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ナチス・ドイツの蛮行「アーリア人増殖計画」被害者の思いに迫る>選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」

2024年05月13日 13時05分01秒 | 歴史的なできごと
ナチス・ドイツは「優良なドイツ民族」を人為的に増やそうと、自国や占領国の選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」を推進した。生まれた子を収容した施設は「レーベンスボルン」という。このレーベンスボルンで生まれ、波乱の人生を送った女性、カーリ・ロースヴァルさん(79)がこのほど来日し

ナチス・ドイツの蛮行「アーリア人増殖計画」被害者の思いに迫る (msn.com)



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「今年で80歳だけど気持ちは20歳よ。あなたたちのことは忘れない」。取材終了後、キャンパる編集部員らにチャーミングな笑顔をみせてくれたカーリさん(中央)=毎日新聞東京本社で
「今年で80歳だけど気持ちは20歳よ。あなたたちのことは忘れない」。取材終了後、キャンパる編集部員らにチャーミングな笑顔をみせてくれたカーリさん(中央)=毎日新聞東京本社で

© 毎日新聞 提供

 第二次世界大戦下の欧州で、ナチス・ドイツは「優良なドイツ民族」を人為的に増やそうと、自国や占領国の選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」を推進した。生まれた子を収容した施設は「レーベンスボルン」という。このレーベンスボルンで生まれ、波乱の人生を送った女性、カーリ・ロースヴァルさん(79)がこのほど来日し、キャンパる編集部の学生たちに、自らの経験と未来に託す思いを語ってくれた。【まとめ、日本大・田野皓大】


64歳で知った「レーベンスボルン生まれ」の過去


 ――カーリさんは、ご自身の出生の真実をつづった本を出版されました。その経緯を教えてください。


 ◆私がレーベンスボルンで生まれたという自分の過去を知ったのは64歳の時でした。私が今暮らすアイルランドで、自分の経験を学校などいろいろな場所で話していると、反響が広がり、テレビ局で私に関するドキュメンタリー番組やラジオが放送されたのです。次第に、多くの人から「本を出さないのか」と言われるようになりました。そして以前、ラジオ番組でインタビューをしてくれたジャーナリストと協力して本を出すことになったのです。
 ――本の作成は大変だったのでしょうね。


 ◆一つの章を仕上げるのに3カ月かかりました。私が語ったことをジャーナリストが文字に起こしていく作業です。笑ったり、泣いたり、感動したり、時にはお茶を飲んだりしながらね。今までほとんど忘れていたいろいろな思い出がよみがえってきました。


 ――読者からどんな反響が届きましたか?


 ◆たくさんの人に「ありがとう」と言われました。アイルランドには、私のように戦争の影響で自分がどこから来たか分からないまま養子になった人がたくさんいるのです。そのような人たちに自分のことを伝え、思いを共有することができました。


今は理解できる実母の気持ち


 ――ノルウェーで生まれ、親と引き離されてドイツに送られた後、孤児になったそうですが、幼少期の思い出を教えてください。


 ◆私は、幸運なことにスウェーデンの農家に養子として引き取られ、何もかもが幸せでした。しかし、7歳で初めて学校に行った際に「この子は何人なんだろう」と、校長先生などの大人からのいじめに遭ったのです。そのことを養父母に言ったら、自分が養子であることを教えてくれました。養父母は、私がどこから来たかを知りませんでしたが、優しく育ててくれました。その一方で、私のパスポートの国籍欄には国籍不明と記されていました。もし、自分がどこで生まれたのか分からなかったら、皆さんはどのように感じるでしょうか。


 ――そして、実の母を探し当て、会いに行ったのですね。


 ◆20歳の時、赤十字に情報を提供してもらい、母に会いました。とても、緊張しましたね。それ以上の感情は当時ありませんでした。母は、レーベンスボルンのことはもちろん親戚のことも、私に兄がいることも話してくれませんでした。今思うと、母は戦争の犠牲者で大変な思いをしています。私の生後10日には、私を取り上げられてしまいました。私が本当は何者だったのか、彼女が私に言えなかった気持ちは分かります。もし、今会えたらいろんなことを聞きたいです。


 ――ご自身がレーベンスボルン生まれだと知った時、どう思いましたか?


 ◆隠されていた大量の古い書類が見つかり、自分の生い立ちを知った時は、本当に自分に起きたことなのか信じられませんでした。


 ――向き合うのは、さぞ大変だったでしょう。


 ◆書類は、スウェーデン政府が非公開にしていたのです。書類は非常に膨大でした。それを一つ一つ読んでみて、感情的になることもありました。精神的につらくて読めないという時は、また翌日に読むこともありましたね。ともに日本に来て、今、私の隣にいる夫のスヴェンは、非常に支えになりました。夫は、書類の内容を一つ一つパソコンに記録していってくれたのです。大人であれば子どもを守ろうと思うことは当然だと思います。しかし、当時の人はなぜ子どもに対してこのようなひどいことができるのかと思いました。


 ――実の父についての情報もあったのですね。


 ◆父はドイツ兵であることは分かりましたが、詳しいことは分かりませんでした。なので、自分の半分が失われている気持ちです。


なぜ戦争の歴史から学ばないのか


 ――なぜ、レーベンスボルンの問題はあまり歴史として認識されてこなかったのでしょうか?


 ◆戦後、誰もその話題に触れたくなかったからです。そして第二次世界大戦では、多くのユダヤ人を虐殺したホロコーストや原爆投下など、他にもさまざまな悲劇があったからでしょう。


 ――今回日本に来られて、日本の若い世代に何を伝えたいですか?


 ◆一番伝えたいことは、絶対にいじめをしないでください、ということ。学校でも社会に出てもいじめは絶対にしないでください。そして、絶対に戦争をしてはいけないということです。


 ――戦争、そしてナチスのような民族差別や選別は今も絶えません。今の不安定な世界情勢についてどう思いますか?


 ◆なぜ、人々は戦争の歴史から学ばないのかと思っています。特に、女性や子どもが痛めつけられていることに、本当に胸が痛くなります。戦争は敵、味方関係なく皆が被害者です。


 ――大学の講演なども行われたそうですが、日本の若者の印象について教えてください。


 ◆私が会った日本の若者には、とても良い印象を受けています。自分が若い時よりも皆さんしっかりしていて、真剣に話を聞いてくれました。彼らを見ていると未来に希望を感じました。


未来を楽しみに、今を生きて


 ――戦争をしないために今、私たちのすべきことはなんでしょう。


 ◆大切なことは歴史について、戦争がいかにひどかったのかを繰り返し話すことです。そしてお互い助け合いをしようとすることです。暴力にはノーを、抱き合うことにはイエスを。みんなそうしてくれれば戦争はなくなっていきます。


 ――世界平和という目的のために自身の経験をシェアしているのですか?


 ◆はい。自分の経験を語ることで世界の一人でも多くの人を戦争から助けることができたらと思っています。だから、私にとってはとてもつらい思い出でも、皆さんに語っているのです。ですが、まだ平和は実現されていません。そう考えると私の試みは、まだ道半ばですね。


 ――戦争経験で苦しい思いをしている人にどのような言葉をかけたいですか?


 ◆起こってしまったことは過去のことなので、未来を楽しみにしてください。今を生きてください。私も今は夫のスヴェンと息子のローゲル、最愛の2人と一緒に歩んでいます。


レーベンスボルンとは


 レーベンスボルン(直訳すると「命の泉」)は、1935年、ナチス・ドイツが「血統的に優れた民族」と見なす「アーリア人」の増殖を目的として開設した施設を指す。レーベンスボルンは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)と表裏をなす、ナチスのゆがんだ優生思想に基づく蛮行として知られている。


 ナチスはドイツ兵に、アーリア人の特徴であるとする「金髪、青い目」の女性と関係を持つことを推奨し、生まれた子どもをレーベンスボルンに隔離し教育していた。同施設は、当時ドイツの占領下にあったノルウェーにも多数設置された。


 また同施設は、人種的特徴を満たすとされる子どもを占領国から拉致し、ドイツ人として教育を施す場としても使われた。


 こうして強制的に集められた子どもらだが、「優良なドイツ民族」にふさわしくないと判断されると、強制収容所に送られたり、殺害されたりすることもあったという。


 第二次世界大戦終了後も悲劇は続いた。ノルウェーなどでは反ナチス感情の高まりを背景に、レーベンスボルンが解体された後も、収容されていた子どもや、ドイツ兵との間に子をもうけた女性は差別的な扱いを受けた。【法政大・園田恭佳】


カーリさんの横顔


 カーリ・ロースヴァルさんは1944年、ノルウェーの首都、オスロにナチス・ドイツが設置した「レーベンスボルン」で生まれた。母はノルウェー人、父はドイツの軍人だった。生後すぐにドイツの同施設に移された後、同国敗戦を機にスウェーデンの孤児院に送られ、そこで出会った夫婦に養子として引き取られる。自身が養子である事実を知らされるが、出生の詳細については分からずじまいだった。


 次第に実親への思いは募り、就職後に実母を探し当てることに成功した。しかし念願の再会を果たした実母は過去の忌まわしい記憶を語ることはなかった。


 その後、結婚や出産などを経てさまざまな人々と関わっていく中、偶然知り合った歴史研究家の手助けを得て、出生の秘密を知ることになる。64歳の時だった。


 ナチスの狂気と戦争の深い闇に翻弄(ほんろう)されたカーリさんだが、安住の地のアイルランドでその経験を話したことが反響を呼び、2015年に半生記を出版した。同書は21年に邦題「私はカーリ、64歳で生まれた」(海象社)として日本でも発刊された。カーリさんは今も自身の経験や平和への思いを多くの人々に伝え続けている。【法政大・園田恭佳



 



レーベンスボルン - Wikipedia 




レーベンスボルン



ツール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





レーベンスボルンの誕生の家(1943年、上部は親衛隊の旗)


レーベンスボルンで生まれた子供の洗礼の様子
レーベンスボルン(ドイツ語: Lebensborn)は、ナチ親衛隊(SS)がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設。一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。ユダヤ人絶滅のための強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための施設である[1]。未婚女性がアーリア人の子を出産することを支援し、養子仲介なども行なっていた。


レーベンスボルン設立に至るまでの経緯
ドイツでは、第一次世界大戦で多数の兵士が死亡したため、男性が不足しており、第一次世界大戦終戦時は25歳から30歳の女性4人に対して、男性は1人しかしないという状況であった[2]。そして、ハイパーインフレや世界恐慌などにより、出生率は下がっていた(詳細はドイツの人口統計参照)[2]。1933年、政権を獲得したナチス党は、その状況を打破するために、子供を増やすための政策を次々に施行していった[2]。具体には、当時、社会進出が進みつつあった女性を家庭(育児)に戻す政策や、多産を実現するため避妊具の広告を禁止、堕胎を行った場合は厳罰処分を科すなどと言ったものがあった[3]。堕胎については、ヴァイマル共和政時代でも違法とされ、罰金処分が科せられていたが、ナチス・ドイツ時代には長期の懲役刑が科せられるようになった[3]。また、厳格にするだけでなく、多産した母親に対しては、母親十字章(英語版)を授与するなどしていた[4]。しかし、一方でアドルフ・ヒトラーは、ナチス党の集会や自著の我が闘争などで、ドイツ人の優越性、血の純血や劣等人種を除去することで、ドイツ民族は強化されると主張し、断種法を制定。遺伝性疾患が認められる女性についての医師の申告義務を制定し、優生裁判所をドイツ各地に設置し、民族的基準を満たしていないものは去勢するなどし、第二次世界大戦が開戦するまでに、32万人が断種させられた[5] [6] [7]。1931年12月31日には、親衛隊人種及び移住本部(通称・RuSHA)が設立され、後のレーベンスボルンはRuSHAが管理することになる[8] [9]




レーベンスボルン設立
SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、婚外子を身ごもった女性は、不利益を被ることが多く、それら女性に対しての保護と出産後の扶助をすべきと考え、それら女性の出産施設として、1935年12月12日、レーベンスボルン(別名:生命の泉協会)を設立した[10] [11]。1936年8月15日、レーベンスボルンは最初の施設「高地荘」をバイエルン州エーベルスベルク郡シュタインヘーリンクに開設した。


ただし、レーベンスボルンは、当初は出産を控えたSS隊員や警察組織の妻の出産施設であった[11]。設立間もない時点での会員数は約1万人で9つの支部から構成されていた[12]。しかし、レーベンスボルンでの出産にあたっては、ドイツ人の中でも選ばれた者のみが出産ができ、希望者100人中50人以上がSSの容姿や体形などが基準を満たさない女性であるとして、受け入れを拒否されていた[13]。


親衛隊の長官であるハインリヒ・ヒムラーは、1936年9月の回覧文書で、SSの隊員は4人の子供を設けることを命じ、そのためにはこれまでの慣習に囚われないことを表明し[* 1]、もしも子供に恵まれないSS隊員がいれば、彼らにレーベンスボルンで出産した子供を養子縁組することを保証していた[15] [16] [17][18][15][19]。


レーベンスボルンの運営費用については、様々な資金源があり、入会会員(SS隊員)からの会費、ユダヤ人の没収財産、またSSに対しての大企業の寄付金の割り当てなどがあった[12][20] [21] [22]。ユダヤ人の没収財産については、約9300万ライヒスマルクを没収し、それらもレーベンスボルンに割り当てられていたとされている[21]。SS隊員の会費については、独身であるSS隊員は年齢に応じて高くなるようになっていた[17] [22]。


レーベンスボルンの施設は、退去させたユダヤ人や、逮捕したヒトラーの政敵の住宅を使用しており、ミュンヘンのレーベンスボルンの施設は、作家トーマス・マンの自宅であった[23]。戦後、ニュルンベルク継続裁判で被告となったマックス・ゾルマン(ドイツ語版)は、レーベンスボルンの施設は、空き家になっていた家を使用したと主張した[24]。また、(ゲットー蜂起によって実現には至らなかったが)ワルシャワ・ゲットーから医療設備や、家具を収奪する計画があったことから、収奪物によって施設の運営を行なっていたことが常態化していたといえる[25]。


レーベンスボルン加入にあたっては、当初は、SSの高級将校に加入資格があったが、1942年からは、SS隊員は加入が義務付けられ、女性の加入については、アーリア人としての特徴が祖父母の代まで遡及して認められた者に加入資格があったが、これも後に基準が緩和され、ドイツ人でなくても基準を満たせば加入が認められた[12]。レーベンスボルンの女性は、第二次世界大戦中であっても、豪華な食事を摂ることができ、週に1度はチョコレート、紅茶、コーヒーを提供されていた[26][27][28]。しかし、一方で、レーベンスボルンの女性への食生活には、様々なルールがあり、良質な子供を産むために、ビタミンの摂取量や野菜の摂取方法などが厳守させられていた[28]。


第二次世界大戦勃発後の、1939年10月28日、ヒムラーは、親衛隊に対してある命令を発出した[29]。その命令は、婚外子であっても、子供を産むことを奨励するもので、これについては国防軍だけでなく、ナチス党内からも異論が噴出した[29]。ヒムラーはこの異論を受けて、1939年12月のフェルキッシャー・ベオバハターに掲載された、副総統ルドルフ・ヘスの未婚の母親についての見解を持ち出し[* 2]、反対派の意見を封じた[30]。


ヒムラーはドイツ国内とナチス・ドイツが占領した国に合計20か所以上のレーベンスボルンの施設を創設した[31]。


しかし、多数のレーベンスボルンを作るなどして、多産を実現しようとしたヒムラーの努力は報われなかった[16][32]。レーベンスボルン主任医官のグレゴル・エーブネル(英語版)は、レーベンスボルンの施設での幼児死亡率については、当時のドイツの平均値である6%よりも2%低い4%であると主張していたが、これについてはSS内部でも虚偽であるという指摘がなされ、実際には8%の死亡率であったと指摘されている[33][34]。そして、1939年12月31日の統計では、SS隊員の平均出生人数は、当時のドイツ国民の人数とさほど変わらず、ヒムラーがSS隊員に対して求めていた、1人のSS隊員に対して4人の子供をもうけることはかなわなかった[16]。また、そうこうしている内に、戦争によって人的被害が出ていたこと、時間がかかりすぎることもあり、ヒムラーは別の手段を考える[35][36]。


ヒムラーは、1941年6月の回覧文書で、基準を満たすポーランド人の子供は、我々(ドイツ)の手で育てるべきだという、拉致を容認するような発言内容を提出し、同年冬には、SSに対して、ポーランド人の子供の内、人種的価値を満たす子供を拉致する命令を発出した[37][38]。拉致は、まずは同盟国であったルーマニアから25人の子供を拉致し始めたことを皮切りに、ナチス・ドイツが占領した様々な国から拉致を行ない、その国には、ポーランド、ユーゴスラビア、チェコスロヴァキア、ベラルーシ、ノルウェー、ベルギー、デンマーク、フランス、オランダ、ルクセンブルク、ウクライナ、ハンガリーがあった[39] [40]。拉致してきた人数については、全体では数十万人以上で、国別ではポーランドは20万人以上、ウクライナとハンガリーの両国を合わせて5万人以上とされている[41] [42] [43] [39]。拉致した子供は、ドイツ語で話すことを強要され、子供の名前も、身元の特定を困難にするために元の名前の発音に近い名前をドイツ語風にした名前に変更するか、一般的なドイツ人の名前が付けられた[44][45] [43]。レーベンスボルンは、拉致した子供を懐柔するために(子供に対して)元々の生活環境は悪く、両親もアルコール中毒など余り良からぬ理由で死亡したと伝え、これによって(子供は)劣悪な環境からナチス・ドイツは救ってくれたという刷り込みを行っていた[46]。


拉致した子供の中には、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺後の報復によって虐殺されたリディツェの子供もおり、ゲルマン化が望めない子供は殺害された[* 3][47][48][49]。


拉致を行なった組織は、親衛隊のみならず、国防軍など複数の組織が関与しており、拉致した子供の移送はドイツ赤十字が担当していた[50] [51]。


こうして、拉致された子供は、ドイツ人家庭に養子又は里子として提供された[38]。


ヒムラーは、レーベンスボルンで生まれた子供の名付け親になるなど、同協会の活動に力を入れ、ヒムラーの想定では、1980年までには、北方人種の人口は1億2000万人に到達する想定だった[52] [41]


戦後
第二次世界大戦終盤にもなると、レーベンスボルンは、拉致の証拠書類や、戸籍に関する書類は焼き捨てるなどしていた[53][54]。レーベンスボルンについては、ニュルンベルク継続裁判の1947年10月の親衛隊人種及び移住本部裁判(英語版)で取り上げられた[55]。当該裁判の訴訟の対象となった組織は、ドイツ民族性強化国家委員本部、 親衛隊人種及び移住本部などがあり、14人が被告となった[56]。レーベンスボルンの被告は、レーベンスボルン代表者、マックス・ゾルマン、主要健康局局長グレゴル・エーブネル、主要法律局局長グンター・テッシュ(ドイツ語版)、唯一の女性被告で主要A局局長代理インゲ・フィルメッツ(英語版)が被告[56]。起訴理由は、ドイツの強化と敵国の弱体化を図り、ポーランド、ユーゴスラビア、チェコスロヴァキア、ノルウェーなどから、子供を拉致し、戸籍を改ざん、強制労働への使役と、ユダヤ人の財産没収が起訴理由としてあげられた[56]。証拠書類は2000件近くにもなり、証人も116人が出廷した[57]。


親衛隊人種及び移住本部裁判の判決は、1948年3月10日に判決が下されたが、レーベンスボルンの被告の判決は、戦争犯罪や人道に対する罪については無罪となり、男性被告は犯罪組織(親衛隊)に所属していた点のみによって、懲役刑となった[58] [56]。唯一の女性被告であったフィルメッツは、親衛隊に所属していなかったため無罪で、マックス・ゾルマンとグレゴル・エーブネルは懲役2年8か月、グンター・テッシュは懲役2年10か月の短期の懲役刑で、懲役の日付の起算日は、逮捕から判決の日までとなっていたため、判決後は即釈放された[56]。また、レーベンスボルンは裁判では社会福祉施設として判断され、拉致してきた子供を手厚く保護していたのも、減軽の決め手となった[59] [56]。その他、レーベンスホルンの活動については、ナチス・ドイツが多数の子供を拉致していたことは証拠から立証されたものの、レーベンスボルンが拉致に積極的に関与した証拠がなく立証されず、拉致した子供については極僅かな比率でしかレーベンスボルンに割り当てられなかったことや、レーベンスボルンが、子供の選別にかかわったことは立証されなかった[59]。


ただし、1950年2月13日にも、ミュンヘンで裁判が行われ、この時は前述のゾルマン、エーブネル、フィルメッツ3人の被告に加え、ゾルマンの助手を務めていた4人の合計7人が被告となり、この時は全員有罪となった[60]。


レーベンスボルンの子供のその後
レーベンスボルンによって、戦時中ドイツ人家庭に養子縁組をされた拉致児童は、戦後様々な運命をたどった。自身がドイツ人でないことを知って実の親元へと帰った者、成長するにつれ実の子供でないことを察知して、養親に問い詰めて真実を知って実の親を探す者、親(と思っていた人物)が死去後に、自身の身の上を調査した結果、真実を知った者など、様々な者がいた[61] [62] [63] [64] [64]。また、仮に出身国に帰国したとしても、母国語を忘れてしまっているという問題も発生していた[65] [66]。


終戦後、子供を拉致された実の親や拉致された子供の出身国は、座視せずに子供の捜索に乗り出し、比較的年上の子供については容易に見つけられたものの、幼児であった子供については、ナチス・ドイツが戸籍を改ざんするなどしたため、見つけることは困難であった[67]。


連合国は、拉致された子供の取り扱いについては、仮に(子供を)出身国に帰還させたとしても、親がいない可能性があるため、そのままドイツに残すという方針をとった[61]。


拉致された元・子供は、自分の身元を探す際に国際追跡サービスという公文書館を頼ったが、1955年のパリ協定の発効協定の条項には、ナチス・ドイツの被害者とその家族を傷つける恐れのある情報についての公開を禁止する条項が含まれていた[68]。これにより、レーベンスボルンで生まれた子供についての情報を得られなくなってしまう[68]。これらの情報が完全公開されたのは2007年のことだった[68]。


ノルウェーについて
ナチスは、ノルウェーを金髪碧眼が多い理想的な北方人種と見なしており、20数か所あるレーベンスボルンの施設の内、9か所ないし11か所がノルウェーに集中していた[69][70][31]。そして、ヒムラーは親衛隊員や国防軍軍人に対して、ノルウェー人女性との 密通を奨励するなどしていた[69]。ノルウェーのレーベンスボルンで生まれた子供の数については、ノルウェーではなく、ドイツで出産されたケースもあり、その人数についてはかなりばらつきはあるが、6000名や、8000名から1万2000人とされる[71][70][60]。第二次世界大戦時のノルウェーでは、ドイツ敗戦までドイツ軍が駐留していたことや、レーベンスボルンの施設の数も多かったため、証拠書類の焼却が間に合わず、ドイツ人と関係を持ったノルウェー人女性及び出産した子供の身元を特定することができた[69]。こうして、ドイツ人と関係を持ったノルウェー人女性は逮捕され、その数3000人から5000人が捕虜収容所へと送還された[69]。ノルウェーの精神科医は、ドイツ人と関係を持った女性には精神障害があり、その子供も8割が知的障害であると断じ、レーベンスボルンで生まれた子供たちは差別され、ノルウェー政府はレーベンスボルンで生まれた子供をドイツで引き取ってもらうことを検討したが、戦後間もないドイツではそのような余裕はなく、オーストラリアへの移住を計画するも実現に至らず、一部は精神病院や養護施設に隔離、一部はスウェーデン政府が救済活動を行ない、スウェーデンへと移住させた[72][71][73]。なお、ノルウェーのレーベンスボルンで生まれ、迫害に遭った子供については、2010年にノルウェー政府が元・子供に1人あたり3万4000ユーロを支払った[71]。


スウェーデンのポップグループABBAのメンバーだったアンニ=フリッド・リングスタッドも、ドイツ人ナチ党員の父とノルウェー人の母の間に生まれた子であった。彼女はノルウェーでナチス・ドイツ崩壊直後に生まれたが、ナチ残党への追及を避けるため母と共にスウェーデンへ逃れ、そこで成長したため知的障害者施設への収容は免れた。彼女もまた、実の父が存命中にもかかわらず、父は死んだものと聞かされて育てられていた[74]。


レーベンスボルンで出産された子供と拉致された子供について
ヒムラーの肝いりで創設されたレーベンスボルンであったが、レーベンスボルンで生まれた子供は、エリートたる存在になったかというと、そうとも限らず、3歳になっても歩けない子供や、しゃべられない子供がいた[75]。拉致してきた子供については、子供時代の立派な金髪碧眼も、成長すると色が変わった子もいたり、容姿も北方人種の理想とは程遠くなった子供もいた[65]。



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