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卑弥呼のリアル

2024年05月09日 03時05分22秒 | 歴史的なできごと

卑弥呼 日本史年表/ホームメイト (meihaku.jp) 




卑弥呼 -


卑弥呼(ひみこ)は、日本人なら知らない者がいないほど有名な古代の女王です。しかし卑弥呼が活躍した時代の記録が日本国内に残っていないため、その頃のことを知るには中国の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん:中国の魏(ぎ)王朝のできごとを記した歴史書)などの文献に頼らざるを得ません。魏志倭人伝の記述を参照しながら、卑弥呼はどんな人物であったのか、また卑弥呼がいた邪馬台国(やまたいこく:後述)がどこにあったのかについて考察します。


卑弥呼

卑弥呼の生涯についてご紹介します。
目次

邪馬台国か、邪馬壱国か

魏志倭人伝の卑弥呼

卑弥呼の最期



邪馬台国か、邪馬壱国か

日本は東方の野蛮人

魏志倭人伝は、正式には「魏志東夷伝倭人条」(ぎしとういでんわじんじょう:魏の歴史書で、中国の東方に住む野蛮な民族である倭人について書かれた文章)と言います。


これは中華思想(ちゅうかしそう:高度な文化を持つ中国が世界の中心で、その周囲には中国の文化が及ばない野蛮な民族が住んでいるとする考え方)の影響で、中国の東の方に住む民族は「東夷」(とうい)と呼ばれたためにこの名が付けられました。


邪馬台国はどこにあったか
魏志倭人伝における日本に関する記載はわずか2,000文字程度に過ぎません。しかしその解釈をめぐって、多くの学者が独自の説を主張してきました。


なかでも、今も盛んに議論が行われているのが、「魏志倭人伝に登場する邪馬台国はどこにあったか」という問題です。現在、大きく分けると「九州説」と「畿内(奈良周辺)説」、そして九州から畿内に移ったという「東遷(とうせん)」説などがあり、いまだに答えは出ていません。


そんな中、この問題に対して独自の考察を行ったのが、古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ:1926年[大正15年]~2015年[平成27年])氏です。


邪馬台国は書き間違い?

今日、私達は当たり前のように邪馬「台」国と表記します。しかし魏志倭人伝には邪馬「壱」国と書かれており、邪馬台国という表記はどこにもありません。なぜ邪馬壱国が邪馬台国になったかというと、江戸時代の学者、松下見林(まつしたけんりん)が、台の古字「臺(たい)」と、壱の古字「壹(いち)」が似ていることから「壱は台の書き間違いである」と主張し、それが今日まで定説となったからでした。


そこには、邪馬壱国と「ヤマト朝廷」(現在の奈良県にあった古代政権)は連続した政権なのだから、「ヤマイチ」よりも呼び名が似ている「ヤマタイ」の方が正しいに違いない、という思い込みがあったからだと言われています。


しかし、古田武彦氏はこれに反論しました。魏志倭人伝の著者は3世紀末の中国の陳寿(ちんじゅ)とされますが、同じ陳寿が書いた「三国志」(さんごくし:中国の三国時代について書かれた歴史書)には「臺」と「壹」との書き間違いがないこと、「臺」は宮廷などを表す言葉であるため、中華思想に従えば、倭(小さい・従順などの意味を持つ)国にそんな高貴な文字を使うとは考えにくいということから、やはり邪馬台国ではなく邪馬壱国に違いないと主張。その場所は九州・博多湾付近だと結論付けています。


魏志倭人伝の卑弥呼

孤独な女王
魏志倭人伝で卑弥呼について述べているのは以下の部分です。


「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」


意味:その国、もとは男子を王としていたが、70~80年たつと倭国は乱れ、何年もお互いに攻めあった。そこで共にひとりの女子を王に立てた。名を卑弥呼と言う。鬼道(きどう)につかえ、人々の心をよく惑わせた。高齢で夫はなく、弟が国を治めるのを助けている。王になってから人とは会わず、1,000人の女官が仕えているが、ただひとりの男子が食事の世話をし、話を伝えるために出入りする。住んでいる場所には宮殿と高い楼閣、そして城柵が厳かに設けられ、常に人がいて守っている。


シャーマン・卑弥呼



文中に登場する「鬼道」とは、原始的な宗教のひとつ、シャーマニズムのようなものだと考えられています。シャーマニズムとは、シャーマンと呼ばれる人物がトランス状態(通常とは違う精神状態になって意識を失った状態)に入ることで、霊や神などの超自然的な存在と交信を行ってお告げを受けるという宗教。


卑弥呼はシャーマンとして人間界と霊界とをつなげられる特殊能力を持っていたため、これまで男王だけでは解決できなかった問題を解決する女王に祀り上げられたのでは、と考えられます。


日本の神道では神に仕える女性を「巫女」(みこ)と呼びますが、古来より巫女は「口寄せ」(くちよせ:霊を自分に乗り移らせ、霊の言葉を代わりに話すこと)を行ったとされることから、巫女はシャーマンの一種と考えられます。このことから、巫女の語源は卑弥呼であるという説を唱える人もいます。


男王とペアで統治する
さらに、魏志倭人伝の記載で注目されるのが、誰とも話さなかった卑弥呼とただひとりだけ話すことを許され、外部との連絡役を担った弟の存在です。このように女性とその一族の男性がペアで国を統治するという方法は、のちの日本でも見ることができます。


例えば13~17世紀の琉球には、男性の国王が王族の女性の中から任命する「聞得大君」(きこえのおおきみ)という役職があり、聞得大君は琉球国王と琉球全土を霊的に守る役割を担っているとされました。


またユネスコ世界文化遺産に指定された上賀茂神社(かみがもじんじゃ:京都で最も古いとされる、京都市北区の神社)でも、巫女である「斎祝子」(いつきのはふりこ)と、その兄弟の神官である「鴨県主」(かものあがたぬし)がセットで祭祀(さいし)を行っていました。これらは、卑弥呼と弟がペアで国を統治した形態の名残りだと言われます。


呪術に支配される人々

卑弥呼が霊力によって国々の争いを鎮めたことからも分かるように、この時代の人々の生活は呪術(じゅじゅつ:超自然的・神秘的な力を借りて望むことがらを起こすまじないのこと)によって支配されていました。


魏志倭人伝には、呪術に基づくと思われる多くの生活習慣が紹介されています。それによれば、倭人が船で中国に行くとき、常に「持衰」(じさい)と呼ばれる男性を1人同行させたそうです。持衰はいつもボロボロの服を着て、頭はボサボサのまま、肉を食べたり女性に近づいたりすることも許されませんでした。渡航が成功すれば持衰には莫大な財宝が与えられましたが、もし航海中に病人が出たりトラブルが起きたりした場合、罰として持衰は殺されました。


他にも魏志倭人伝には、大切な決定をする場合には動物の骨を焼き、その割れ方を見て吉凶(きっきょう:ものごとの良しあし)を占う「卜」(ぼく)という方法が用いられていたことなども記されています。


卑弥呼の最期

卑弥呼、死す
乱れていた倭国をシャーマニズムによって鎮めた女王・卑弥呼も、やがて亡くなります。卑弥呼が死ぬ前後のことは、魏志倭人伝では以下のように書かれています。


「倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遺倭載斯、烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書、黄幢、拝仮難升米、為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人。」


意味:倭の女王の卑弥呼と、狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は平素から仲が悪かった。倭は載斯と烏越(どちらも人名)を郡(3~4世紀にかけて現在の韓国・ソウル付近にあったとされる帯方郡)に遣わし、お互いの戦闘状態を説明した。


これに対して魏の朝廷は塞曹掾史(という役職名)の張政(人名)達を遣わし、詔書(しょうしょ:皇帝の命令)と黄幢(こうどう:黄色い旗)を難升米(なしめ:魏が遣わした役人の名)に与え、木札に書いて諭した。


卑弥呼は死に、大きな墓が造られた。大きさは100歩ほど、殉葬者は奴碑(ぬひ:奴隷のこと)100人ほどである。


「以死」の意味
上記の文章は、魏志倭人伝の中国歴の正始(せいし)8年(西暦247年)の項目に書かれていますが、この文章からは卑弥呼の死が何年であったかは分かりません。


また「卑弥呼以死」の読み方についても諸説があり、「死するを以て」(死んだので)とする説、「すでに死す」と読ませる説、さらには「だから死んだ」と読み、戦争で死んだとするなど様々な説があります。こちらも結論は出ておらず、ここに書かれた卑弥呼の墓についても、墓があったとされる候補地は全国にありますが、決定的な証拠は見つかっていません。


いつか古代史の発掘研究がさらに進み、卑弥呼と邪馬台国に関する数多くの論争に終止符が打たれる日は来るのでしょうか。






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