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也
(『新撰姓氏録』第一帙/皇別)
つまり私たちが知っている「不比等」は単なる「通称」であり、「諱」つまり本当の名は終生わからないという状態になっているわけです。
彼についてはこのように謎が非常に多く(本名もそうですが)、その前半生については全く不明であり、『書紀』に登場するのは三十歳を超えてからです。『藤原家伝』にも「不比等伝」は設けられていません。「鎌足」の伝とされる「大織冠伝」「定恵伝」「武智麻呂伝」等あるものの実質的な「藤原氏」の祖とされる「不比等」については「伝」が建てられていないのです。
また、自分の娘(「宮子」)を「聖武天皇」に輿入れさせていますが、その地位は「夫人」(ぶにん)であり、他の氏族(紀朝臣および石川朝臣)の娘が「妃」であるのに対して身分が低いのです。
「妃」になるための条件としては当時「皇女」か「内親王」でなければならなったものであり、「紀朝臣」および「石川朝臣」は皇室と縁組みをしているのですが、「不比等」の場合は一般人(県犬養美千代)と結婚しており、「大化の改新」の立役者であり、大織冠を贈呈された人物の子供でありながら、皇室との関係が薄いのです。その理由として大きいのは「天智」の「近江朝廷」が「壬申の乱」で滅びたため、「中臣氏」も不利な立場になったことがあるでしょう。
当時「右大臣」であった「中臣金」は「近江方」としてただ一人「斬刑」とされていますし、その子供達は「流罪」となってしまいました。「鎌足」はそれ以前に(諸説あるものの)「死去」しています。その子供である「不比等」については全く記録に表れませんが、「流罪」となっていたという可能性もあります。それは彼が預けられていたとされる「田辺史」も「乱」に参加し敗北しており、彼のような「朝廷」の重臣ではなかった者についての措置は『書紀』に記されていないものの、中には「流罪」となったものもいたとして不思議ではなく、そのため、「不比等」にも「責」が及んだという可能性はあります。つまり「不比等」は「田辺史」とともにどこかに「流罪」となっていたという可能性が考えられるわけです。
このような「流罪」については「天皇」等主権者の交替時「大赦」が行われ「復権」していたと言うことが想定されますが、「不比等」の場合も「天武」から「持統」に交代後の「持統三年」段階で初めて『書紀』に登場します。これなども「天武」の死去にともなう「大赦」との関係が考えられますが、実際には「天武」の時代にも「大赦」は行われておりそれと齟齬するようにも見えます。これについては「既に配流」となっている者には適用しないという一言が加えられている場合があり、そのために「復権」できなかったと言うことが考えられるでしょう。
「(六七六年)五年…
八月丙申朔…
辛亥。詔曰。四方爲大解除。…。
壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。『唯既配流不在赦例。』…」
「天武」の時代の「大赦」は「壬申の乱」の敵側の関係者を想定して、彼らについては「大赦」の対象としないという方針ではなかったかと思われるのです。
その「不比等」等の「配流」の地について考えた場合参考となるのが「不比等」や「鎌足」など「中臣」という氏族について「常陸」の「鹿島」が出身地である、という伝承があることです。
茨城県の鹿島神宮に伝わる『八幡宮御縁起』には以下のような文章があります。
「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」
また『常陸国風土記』によれば「香島郡東大海 南下総常陸堺安是湖 西流海 北那賀香島堺阿多可奈湖/,古老曰 難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世 己酉年 大乙上中臣/■子 大乙下中臣部兎子等 請総領高向大夫 割下総国…」とあり、「中臣氏」とその「部民」である「中臣部氏」が「常陸」の領域において現地の首長層として存在しているようです。
また「謡曲」の「香椎」の中では以下のように描写されています。
「(前略)干珠といふは白き玉。満珠といふは青き玉。豊姫と右大臣に持たせ参らせて。三日と申すに龍宮を出で。皇后に参らせさせ給ひけり。かの豊姫と申すは。川上の明神の御事。あとへのいそらと申すは。筑前の国にては。志賀の島の明神。常陸の国にては鹿島の大明神。大和の国にては春日の大明神。一体分身同体異名現れて。御代を守り給へり。(後略)」
これらを通じて言えることは、「筑前国鹿の島(志賀の島)の明神」について「筑紫」が「本社」であり、その分社が「常陸」と「大和」にあるとされており、これらのことは「筑紫」と「常陸」の関係、及び「阿曇磯良」と「中臣氏」との関係が深いことを物語っています。(「常陸」の領域は「土器」も「九州」のタイプが出ますし、「装飾古墳」もあり、深い関係があったと考えるべきでしょう)
その「阿曇磯良」を祀っている神社の本社は「筑紫」の「阿曇磯良」神社です。この神(人物)は「阿曇族」の守り神であると同時に「宗像」など他の海人族の信仰も多く集めていたものです。「常陸」に「鹿島明神」として「阿曇磯良」が祀られている、という事は、『常陸国風土記』の記述が不自然ではなく、「常陸」に「中臣氏」の基盤があったことを強く推定させるものです。
これらのことは「中臣氏族」の一人と考えられる「不比等」についても「関東」(常陸)の出身ではないかという疑い(可能性)を示唆するものですが、それはまた「不比等」が「関東」に流されていたのではないかという上記の可能性にもつながるものです。
(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して転載)