古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『新唐書日本伝』と漢風諡号

2018年12月29日 | 古代史

 『新唐書』の「日本伝」には「天之御中主」以降の各代の天皇名が記入されており、「光孝天皇」まで書かれています。

(以下『新唐書 列傳第百四十五 東夷 日本』の上からの抜粋です)

「…自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曽孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閑 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極
 其俗椎髻無冠帶 跣以行幅巾蔽後 貴者冒錦 婦人衣純色長腰襦結髪于後 至煬帝 賜其民錦綫冠飾以金玉 文布爲衣 左右佩銀長八寸 以多少明貴賤
 太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢 遣新州刺史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還 久之 更附新羅使者上書
 永徽初 其王孝德即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子總持立
 咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云
 長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物 朝臣眞人者猶唐尚書也 冠進德冠 頂有華四披 紫袍帛帶 眞人好學能屬文進止有容 武后宴之麟德殿授司膳卿還之
 文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜
 開元初 粟田復朝 請從諸儒授經 詔四門助敎趙玄默即鴻臚寺爲師 獻大幅布爲贄 悉賞物貿書以歸
 其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡 歴左補闕儀王友多所該識 久乃還
 聖武死 女孝明立 改元曰天平勝寶
 天寶十二載 朝衡復入朝 上元中 擢左散騎常侍 安南都護
 新羅梗海道 更明 越州朝貢
 孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立…」

 この『日本伝』は、一般には「九八四年」に東大寺の僧「奝然」(ちょうねん)が「宋」の皇帝(太宗)に献上した『王年代記』が原資料であると推定されているようです。しかしこの『王年代記』というものもその正体が不明のものですが、その内容を見ると『古事記』の資料に『書紀』を接続したような奇妙さがあります。(初代が「天御中主」というのは『古事記』と同じですし、『書紀』中の「一書」に近いともいわれます)
 その『親唐書日本伝』の各代の天皇の名称に、一部「不審」な点があります。

 そもそも現在と違い「活字」ではなく、当時は「毛筆」で書かれていたものと考えられますから、誤字脱字ないし読み違いなどはあり得ますが、(「敏達」が「海達」になっていたり、「推古」が「雄古」になっていたりする)以下の例はそれとは異なると考えられます。
 まず、「各代」の天皇の「漢風諡号」が書かれているのに対して、少数ではありますが「和風名称」(諡号ではない)で書かれているものがあるのが気になります。
 例えば「孝徳」の次が「天豊財」と書かれています。

「…未幾孝德死、其子『天豐財』立。死、子天智立。…」

ここは「斉明」とあるべきところですが「漢風諡号」ではなく「和風諡号」が書かれています。
 他にも「称徳」についての記載と思われるところに同様に「和風諡号」である「高野姫」とあります。

「…孝明死、大炊立。死、以聖武女『高野姫』為王。死、白壁立。…」

 また、『書紀』や『続日本紀』などと「明らかに」食い違う記述も見受けられます。(次代の天皇を常に「子」ないし「女」と表現していることは除いて)
 それは「文武」以降の各代の「帝紀」です。

「…文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。…」「…聖武死、女孝明立、改元曰天平勝寶。…」「…孝明死、大炊立。死、以聖武女高野姫為王。死、白壁立。…」

 これは「文武」-「元明」-「元正」-「聖武」-「孝謙」-「淳仁」-「称徳」-「光仁」という『続日本紀』の流れと明らかに整合していません。
 古い時代のことが合わないならまだしも、割と最近のことであって、なおかつ「九世紀」の「日本国王朝」から見るとある意味「画期」的であり、その前までの「王朝」とは「一線を画する」ものであったはずの「八世紀」の各天皇についての情報が混乱しているように見えるのは不審としかいいようがありません。
 上のうち「阿用」は「阿閇」とも「阿部」とも呼ばれた「元明」を指すものと思われますが、やはり「漢風諡号」ではありません。また、「元正」(氷高)は完全に脱落しています。「大炊」は「廃帝」とされた「淳仁天皇」であると思われますから、「漢風諡号」がないのはまだ理解できますが、「光仁」についても「白壁」という「王名」がそのまま使用されています。
 つまり七世紀では「天豐財」、八世紀では「阿用」とされる「阿部」(元明)、「高野姫」と「白壁」については「漢風諡号」がつけられていないこととなります。

 この「漢風諡号」は有力な説として「淡海三船」が「天平宝字八年(七六四年)に「一括」で撰進されたとされていますが、この『王代記』ではそこには全ての天皇に「漢風諡号」がついていたわけではないことが示唆されることとなります。
 つまり上に挙げた「四個所」(四人)の天皇については当初「漢風諡号」が何らかの理由でつけられていなかったのではないでしょうか。
 しかもこの中に「重祚」したとされる天皇が二人とも含まれており、しかもその二回目の即位の方が漢風諡号の対象となっていないように見えるのが注目されます。(しかも共に「女性」であるという共通点があるようです。)

 この天皇達の治世はいずれも「淡海御船」以前か同世代であり、他の天皇達と違い「一括」で「諡号」がされなかったことについての事情が同様であった可能性があると思われます。 「諡号」は中国では本来「生時」の行いを評定し、それに基づき『逸周書』『諡法解』などの「書」に根拠を設け、その定義によって選定されたものです。
 しかし、「倭国」では「天皇」の諡号については「生前」の業績に応じた命名をしていなかったというのが定説になっているようです。しかし、上に挙げた状況を見ると、「確かに即位した」と「淡海三船」が「認定」した天皇だけが「漢風諡号」を得ているようにも見えます。その意味からは、彼らは何らかの理由により「正式即位」と認められていなかったという可能性があると思われます。つまりその各々の「重祚」という事情や、その在位時点の「悪行」が何らかの影響を与えた結果「漢風諡号」が付与されなかったという可能性があるのではないかと思われるのです。
 たとえば、「皇極」は、「斉明」として重祚して以降は「狂」という文字が付くほど「土木」「建築工事」を多発し、そのために「民」が疲弊し、呪詛の声が巷に溢れたとされています。その死去にあたっても「筑紫」の『朝倉社』の神木を切って「宮殿」を作ったことから「神の怒り」があったように書かれています。

「(斉明)七年(六六一年)…
五月乙未朔癸卯。天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時。斮除朝倉社木而作此宮之故。神忿壌殿。亦見宮中鬼火。由是大舎人及諸近侍病死者衆。
丁巳(二十三日)。耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。伊吉連博徳書云。辛酉年正月廿五日。還到越州。四月一日。從越州上路東歸。七日。行到須岸山明。以八日鷄鳴之時。順西南風。放船大海。々中迷途。漂蕩辛苦。九日八夜。僅到耽羅之嶋。便即招慰嶋人王子阿波岐等九人同載客船。擬献帝朝。五月廿三日。奉進朝倉之朝。耽羅入朝始於此時。又爲智興傔人東漢草直足嶋所讒。使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神。震死足嶋。時人稱曰。大倭天報之近。

秋七月甲午朔丁巳。天皇崩于朝倉宮。」

 この流れをみると「神の怒り」により「大舎人」など近侍しているものに死者が多く出たように書かれているとともに「博徳」の記録にも「讒」するという悪行を行った「足り島」という人物が「大倭天報」により「震死」するという事変が起きており、その延長に「斉明」の死があるように思われ、「斉明」の死因に「神罰」が関係しているかのようです。

 また「孝謙」は「淳仁天皇」(淡路廃帝)を排除し、「称徳」として「重祚」して以降「権力」を専断することが多発し、「吉備真備」あるいは「道鏡」などの「近臣」を利用して「国政」を「私」したとされています。
 また「白壁」は一旦「平民」に落ちた人物ですし、「元明」は「持統」や「斉明」とほぼ同じ事情により即位したものであり、「皇太子」がいないか幼少の場合に「皇太后」が代理で国事を遂行するという本来の意義の「称制」を行ったのではないかと考えられ、そのような人物に対しては「漢風諡号」を与えていないのではないかと考えられます。
 特に「元明」と「白壁」は、いずれも「皇太子」ではない、つまり「正統」とはされていなかった人物であり、「漢風諡号」が付与されていないように見える事はそのような人物が「即位」したことに対する「異議」の表明でもあったのではないでしょうか。
 このようなことも含め、「生時」の「業績」等を「評定」した結果、「漢風諡号」をつけることがためらわれたか、あるいは「諡号」を付与するに足らないと判定されたか、いずれかの場合に「和風名称」や「王子名」、「王名」などによる表記となっているのではないかと考えられるものですが、この事から現在の『書紀』の成立が『続日本紀』に記されているような「七二〇年」ではなかったという可能性があるものとおもわれますが、同時に『続日本紀』についても同様に本来の『続日本紀』は現在私たちがみているものとは異なっていたという可能性があることとなるものです。


(この項の作成日 2012/11/25、最終更新 2015/05/04)(ただし旧ホームページ記事に加筆して転載)


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