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「地球で最初の生命は、進化では誕生できない」…進化論で生じた「すこぶる当然の疑問」

2025年03月26日 23時03分49秒 | 生き物のこと
 
 



生命はRNAから始まった>RNAワールド仮説
 
圧倒的人気を誇るこのシナリオには、困った問題があります。生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロに近いのです。ならば、生命はなぜできたのでしょうか?


この難題を「神の仕業」とせず合理的に考えるために、著者が提唱するのが「生命起源」のセカンド・オピニオン。そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめたのが、アストロバイオロジーの第一人者として知られる小林憲正氏の『生命と非生命のあいだ』です。今回から数回にわたって、本書から読みどころをご紹介していきます。


今回は考察の原点となるダーウィンの進化論と、その後の「生命はどこから生まれたか」議論の変遷を見ていきます。

*本記事は、『生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。


ダーウィンのオリジナル概念ではなかった「進化」
1859年、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、ジョン・マレー出版社から『自然選択という手段、または生存闘争の中で好ましいとされる種が保存されることによる種の起原について』という長いタイトルの本を出版しました。これが、今日の生物進化学の基礎を築いた、『種の起源』という名で知られている著作の正式な書名です(「起“源”」ではなく「起“原”」と訳されました)。


実は「進化」という概念自体は、ダーウィン以前にもありました。たとえば、彼の祖父のエラズマス・ダーウィン(1731〜1802)は、生物学に進化(evolution)という言葉を持ちこんでいました。また、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルク(1744〜1829)は、キリンの首は高いところの葉を食べようとして伸びた、といった「用不用説」と呼ばれる考え方で進化を説明しようとしていました。


ダーウィンは初め、医者である父のあとを継ぐためエジンバラ大学に進学しましたが、医学学には向かずに退学し、牧師になるべくケンブリッジ大学に進みました。そして卒業後、恩師から、船で世界を一周する旅に誘われました。これが彼の人生を変える旅となりました。


1831〜1836年、ダーウィンを乗せたビーグル号は世界のさまざまな土地に立ち寄りましたが、とりわけ1835年に訪れたガラパゴス諸島での観察が、のちに彼が発表する進化論のベースになりました。


その頃のヨーロッパでは、キリスト教の教えにもとづく「デザイン論」が優勢でした。地球上のさまざまな生物たちは、創造主である神によって、うまく生きられるようにデザインされたとするものです。これは、前述したアリストテレス哲学とキリスト教の教義とが融合した結果、広まった考え方でした。


しかし、ダーウィンはビーグル号での航海で得たさまざまな標本や、観察の経験をもとにデザイン論を捨て、新たに自然選択にもとづく進化論を構築していきました。


その作業には長い年月がかかりましたが、1858年、イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823〜1913)からの手紙で、彼が似たような考えを持っていることを知って発表を急ぎ、その年にリンネ学会において自身の論文とウォレスの論文を並べて発表し、翌1859年に、いわゆる『種の起原』の出版にこぎつけたのです。


『種の起原』は、世界は神が創造したとする創造説と進化論との間で大論争を引き起こしましたが、“ダーウィンの番犬”と呼ばれたトマス・ヘンリー・ハクスリー(1825〜1895)の援護もあり、進化論が徐々に認知されていきました。



【写真】チャールズ・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、トーマス・ヘンリー・ハクスリ

ダーウィンの進化論が生んだ「新たな問題」
すると、新たな問題が生じました。進化論では、ある生物種は別の生物種から進化することにより誕生します。これをずっと過去に遡っていくと、最初の生物にたどり着きます。では、その生物はどのようにして誕生したのでしょうか?


この問題に対して、ダーウィンは1871年に、友人の植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(1817〜1911)宛ての手紙の中で、こう書いています。


「もし(ああ、何とありそうもない「もし」なのでしょう)さまざまな種類のアンモニアやリン酸塩が溶けた温かい小さな池に、光や熱や電気などが加えられたとしたら、タンパク質分子が化学的に合成され、より複雑なものへと変化したでしょう。今日ではそのような物質はすぐに食べ尽くされてしまうでしょうが、生命が誕生する前では、そうはならなかったでしょう」



今日の目から見てもなかなかいい線をいっているように見えますが、その後、ダーウィンはこの考えをさらに進めてはいないようです。ここに「生命はどのようにして誕生したのか」、つまり「生命の起源」という科学上の新たな問いが誕生したのです。


「パンスペルミア説」の登場
最初の生命は生物進化によっては誕生できないので、自然発生したと考えるしかありません。しかし、自然発生は、パストゥールの有名な「白鳥の首フラスコ」(空気は入るけれど微生物は入らないようにすに考案した実験装置)」を使った実験によって、否定されています。地球上では生命の自然発生ができないのならば、生命は地球外から持ちこまれたのではないか?


このように生命の起源を地球外に求めようと考える科学者たちが現れました。その中には大物科学者も含まれていて、熱力学第二法則で知られる英国の物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿、1824〜1907)もその一人でした。トムソンは1871年に英国協会で「生命の種が隕石によってもたらされた」という考えを述べています。


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【写真】ウィリアム・トムソンとスヴァンテ・アレニウス(

20世紀が始まってまもない1903年、スウェーデンの物理化学者スヴァンテ・アレニウス(1859〜1927)は、『Die Umschau』という雑誌に「宇宙における生命の分布」という論文を発表しました。そこで彼は、宇宙空間には生命の種(sperma)があまねく(pan)存在しており、それらが光の圧力によって移動して地球にたどり着き、地球生命のもとになったと述べて、「パンスペルミア」という言葉を用いました。


アレニウスは高校の教科書にも名前が載るほど有名な物理化学者であり、同じ年にノーベル化学賞を受賞しています。今日でもパンスペルミアというと必ずアレニウスの名前が引用されるなど、生命の地球外起源説の代表とされています。



パンスペルミア説への批判としては、まず、生命の種が過酷な宇宙空間で長時間生きつづけるのが困難と考えられることがあります。しかし現在では、生物の惑星間移動の可能性が実験などで検証されていて、この点からはパンスペルミアは一概に否定できなくなりました。


第二の批判は、その宇宙から来た「生命の種」がどのようにしてつくられたかについては、何も答えていないことです。つまり、問題を先送りしているにすぎないというわけです。こちらは「生命の起源」を議論するうえでは致命的といえますね。


*      *      *


このように「進化」という考え方が認知された結果、その原点にある「生命の起源」という問題につきあたりました。そこから、「生命の種」がどのようにしてつくられたか、そして、生命と非生命の違いとは何か、という問題も生じてきてきたのです。


続いて、近代における生命論の変遷の後半を見てみましょう。舞台は、19世紀から20世紀へと移っていきます。


生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか


生命はどこから生命なのか? 非生命と何が違うのか? 生命科学究極のテーマに、アストロバイオロジーの先駆者が迫る!

 
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「東京ディズニーランド」「東京ドイツ村」 なぜ千葉県の大型施設には「東京」がよく使われるのか

2025年03月26日 15時03分08秒 | 天候のこと
「東京ディズニーランド」「東京ドイツ村」 なぜ千葉県の大型施設には「東京」がよく使われるのか
 
 
2023/01/07(土) 12:22:19.2023
 
 
「東京」を冠する千葉スポット

 東京都内になくても、名称に「東京」が入る会社やマンション・アパート、店舗は多い。大きな意味での東京圏という意味なのだろう。当然、イメージをよくしたいという思いも働いている。首都圏以外でも、知名度の高い中心都市の名称を冠することはよくあり、特に珍しいことではない。しかし、千葉県では県のシンボルとなるような大型施設の名称にまで「東京」が頻繁に使われている。2004(平成16)年には民営化に伴い「成田国際空港」に改名したものの、新東京国際空港(成田市)、東京ディズニーランド、東京ディズニーシー(ともに浦安市)、東京ドイツ村(袖ヶ浦市)など、ベイエリアでは「東京湾」に面しているという理由で「東京」を使用する施設が多い。ここまで主要施設に他の都市の名称を使用する県も珍しい。


 もちろん、背景にはイメージをよくしたいという思いが強くあることは間違いない。また、そのほかの大きな理由のひとつとしては「CHIBA」という言葉の響きが英語の薬物を意味するスラングに似ており、外国人には印象がよくないことから、外国人の利用が多い施設において敬遠されたということもある。

 しかし、それならば県ではなく市の名称や、千葉県をイメージさせる別の言葉を使うことも考えられただろう。なぜ千葉県ではここまで「東京」を冠するのだろうか。

東京都への就業・通学流出が顕著

 改めて、千葉県の立地特性と就業構造を見てみたい。

 千葉県の中心都市である千葉市と東京都中心部は首都圏の東方面の大動脈であるJR総武本線で直結しており、JR千葉駅からJR東京駅までは総武線快速で約40分で結ばれている。

 そのほかにもJR京葉線、JR常磐線、京成線、最近ではつくばエクスプレスなど、千葉県内には東京都中心部に乗り入れる鉄道網が多数存在しており、東京への通勤・通学には非常に便利だ。

 新型コロナウイルス感染拡大前の2015年の国勢調査によれば、千葉県西部の都市の東京都への就業・通学流出率は

・市川市:46.8%
・松戸市:35.7%
・浦安市:48.6%

と高い比率になっている。同じ首都圏の埼玉県や神奈川県の都市を見ると、埼玉県は

・川口市:33.2%
・戸田市:39.4%

であり、神奈川県は

・川崎市:41.1%

であることから、東京都に近い都市では千葉県から東京都への流出が顕著であることがわかる。

 千葉県西部のエリアでは高度経済成長期からバブル期にかけて、交通の利便性を生かして宅地開発が活発化し、東京都ベッドタウンとして発達してきた。

 千葉県以外の地域から流入した人も多く、都内の職場で働き、日常品以外の買い物やレジャーも都内の施設に出掛けることが多かったため、自分が千葉県民だという意識が薄い住民が多く存在した。バブル期において、千葉県西部の住民は意識的にはどちらかというと都民であったのだろう。

 全文はソースで 
 
 
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向こう岸から見る眺め

2025年03月26日 08時03分47秒 | いろいろな出来事
対岸から見ると、別の世界ですね🍀
 
 
 
 
3・21・2022
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渋谷の東急本店、55年の歴史に幕…閉じられたシャッターに多くの拍手

2025年03月26日 03時03分35秒 | 不動産と住環境のこと
>確かに、あそこは学生の頃から通路として通過する場所で、東急本店には何十年といってなかったですね。
 
 
 
しかし、この店がなくなるとJR山手線と井の頭線の連絡通路は、どうなるのでしょうか? 道理で渋谷駅の大改築が進んでいるわけです。
 
渋谷の東急本店、55年の歴史に幕…閉じられたシャッターに多くの拍手
 
1/31(火) 19:57配信2023
 
3コメント3件
最後の営業を終えた東急百貨店本店(31日午後7時8分、東京都渋谷区で)=木田諒一朗撮影
 
 東京・渋谷の東急百貨店本店が31日に閉店し、55年の歴史に幕を下ろした。 
 
 
閉店した東急百貨店本店。跡地には高級ホテルや商業施設が入る複合施設が建設される(31日、東京都渋谷区で)
 
 最終営業日のこの日、店内は多くの買い物客でにぎわった。50年以上通ったという渋谷区の女性(76)は「食料品から洋服、雑貨まで全てここでそろえてきた。自分の家がなくなるような気分でとても寂しい」と話した。
 
 
 午後7時過ぎ、稲葉満宏店長(58)が「長い間支えてくださった皆様、本当にありがとうございました」とあいさつし、正面口のシャッターが閉まると、集まった大勢の客から拍手が送られた。店の跡地には、東急などによる再開発でホテルや賃貸住宅を含む地上36階・地下4階建ての複合ビルが2027年度に完成予定となっている。
 
 
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虚偽説明、管理費踏み倒し…憧れの会員制リゾートクラブがまぎれもない「負動産」になってしまった“残念すぎる理由”

2025年03月26日 00時03分57秒 | 不動産と住環境のこと

 

 

虚偽説明、管理費踏み倒し…憧れの会員制リゾートクラブがまぎれもない「負動産」になってしまった“残念すぎる理由”〈1250もの区分所有権を売り出し〉(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/57f96228c56448334d61209e90373b6d4f3b6db6

 

 

虚偽説明、管理費踏み倒し…憧れの会員制リゾートクラブがまぎれもない「負動産」になってしまった“残念すぎる理由”〈1250もの区分所有権を売り出し〉
3/15(土) 6:12配信

 

 


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文春オンライン
 電気、水道といった施設の利用に必要なインフラが止められ、他者の権利に阻まれて解体もできなければ売却もかなわない……。「負動産」状態になってしまっているリゾートマンションや会員制リゾートがいまや少なくない。

【画像】廃墟化してしまった、かつてのリゾート「エクストラクラブ岩原」の現在の様子

 はたして、一世を風靡した数々の物件はなぜ無用の長物になってしまったのか。ここでは、不動産の調査を続けるライターの吉川祐介氏による『 バブルリゾートの現在地 区分所有という迷宮 』(角川新書)の一部を抜粋し、1250もの区分所有権を売り出していたエクストラクラブ岩原について紹介する。(全2回の1回目/ 続き を読む)

◆◆◆

ある会員制リゾートクラブの会員権の販売手法
エクストラクラブ苗場。建物裏はガラスが破損している箇所もある

 新潟県長岡市に本社を置き、いわゆるラブホテルなどの経営を行っていた「協和観業株式会社」が、1980年代半ば頃から新潟県湯沢町において運営していた会員制リゾートクラブが「エクストラクラブ」だった。現役時は3か所の施設を運営していたが、すべて湯沢町内に存在していた。

 1号店となる「エクストラクラブ湯沢」は、独立した施設ではなく、85年10月に新築された「ライオンズマンション越後湯沢」の9階のワンフロアをすべて協和観業が取得し、200口に分割した共有持分として販売することでクラブの運営を行っていた。

 その後86年、苗場エリアにあった三国小学校浅貝(あさかい)分校(閉校)の隣に5階建ての専用施設「エクストラクラブ苗場」をオープン。

 そして同社の真打ちの施設となる、地下1階地上14階建ての「エクストラクラブ岩原(いわっぱら)」が88年に完成し、それぞれの施設の会員(共有持分者)が、相互にその3施設を利用できるシステムだった。

 同じ町内に三か所もの施設を構えたのは、前章で解説した通り、当時の湯沢町は苗場を中心に大変なスキーブームで、恒常的に宿泊施設が不足していたからであろう。

 協和観業が進出した時点で、すでに湯沢町内にはいくつかの会員制リゾートが存在していたが、マンションの建設ラッシュが続く湯沢町において、マンションの1室を購入できるほどの資金力を持たない層をターゲットに事業を拡大していたことは間違いない

 協和観業は、会員権の販売手法も、また運営もトラブル続きの問題企業であった。そもそも1店目である「エクストラクラブ湯沢」が置かれたライオンズマンション越後湯沢の9階は13室あるのだが、各部屋はそれぞれ区分所有登記が行われておらず、協和観業は9階部分のワンフロアを丸ごとを200口に分割して販売していた。

 会員制リゾートの会員は、自分が共有持分を所有している部屋しか使用できないわけではなく、予約時の状況に応じて施設のいずれかの部屋が割り振られる。

 そのため、ワンフロアを200口に分割して登記していたとしても、施設の運営に直ちに影響が出るわけではなく、問題は表面化しないかもしれない。

建物一棟全120室を1250口に分割して販売
 しかし建前上は、その共有持分登記は会員の入会金などの担保になるものなので、他のリゾート会員施設では各居室にそれぞれ10〜20人単位で共有持分登記を行うのが一般的だ。

 苗場、岩原で新築された2施設についても、苗場は全32室を320口、岩原は全120室を1250口に分割して共有持分登記が行われている。ちなみに第一次会員の販売価格は一口303万円である。

 建物1棟全体を会員全員の名義で共有する手法は、エクストラクラブに限った話ではないだが、1200人を超える見ず知らずの赤の他人と共有している、自分がどの部屋の権利を有しているかも明確ではない状態の「所有権」に、果たして数百万円の担保価値があると言えるのか。

 もちろんそれは、結果を知っている今だからこそ言える話なのかもしれないが、このエクストラクラブの新築時点で、不動産共有型のリゾート会員権には同様の懸念が持たれていたのも事実なのだ。

 会員権購入者からの批判の高まりを受けて通産省がリゾートクラブ業界の実態に関する報告書を公開したのは、エクストラクラブ湯沢の開業からわずか9か月後のことである。

 同社のパンフレットでは「元金は不動産として保証されます」などと断定しているが、多くの施設において、その謳い文句通りになっていなかったからこそ、運営会社と会員の間で紛争が頻発していたのだ。

 前述の東京弁護士会のパンフレットにおいても、セールスの謳い文句通りの売却価格が一切保証されていない事例が数多く掲載されている。

管理費や修繕積立金を20年以上払わなかった運営会社
 また協和観業は、およそ企業としての責任感も持ちあわせていない会社であった。

 前述のように「エクストラクラブ湯沢」は、一般の分譲リゾートマンションであるライオンズマンション越後湯沢の9階のワンフロアを丸ごと自社の会員施設として運用しており、全13室中12室は自社名義で区分所有権を取得・所有していた。当然区分所有者としてマンションの管理費や修繕積立金を支払う義務があった。

 ところが同社が管理費等を支払っていたのは新築からおよそ半年間ほどの期間だけである。施設の運営は、管理費を滞納しながら継続していた。おそらく最初からまともに費用を支払う気などなかったのだろう。

 あきれたことにその後同社は20年以上にわたって管理費を滞納し続けた。

 

 

 最終的にその滞納額は億単位に膨れ上がり、2019年、地元の管理会社が競売を申し立て、協和観業、および901号室にまだ残されていた会員の共有持分を差し押さえた。その後改装が施され、現在ライオンズマンション越後湯沢の9階部分は、地元企業が運営する民泊施設として運用されている。

会員の承諾を得ずに一般宿泊客を受け入れ
 最後に完成したエクストラクラブ岩原は、1〜3階部分に喫茶店やボウリング場、テニスコートなどの共有設備を備えており(商業施設の区分は協和観業が単独で所有)、会員用の施設としてだけではなく、一般の宿泊施設(ホテルエクストラ)として宿泊客の受け入れも行っていた。

 しかしこれも信じがたい話であるが、同社が区分所有権の販促用に発行していたパンフレットのどこを見ても、一般客を受け入れる宿泊施設として運用するなどという記載はない。それどころか広告内には「限定オーナー制」との文言があり、あたかもオーナーしか利用できないかのような(というより、そうとしか読み取ることができない)記載がある。

 会員制リゾートとして運用する一方、一般の宿泊客も別料金で受け入れている施設はあるが(例えば東急ハーヴェストクラブの一部施設も非会員の利用が可能)、共有持分であれ当然部屋の所有者の承諾が必要になるものであるし、クラブによっては部屋の権利を有する会員に対し、ホテルの収益の一部を分配するところもある。

 協和観業はそうした会員へのリターンを行った形跡もなく、そもそもホテルとしての運用自体、会員すべての承諾を得て行われていたものですらなく、あまつさえ、より高額の宿泊料を取れる(会員向けの割引価格が適用されない)一般客の予約を優先するあまり、会員の方が逆に予約を断られるという本末転倒の有様だった。

虚偽だった「未利用宿泊券買上げシステム」
 エクストラクラブの会員には、年間に、夏季利用券と冬季利用券がそれぞれ10枚ずつ、つまり年20泊分の宿泊券が送付されていたが、協和観業はこの宿泊券の未利用分について、1枚8500〜1万円で買い上げるので、エクストラクラブの会員権は「財テク」としても有効であると謳われていた。

 パンフレットにはご丁寧にも、利用券買い上げシステムの財源確保の手段まで記載しているが、それを読む限り会員が宿泊時に支払う施設利用料(ルームチャージ1室3000円、一人1泊1000円)を、未利用宿泊券の買い上げ資金に充当するという。

 本来、施設の維持管理に充てられるべきルームチャージを、換金性の低い宿泊券(運営会社自身が引き取るのならなおのこと換金性がない)の買い上げに回していたら、施設の維持管理費用はどこから捻出するのか。

 

 会員は年会費を支払っているが、それだけでは到底施設の修繕や管理・スタッフの人件費などまかなえるものではない。

 僕のYouTube チャンネルでこのエクストラクラブを扱ったのち、エクストラクラブの元会員であるという視聴者の方から連絡をいただいた。

 その方によれば、結局この利用券買い上げシステムなるものは実際には一切機能しておらず、未利用の宿泊券が買い上げられることは一度もなかったという。パンフレットの記載は完全に虚偽であった。

リゾートクラブ存続中に宅建業免許を失っていた
 万事がこんな有様なので、ほとんど詐欺のような話であり、そのため協和観業は常に顧客とのトラブルが絶えなかったようである。

 協和観業は、管理費すらも踏み倒したことからもわかるように、積極的な情報公開やアフターフォローを行うような体質の企業ではなく、僕に連絡をくれた元会員の方は、裁判によって共有持分の買戻しに応じさせたと振り返っている。

 協和観業が所有していた長岡市内の自社ビルは、94年の時点で売却済みで、以降はそのビルに賃借人として入居して営業を続けていた模様だが、協和観業のグループ会社であり、エクストラクラブの会員権販売を手掛けていた「エクストラ販売」は95年には宅建業者としての業務を休止して、95年4月28日付の官報の宅地建物取引業保証協会弁済業務保証金(宅建業法により宅建業開業時に法務局への供託が義務付けられている営業保証金)取りもどし公告に、エクストラ販売の名前が記載されている。

 協和観業、エクストラ販売はともに登記上は今なお存続しているが、宅地建物取引業免許は、まだエクストラクラブが現役だった時点で失っていることになる。

 当時新聞に出されていた広告などの資料を見ると、協和観業は90年代以降、湯沢町だけではなく千葉県の旧大原町(現・いすみ市)にも同様の施設の建築を計画していたらしい。

 今でも同市内には、協和観業名義の開発用地や開発許可申請の記録が残されたままだが、施設そのものの建築は実現されることなく、進入路の舗装と擁壁工事のみが行われた状態で放置されている。

 バブル崩壊後の90年代以降の協和観業は、会員制リゾートクラブの運営はほぼ停滞状態で、裏で複数の訴訟を抱えつつ、岩原の施設を使用したホテル経営を細々と続けていたようである。

写真=吉川祐介 

 〈写真あり〉「小さな投資で大きく楽しめる会員制別荘」はいまや“有名心霊スポット”に…なぜそんな惨劇が起こってしまったのか  へ続く

 

 

 

 

 

 

 

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