霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

萩の街をぶらり

2011年04月02日 | 山口の歩き旅

2011年4月2日(土)

山口市内で所用を済ませてから何とはなしに萩へ行ってみたくなり、そのままマイカーで萩へ向かった。
特に何処へ行こうという当てがあった訳ではなくて、萩市内に入ってから決めようと思っていたら、「萩城跡」の案内標識が見えたので、まずはこちらへ向かった。
この名称だが、以前は確か「萩城址(はぎじょうし)」と言っていたように記憶しているのだが、案内標識をよく見ると、「萩城跡(はぎじょうせき)」と書いてある。大して違いは無いのかも知れないが、どっちが正しいのだろうかネ…、誰か知っていたら教えてくらはい。

ユースホステル側の観光センターに駐車し、毛利輝元公の銅像に迎えられて内堀前で入場券を買い、城内に入る。
天守閣跡周辺の桜を愛でながら散策していると、指月山(しづきやま)の「山頂まで730m」の案内板が見えたので、そう言えば何度も萩には来ているのに指月山に登ったことがないのに気がついて、登ってみることにした。

たかが730mだから…と高を括って登り始めたが、次第に坂道や階段の傾斜がきつくなり、途中で二回ほど小休止しながら登っていくはめになったので、結局30分位かかってしまった。
それでも、山頂からの眺めはなかなかのもので、写真のように本丸の東端からは、橋本川と市内を一望できる。


山頂でゆっくりと下界の景色を楽しんでから下山し、城内の志都岐山神社・福原家書院・東園などを続いて散策する。
しかし相変わらず、この可憐な桜の木の下で、無神経に焼肉・バーベキューなんぞをやらかしている輩がいることには、がっかりした。桜の色香を静かに楽しんでいる人達に向かって、どうして平気で焼肉の臭いを撒き散らすことができるのか、全く理解に苦しむ。
古来から日本人なる民族は、「香り」や「色合い」そして「静寂」などと言うものを、五感と心を総動員して多いに楽しんでいたと思うのだが、いつの頃からかそれらを忘れ果てた日本人ばかりが幅をきかすようになってしまったのだナ。そして、この「桜の木の下で焼肉・バーベキュー」なんぞというハタ迷惑な習慣が、知らぬ間に定着してしまったのだ。
石原都知事が言うような、花見の自粛要請が行政側から出されることにはちと違和感があるものの、今回の大震災をいい機会として、こういう悪しき習慣は日本から追放したいもんだナァ。
統一地方選挙が近いからついでに言えば、あの意味のない選挙カーによる「連呼」も、この際全て禁止にしたらどうだろう。たかが選挙期間中の一週間位とは言え、街中に騒音を撒き散らして、名前だけの無意味な連呼をし続けることが、どうして選挙運動になるのかが不思議でならない…って思うのはオイラだけかい?

志都岐山神社の入り口には、ミドリヨシノと書かれた案内板があり、この花は一見すると梨の花のような趣があるが、萼(がく)が緑色であることからこう呼ばれているようで、国内でも萩市のみで見られる希種とのことらしい。


城の東側(菊ヶ浜側)に残る、二の丸土塀(銃眼土塀)の銃眼から菊ヶ浜を覗いてみた。江戸時代の260年間に、実際にこの銃眼から銃を向ける機会は無かったのかも知れないが、何となく城の警備兵になったような積もりで、暫く菊ヶ浜を眺めていたノラ。


駐車場に戻って、車に乗ろうとしてすぐ横を見ると、「萩八景遊覧船のりば」なる看板が見えたので、橋の上から様子を眺めてみた。そこそこに観光客などが利用しているようで、遊覧船が忙しそうに往き来していた。


本日最後は、萩城跡入り口から少し東へ行ったところにある、萩博物館を訪れてみた。平成16年に開館ということなので、もちろんオイラは初めて来たのだが、資料も展示もなかなか分かり易く、萩の自然や歴史・民族を一度に理解するには格好の場所ではある。
余り期待をせずに行ったからかどうか、吉田松陰や高杉晋作について、今まであまりよく理解していなかったことまで思いがけずに知ることができたのは、とても良い収穫だった。
それにしても、たかだか30歳やそこらで、処刑される(命を絶たれる)のが分かっていつつも、最後まで自分の意見を貫いて、幕政への批判を堂々と述べた吉田松蔭の生き様は、どうだ。
『至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり』とは言うものの、ご都合に合わせて柳のように生きてきたオイラとは、雲泥の差があるのぉ …ナント恥ずかしぃ~

…と、我が身の不明を恥じりながら、帰宅したのであった。



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