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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(続・番外編)

2013年12月23日 | 古代史

 「伊吉博徳言」に中に書かれた、「韓智興」の供人である「西漢大麻呂の讒言」の内容については、「書紀」では全く触れられておらず「不明」なわけですが、当初はこの遣唐使達については、この「讒言」により「唐朝に罪あり」とされ「流罪」が決定し、さらに「韓智興」については特に重い罪である「三千里の外」への流罪とされることとなったと言うぐらい「重大」な事案であったものです。
 しかし、ここで彼「西漢大麻呂」が為した「讒言」が本当に「讒言」という言葉通り、根拠のないものであったなら「我客」が「唐朝に罪あり」とはされないでしょうし、もし事実なら指摘した側である「韓智興」が「流罪」になる必要はないと思えるものです。このあたりの「伊吉博徳書」の記述には「不審」が感じられるところです。
 実際には「韓智興」側の受けた罰の方が大きいと見られますから、やはり「讒言」であったのでしょうか。しかも、「讒言」は「供人」であるのに対して実際の罰は彼の主人である「韓智興」本人が受けています。このことは「唐」の側から見ると「重罪」と疑われる何かがあったと推察されます。
 ここで「韓智興」に適用された「三千里の外」への「流罪」というのは、当時の「流罪」の中では最高刑であり、死罪に次ぐものでした。このような准極刑と言えそうなものを適用される罪というのはよほど重大な犯罪であり、ここで考えられるのは「国家反逆罪」的なもの(謀反)であったのではないかと考えられます。
 「唐律」では「謀反」とは「皇帝」に対し「暗殺」などを企てることを言い、これに加わった者は、主犯であるか従犯であるかを問わずみな「死罪」となると規定されています。そして、この時「西漢大麻呂」の「讒言」に関係しているのではないか、つまり、「謀反」と考えられる事件が実際に起きています。

 「十一月一日,朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中,倭客最勝。後由出火之亂,棄而不復檢。」

 つまり、「冬至之會」なるものがあり、そのため「諸蕃」の国々が集まっていたのですが、「出火」事件が起き中止となっていたのです。そしてその約一月後に「西漢大麻呂」の「讒言」事件が発生するわけです。
 この時の「出火」事件が「乱」と称されていることからも「謀反」、つまり「皇帝」に対し「危害」を加えようという意図を持ったものであったと認定されたものと考えられ、関係者に対し徹底的な捜査が行われたものと考えられます。その過程で「西漢大麻呂」が「伊吉博徳」等の遣唐使団中に犯人がいる、という事を上申(自白)したのでしょう。

 「十二月三日,韓智興傔人西漢大麻呂,枉讒我客。客等獲罪唐朝,已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因即免罪。」

 この約「一ヶ月」という期間は「唐」の司法関係者により、この「出火」が「事故」なのか「事件」なのか両面より捜査されていたものと考えられ、そのような中で、「西漢大麻呂」の口から、この「出火」に対し「皇帝」に対し危害を加えようという意図があったこと、それは「主導」したのが「遣唐使節」の誰かである、ということが話されたのではないか、そしてそれを信じた「唐」の司法関係者により、「遣唐使」の誰かが「逮捕」されたのではないかと考えられるものです。
 彼らがそう信じた理由というものも「百済」「高麗」と「倭国」の関係を疑っていたからであると考えられ、そういう意味で「神経過敏」になっていたものでしょう。しかし、同時にそのことを知っていた「西漢大麻呂」についても嫌疑がかけられ、その取り調べの過程で彼の主人である「韓智興」の名前が出たのではないでしょうか。 
 「唐」側の判断としては「韓智興」は以前より「唐」の都に滞在している人物であり、到着したばかりの遣唐使よりもこの犯行に対し「主」たる役目であった、と判断したのかもしれません。それが「死罪」でないのは「外交使節」の一員だからであり、特に微妙な時期の半島情勢に関わる出来事でもあり、倭国と全面的な反目は避けるべく「一等」罪を減じ「三千里」の流罪としたのではないかと推察されます。
 
 この時の「出火の乱」が単なる「事故」ではなかったのはその直後に行われた「人事」からもいえると思われます。

「舊唐書/本紀 本紀第四/高宗 李治 上/顯慶四年」
「(顯慶)四年…閏十月戊寅(五日),幸東都,皇太子監國。戊戌(二十五日),至東都。
十一月,以中書侍郎許圉師為散騎常侍、檢校侍中。戊午(十六日),兼侍中辛茂將卒。癸亥(二十一日),以邢国公蘇定方為神丘道總管,劉伯英為禺夷道總管。」

「資治通鑑」「顕慶四年条」
「閏月,戊寅,上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌,車駕至東都。
十一月,丙午(四日),以許圉師爲散騎常侍、檢校侍中。
戊午(十六日),侍中兼左庶子辛茂將薨。
思結俟斤都曼帥疏勒、朱倶波、謁般陀三國反,撃破于闐。癸亥(二十一日),以左驍衞大將軍蘇定方爲安撫大使以討之。」

 これらの記事群は、何気なく見過ごしてしまいそうになりますが、十一月一日に「出火の乱」があったとすると、その三日後の「四日」に「侍中」について一種のテコ入れが行なわれている事実が注目されます。「侍中」とは皇帝の至近に仕える者達であり、皇帝からの問いに答えたり、身辺に気を配るなどの責を負っていたものです。この時点では「皇帝」はまだ「東都洛陽」に滞在中であり、「侍中」も帯同していたと思われます。その「侍中」に対して「中書侍郎許圉師」を「散騎常侍」に任命し、「侍中」を「検校」、つまり「調べて、不正を糾す」などの仕事をさせることとしたようです。またその「侍中」の「長」ともいえる「侍中兼左庶子」である「辛茂將」が亡くなるという「異変」が起きています。そしてその直後「蘇定方」を「神丘道總管」とし「劉伯英」を「禺夷道總管」としていますが、これは「対百済戦」の行動開始といえます。この流れは「侍中」に関する事と「百済」に関する事が関係しているという可能性を示唆するものです。 さらにその日付は上に見るように「出火の乱」の捜査期間内であり、上の記事直後の「十二月三日」に「讒言事件」が発生するわけですから、それらに関連がないと考える方が困難です。
 つまり、この事件を承けてすぐに「侍中」つまり「皇帝」の側近のメンバーに対する調査が行なわれたらしいこと、それを指揮するために「許圉師」を「散騎常侍」に任命していること、その直後「侍中」の主要メンバーである「辛茂將」が亡くなっていることが知られ、この死去が「出火の乱」に対しての何らかの責任をとったものではないかと推察されるものです。(警備上のことか)でなければ「出火」の災に負傷してそのために亡くなったというようなことも考えられます。
 そして、「遣唐使」達は「海東の政」という軍事作戦の遂行の支障となるため帰国できないというだけではなく、「自由行動」を制限されることとなったという訳です。
 上でみるようにそれ以前に既に「蘇定方」「劉伯英」という将軍を対百済戦へと派遣することが定められており、これらのことからこの時の「出火の乱」がそれらの行動の「契機」となったことらしいことが推定できます。
 つまり「唐朝」としてはこの「出火の乱」について「謀叛」と見たと思われ、いわば「テロ」があったと考えたものと思われます。それが「倭国」からの遣唐使の誰かによるものであるという(「大麻呂」による)「自白」があったものであり、それは「百済」から「紛れ込んだ」人物によると判断されたものと思われ、そのため「唐」としてはその「本体」である「百済」に対して「制裁」を加えるということとなったものと見られます。(新羅「武烈王」からの援軍要請があったことも一つとは思われますが、既にそれ以前から行動が開始されているようです)

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「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(番外編)

2013年12月23日 | 古代史

前回の記事で検討した「伊吉博徳書」については、彼が「遣唐使」として派遣された際の「帰朝報告書」であるという考えもあるようですが、そうは思われません。なぜならその「伊吉博徳書」の中に「朝倉朝廷」に帰国してから起きた事件について記述があり、その内容は「帰朝報告書」としては「不適切」と思われるものだからです。

 彼ら「伊吉博徳」を含む遣唐使団は、「唐皇帝」から「海東の政」があるから還すわけにはいかない、とされ「洛陽」と「長安」に離れて「幽閉」されてしまい、「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により滅亡した後になってから解放され、「六六一年」になって帰国したわけです。この際の事情は「伊吉博徳書」によると、帰国途中船が迷走し「耽羅」(済州島か)に流れ着いた後、「筑紫」の「朝倉の朝廷」に到着し「奉進」、つまり「帰国報告」を行ったわけですが、そこには以下のように書かれています。

「又為智興傔人東漢草直足島所讒 使人等不蒙寵命。使人等怨 徹于上天之神 震死足島。時人稱曰 大倭天報之近。」

 この記事については「通常」は「唐朝廷」における話と思われているようで、「寵命」は「唐の皇帝から」のものと理解されているようです。つまり、先ほどの「西漢大麻呂」の「讒言」事件と同じ内容の重複記載と考えられているようです。「体系」の「頭注」も「断定」は避けつつ「同様の記事である」という言い方をしています。
 しかし、そう考えるには以下の不審点があります。

 〔一〕この「伊吉博徳書」の話の展開はほぼ「時系列」に沿っています。もしこの「足島」讒言が「洛陽」での話であったとすると、その時点での記録がされていてしかるべきですが、「三千里流罪」事件時点では書かれていません。「倭国」に関係している人物が「死亡」しているわけですし、それに関する記事がその時点で書かれないということはあり得ないものと思われます。

 〔二〕また、仮に「震死足島」が「洛陽」であったとすると「唐」国内で起きた事案に対して「大倭」の「天」の「報い」であると表現されていることには強い違和感があります。古代においては「神」の「領域」(神域)は無限に広いわけではなく、「依り代」があれば別ですが、なければ「祭神」として祭られている場所の「中」(境内など)では神威が示されても、そこを離れるとその「有効性」が著しく減ずるというものではなかったかと考えられます。

 〔三〕また「足島」が「洛陽」で「讒言」した「報い」が「倭国」に戻ってから起きたのだとすると「大倭天報之近」というように、「怨み」が神に通じて効果が出るまでが「近い」(早い)という表現されていることと齟齬するでしょう。この「讒言」が「西漢大麻呂」の「讒言」と同一事象であると考えると、「六五九年十二月三日」の事件であることとなり、帰国したのは「六六一年五月二十三日」ですから約一年半もあるわけであり、とても「近い」とは言えないわけです。

 〔四〕さらに、「東漢草直足島」の「震死」に関連すると思われるものが、この「伊吉博徳書」が挿入されている直前の記事です。その記事は天皇が「朝倉」に「遷居」した際に「朝倉社の木」を切って神の怒りを買い、鬼火が出たり、近習するものに病死者が出たりした、というものです。

「斉明六年五月 乙未朔癸卯 天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時 斮除朝倉社木而作此宮之故 神忿壞殿。亦見宮中鬼火。由是大舍人及諸近侍病死者衆。」

 この記事に続けて上で見た「徹于上天之神 震死足島」という「伊吉博徳書」に繋がるわけです。
 どちらも「神」の怒りに触れて死ぬという共通点があり、これらの記事を並べている事から、これら二つの事件の間に「関連」があるということを示唆しているものと思われます。
 このことは、この「東漢草直足島所讒」から始まり、「震死足島」ということとなったという一連の記事内容が、「帰国時点」での「朝倉の宮」における事象であることを傍証しているものと考えられるものです。
 つまりこの「讒言」事件は、帰国した「朝倉」の朝廷でも「韓智興」の供人に「讒言」されて「倭国王」から「使人等不蒙寵命」と云うことになったという顛末と考えられるのです。
 「韓智興」本人はこの時帰国していないものと考えられますが、(前段参照)彼は「供人」を「伊吉博徳」らの遣唐使とともに帰還させ、事の顛末について「報告」したものと思われます。
 「韓智興」は一時「三千里の外」への流罪とされるなど、唐国との間に重大事案を引き起こしたわけであり、彼は至急その報告をする必要(義務)があったでしょう。そのため「供人」を「伊吉博徳」等「遣唐使」の帰国に併せ派遣したものと思われます。それが「東漢草直足島」だったのではないでしょうか。そして、その「朝倉朝廷」への報告の時点で再び「讒言」をしたというわけです。つまり「東漢草直足島」にしてみれば、正確に報告すると自分と自分の主である「韓智興」に責が及ぶ事を懸念したものと思われ、彼と彼の主人である「韓智興」の行動について「正当化」する「言い訳」を行った際に、事実と違うことを述べたのかもしれません。その内容が「伊吉博徳」等の方に、より事件の原因があるかのようなものだったのでしょう。そして、彼らの帰国時点(六六一年五月現在)の「朝倉朝廷」の倭国王はその時「韓智興」側の話の方を信じたというわけであり、そのため「寵命」を受けられなかったと言う事と推察されます。このことを「伊吉博徳」等が「怨んだ」ところ「直ぐに」「上天之神」に伝わり「震死足島」となった、ということから「大倭天報之近」という表現になったものと考えられます。このように解釈すれば、彼らはすでに「倭国」に帰っているわけですから、「大倭」の「天」の「報い」という言い方もうなずけるものですし、「怨ん」でから「近い」という表現もまさにその地のことですから、その通りであると考えられ、これらのことはこの「足島讒言」という事件が「洛陽」滞在時点での事象でないことを証明するものと考えられます。
 また、ここでいう「寵命」は「天子の恵み深い命令」のことであって「お褒めの言葉」ではないと思われます。これを「唐皇帝」からのものという理解が大勢のようですが、当然「倭国王」からのものであり、本来は帰国した彼らの業績を踏まえた、次の新たな「業務命令」をいうものと思われますが、それを受けられなかった、という事であり、言ってみれば、ここで「お役ご免」という事となったものと推定されるものです。

 このような内容を含んでいる「伊吉博徳書」が「帰朝報告書」であり当の「朝倉の朝廷」に提出されたと考えるのは「失当」ではないでしょうか。上の文章の問題の部分は、その「朝倉朝廷」との「軋轢」が書かれているとも言えるものですから、これは「報告書」としてはなはだ「そぐわない」ものと考えられ、この「伊吉博徳書」が本来「公的」な資料ではなかったことを物語っているものと推察します。
 また、このような「外交」という国家の重要な事業についての記録を「私的」資料に依拠しているという事からも、この時(「八世紀」)の王権は「外交」に関する「記録」や「資料」が非常に少なかったものと思料されます。

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「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(三)

2013年12月23日 | 古代史

 この「大伴部博麻」達は既に考察したように、「百済」の国内のどこかに「収容」されていたものと推察されます。
 このように「百済」からの帰国と仮定すると、その道のりは「魏志倭人伝」に書かれた「魏使」の行程と余り違わないかもしれません。そうであればその行程としては「陸行一月」程度以内及び「水行」は実質的には「数日」でしょう。「魏使」の場合は「帯方郡」からですから、水行期間が長かったと考えられますが、「百済」からだとするとほとんど「陸行」と考えられます。
 時も場所も違いますが、「古代ローマ」での「奴隷」の売買の相場は「年収」程度の金額が相場であったようです。
 仮に「大伴部博麻」が(彼は「奴隷」つまり「」となったわけではないと思われますが)体を売って得た金額が「百済」での「年収」分と考えると、その金額は上に述べた帰国行程から見て「二人分」の「帰国費用」としては多すぎるぐらいではないでしょうか。
 このことは実際にはもっと少ない金額で帰国できた可能性を考えさせ、そうであればその返済期間に自分自身の帰国費用の工面に要する期間を加えたとしても、「三十年」は余りに長いと考えられるものです。
 もし仮に「百済」の平均年収程度を借り入れたと想定しても、「十年程度」で返済可能ではないかと思料します。本来労働で得られるはずの収入の20パーセント程度を返済に充てることは可能と思われるものの、実際の労働対価がもっと低い可能性があるためせいぜい10%程度を返済に充てるとすると返済終了まで10年掛かる計算となります。(当然「逃亡」されては困る訳ですから、自由は拘束されているという仮定です、つまり家賃、食費はそこから天引きされると見る訳です)
 そして「自分自身」の帰国費用の捻出に更に「五年」程度かかると想定した場合は「十五年」、これをいくらか「辛く」考えても「二十年」ぐらいの期間があれば帰国可能となると思われ、「三十年」という長期の滞在期間には「不審」が感じられるものです。
 また、天武紀には「遣新羅使」が数多く送られており、これを利用することはそんなに難しくなかったものと思われ、それにも関わらず帰ってこれなかったということには何らかの「理由」があったと考えられます。
 つまり、三十年も滞在が長期化した理由は「別」にあるのではないかと推察され、考えられるのは「政治的」なものではなかったでしょうか。つまり、彼は「薩耶麻」の生存中は、その帰還が「許されなかった」のではないかと思えるのです。

 「大伴部博麻」は「六九〇年」になって「新羅」の船で帰国していますが、これは「薩耶麻」の死去の話を聞いて帰国したのではないかとは考えられないでしょうか。
 彼の存命中に「大伴部博麻」が帰国すれば、「部下を売って帰国した」と「薩耶麻」にとっては印象の悪い話を流布される可能性があり(事実であったかはともかくとして)、それははなはだ「不名誉」な事であり、民意が離れていく事を懸念したのではないかと思われます。
 そうでなければ、「薩耶麻」達(土師連富杼等)は自らが帰国した後、「大伴部博麻」の救済措置を講じなかったはずはないと思われます。彼の献身に酬いるためにも彼を捜し出し、借金を返済し帰国させることはいくらでも可能であったはずです。現実はそれが行なわれなかったことを示している訳ですから、彼の帰国には別の意味の重大な支障があったことを示します。

 そもそも「郭務宗」と同行している、という事は「郭務宗」はこの「薩耶麻」という人物について「熟知」していたと考えられるものであり、「薩耶麻」が「筑紫君」であること、「書紀」には記載がないものの、推測によれば「倭国王」であり、少なくとも「百済遠征軍」の将軍の一人であったことなどです。
 このような「高官」であるからこそ、「郭務宗」が「来倭」する際に「薩耶麻」を利用したわけです。
 彼の発言や行動あるいは指示が「倭国」では有効であることを承知していたからこそ、同行させたと考えられ、逆に言えば「薩耶麻」の存在が「倭国内」で重要であることが推察されるものです。

 また「彼は」「筑紫の君」という立場でしたが、「大伴部博麻」は「筑後の軍丁」ですから、「薩耶麻」の部下であったわけであり、(だからこそ主君のために体を売ろうとしたと考えられますが)彼「大伴部博麻」に「薩耶麻」の立場を悪くするような「証言」ができるわけもないわけで、彼(薩耶麻)がその後も生きていたであろう事は間違いないことと考えられことから、彼のために「体を売った」とされる「大伴部博麻」が帰国できる条件が整わなかったものと考えられます。
 逆に言うと「博麻」の帰国が叶ったと云うことは、この時点付近で「薩夜麻」が死去したという可能性を考えさせるものであり、帰国年次の「六九〇年」という年次にかなり接近した年まで生存していたことが推定されるものです。そして、「やっと」帰って来ることができた「大伴部博麻」は「捕囚時」のことを話したのでしょう。やっと真実を話す事ができるようになったという訳です。

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「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(二)

2013年12月23日 | 古代史

 既に考察したように「伊吉博徳言」の中で「今年」とされている年次は「七〇四年」(慶雲元年)であると見られる訳です。
 そもそも「遣唐使」は「六六九年」の「小錦中河内直鯨」等の「遣唐使」を最後に長期間(三十年以上)途絶えていたわけであり、前記したように「新羅」の船で帰ってくる者もいたと思われますが、大多数の人間は「帰るに帰れない」状態となっていたものでしょう。つまり、ここに消息を書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達というように多数に上っている原因は「前回」の遣唐使派遣から相当長い年数が経過していることの証左であると思われます。
 また、この時の遣唐使船を(たまたま)利用して帰ってきた人たちの記事が「続日本紀」にあります。

「続日本紀」「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讚岐國那賀郡錦部刀良 陸奧國信太郡生王五百足 筑後國山門郡許勢部形見等各賜衣一襲及鹽穀 初救百濟也 官軍不利刀良等被唐兵虜沒作官卅餘年乃免 刀良至是遇我使粟田朝臣真人等隨而歸朝 憐其勤苦有此賜也.」

 彼らは「斉明七年」の「百済を救う役」で「捕虜」になったものと考えられ、その彼らと一緒に「伊吉博徳」が挙げた人間達も帰国したものと考える事ができるでしょう。
 彼ら(刀良、五百足、形見)がここに特記されているのは、彼らが戦争に参加し捕虜になり、その後非常に苦しい人生を送らざるを得なくなったからであり、「大伴部博麻」と同様彼らの「忠孝」精神を称揚する事が目的であったと思われます。
 しかし、「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達は元々「遣唐使」であり、唐において学業等に励む事が仕事であったわけで、滞在期間が長かったとしても別に「不遇」な人生というわけでもなかったと判断されたのでしょう。そのため、帰国に際して「特記」すべき事情がなかったものと判断され、記事として残っていないのではないかと推察されます。

 「伊吉博徳」についていうと、彼は「八世紀」に入って「大宝律令」撰定に関わった人物として「続日本紀」にその名前が書かれています。

「続日本紀」「文武二年(六九八)六月甲午条」「勅淨大參刑部親王 直廣壹藤原朝臣不比等 直大貳粟田朝臣眞人 直廣參下毛野朝臣古麻呂 直廣肆伊岐連博得 直廣肆伊余部連馬養 勤大壹薩弘恪 勤廣參土部宿祢甥 勤大肆坂合部宿祢唐 務大壹白猪史骨 追大壹黄文連備 田邊史百枝 道君首名 狹井宿祢尺麻呂 追大壹鍜造大角 進大壹額田部連林 進大貳田邊史首名 山口伊美伎大麻呂 直廣肆調伊美伎老人等 撰定律令 賜祿各有差」

「続日本紀」「大宝元年(七〇一)八月癸夘三 遣三品刑部親王 正三位藤原朝臣不比等 從四位下下毛野朝臣古麻呂 從五位下伊吉連博徳 伊余部連馬養 撰定律令 於是始成 大略以淨御原朝庭爲准正 仍賜祿有差」

「続日本紀」「大宝三年(七〇三)二月丁未 詔從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人 預定律令 宜議功賞 於是古麻呂及從五位下伊吉連博徳並賜田十町封五十戸 贈正五位上調忌寸老人之男田十町封百戸 從五位下伊余部連馬養之男田六町封百戸 其封戸止身田傳一世。」

 このように「大宝律令」選定という事業に関わり、その「功」を認められ、多大な褒賞を受ける栄誉に浴しています。そして、この「褒賞」を受けたのは、推定される「今年」である「七〇四年」の「前年」のことです。
 彼は「倭国」の外交の第一線で長年活躍してきた人物であり、その後律令編纂に携わるという大業をも成し遂げたものです。その彼がこの時点でその外交その他自己の活動の詳細を記録した「覚書」の様なものを残そうとしたと考えたとしても不思議ではありません。そして、それが「伊吉博徳書」として「書紀」に引用されているものと考えられます。
 こういう一種「回顧録」のようなものが、自分の一生の終わり近くに「自分の人生の総括として」書かれるものであろう事を想定すると、それが書かれたのがこの「律令選定」修了時点であると考えるのは自然です。もちろん「メモ」的資料は以前からあったと考えられますが、それが「書」としてまとめられたのは「八世紀」に入ってからではなかったでしょうか。
 その「伊吉博徳書」と「書紀」中の「伊吉博徳言」というものが「同系統資料」であることは明白でしょう。つまり、この「伊吉博徳言」という記事は、「八世紀」に入ってから「話された」可能性が高いものと思われます。
 そもそも「書紀」自体が「八世紀」に入り「七二〇年」という完成時期まで編纂が続いていたとされるわけですし、その「八世紀」の朝廷に彼は参画していたわけですから、彼への直接取材があったとしても不思議ではありません。
 
 以上のことから「伊吉博徳言」の「今年」とは「七〇四年」のことであり、しかも「遣唐使帰国後」の事と考えると「秋七月」という帰国日時以降年末までのどこか、と考えるのが有力と思慮されるものです。しかもこの「秋七月」というのは「筑紫」(「大宰府」)への到着日時と考えられ、「朝廷」への帰朝報告はその年の「十月辛酉」とされていますから、更に時期は限定できると思われます。

 もし「今年」というのが「七〇四年」ではなく、彼らの帰国がもっと早かったとする場合(たとえば「天智四年」(六六五年)の「劉徳高」の来倭の時期など)、それは「伊吉博徳書」のもっと早い完成を想定する場合や、もっと早い時期に彼の話を聞いて書いたとする場合に想定しますが、その場合「智宗以庚寅年付新羅舩歸」の一文を後になって付加したと考えざるを得なくなるわけであり、そう考えるにはそれを証明する(ないしは「示唆する」)別途の記録などの存在が不可欠と考えられます。

 以上のことから「大伴部博麻」が「自分の身を売って衣糧に充てる」という提案をしたときにそこにいた人物のうち、彼の提案を実行したことによって実際に「衣糧」を手にして帰国が叶ったのは、実際には「土師連富杼」と「弓削連元寶兒」の二人であったと推定される事となりました。つまり「博麻」は二人分の衣糧のために身を売ったとする訳ですが、これが「」になったと云うことではなく、「負債」を負ってその間「労働」により返済をするという「役身折酬」を行なったと見られるわけです。その場合彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。

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