2022/04/25(月) 11:21:57.

北海道の知床半島の沖合で観光船が消息を絶ち、26人が行方不明になってから3日目…
捜索に向かう漁船を見守った行方不明の乗客の家族が、悲痛な思いを話しました。

漁船の出港を見守った鈴木剛さん51歳…22歳の息子の智也さんが、交際中の女性と乗船していて、行方がわからなくなったといいます。
斜里町のウトロ漁港の駐車場には、智也さんの車が残されたままになっています。

◆鈴木さん…「何とか早く見つけて話して欲しい。本当に…きょう(25日)で3日目なんですよ。沈んだまま帰ってこないんですよ」
「きのうも(24日)も(遺体を)見たけど、やっぱりいなかったっていう辛さですよね。遺体あがったって確認してきたけど、全部、自分の息子ではなかったので…」
「一日も早く、捜索して見つけて、温かい布団をかけてあげたい、ただ、それだけですね、本当に悔しいです」
◆息子さんは…「(息子は仕事の)休みをとって、誕生日なので、サプライズで休みをとって(交際中の女性と)2人で旅行に来た」
「ここから乗ってって、一瞬の動画だったけど、これから行きますって、クルーズ船に乗って出ていったのが最後です」
「彼女の表情が、こういう状況で喜んでいましたと、一瞬だったけど、10秒くらいの動画、それが最後です」
「彼女の親御さんも来ているけど、ショックを隠しきれない、辛いです本当に」
「船でサプライズで、僕ら知らなくて、息子は僕らにも黙っていたけど、指輪も買って、そこでプロポーズを決めていたらしいんですよ」
「本当に彼女の親御さんとも夕べ、泣きながら話したけど、バラバラじゃなくて、せめてどんな形であれ一緒に出てきて欲しいと。それをせつに願っています」
「もう、ダメなのは覚悟しているけど、2人一緒に見つかって欲しい、それだけです」
8歳から12歳のうちに鋭い剃刀で陰茎と陰囊を一気に切り落とす…国を支えるために「去勢手術」が公然と行われていた“驚愕の理由”

4/28(木) 6:12配信
中国や朝鮮の歴代王朝が、女性だけが住まう「後宮」を構えていたことはTVドラマでもお馴染みだろう。かつては天皇家も後宮を有しており、徳川将軍家も大規模な「大奥」を持っていた。しかし、日本と諸外国の後宮組織には大きな違いがある。それは「宦官」という存在の有無だ。
【写真】この記事の写真を見る(2枚) 男性器を切除された男性しかなれなかった「宦官」とは、いったいどのような存在だったのか。ここでは、歴史学者の小笠原弘幸氏がオスマン帝国の後宮についてひもといた『 ハレム:女官と宦官たちの世界 』(新潮選書)の一部を抜粋。かつてのイスラム帝国で行われていた奇妙な慣習について紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む) ◆◆◆
宦官とは何か
©iStock.com
オスマン帝国の後宮「ハレム」の住人たちのなかで、異色の存在が、宦官である。 宦官とは、男性器を切除された男性である。古来、東は中国から西はオリエント・地中海世界まで、さまざまな文化圏に、宦官は存在した。彼らは、君主や有力者に仕え、主として寵姫たちの住まう後宮で働いた。生殖能力を制限されているため、女性たちの管理者としてふさわしかったからである。
オスマン帝国のハレムでも、母后の右腕として、女官たちの統括役として、宦官は大きな存在感を持った。ハレムのなかのみならず、国政に大きな影響力をふるった宦官もいる。
イスラム誕生以前のアラビア半島において、宦官が利用されていたかどうかは定かではない。たとえ利用されていたとしても、預言者ムハンマドは、宦官にたいして否定的な言行を残している。イスラム法では、みずからの意思で去勢手術を受ける自宮はもちろん、動物の去勢についても厳しく制限されているほどである。また、中国では、男性器を切除する刑罰である宮刑がしばしば行われたが、これも認められていなかった。
しかし、非ムスリムを対象とし、さらにイスラム世界の外で施術が行われるぶんには、人間の去勢は合法とされていた。そのため、宦官は基本的にイスラム世界の外部から供給されたのである。こうしてイスラム世界に輸入された宦官の身分は、まず奴隷であった。しかるのちに、主人の計らいによって自由人として解放されることがあるのは、一般の奴隷と同じである。なお、法的には、宦官は男性として扱われたことも付言しておく。
エジプトにあった「去勢手術ギルド」
前述したように、イスラム法の規定では、宦官の施術は、イスラム世界の外側でなされねばならなかった。
そのため白人宦官を作るための手術は、伝統的には、イベリア半島南部やフランス北部で行われた。しかしオスマン帝国においては、脱法的に、帝国領内で施術されたと考えられる。 黒人宦官の供給元は、東アフリカ、とくにキリスト教国であるエチオピア王国であった。エジプトに「去勢手術ギルド」があり、大々的に施術を行っていたという記録もある。エジプトはイスラム世界の内側であるから、やはりこれも脱法行為であった。
宦官の施術に適するとされた年齢は、8歳から12歳のあいだだった。性的欲求を感じる前が適切だと考えられたからである。
去勢には、睾丸のみ摘出するやり方と、陰茎と睾丸の両方を取り除くやり方があった。前者であれば陰囊を切り開いて睾丸を摘出し、後者であれば鋭い剃刀で陰茎と陰囊を一気に切り落とす。
オスマン帝国の宦官制度に影響を与えたと考えられるビザンツ帝国の宦官は、睾丸のみ摘出されていたから、最初期のオスマン帝国の宦官はこれと同様だったと考えられる。しかし、のちに全切除による去勢が一般的となる。
これがなぜ、いつごろ変化したのかははっきりしない。16世紀のギリシア系イタリア人であるスパンドゥーネスの著作によれば、あるときメフメト2世は、去勢された馬が驢馬(ろば)と交尾をしようとしているのを見た。
すなわち、去勢が十分ではなかったのだ。そのためメフメト2世は、宦官の去勢も、徹底的なかたちで、つまり全切除で行うように命じたという。ただし、スパンドゥーネスの伝える逸話は荒唐無稽なものも多いから、参考程度にしておくべきだろう。
全切除の場合、尿道の詰まりと化膿は、術後に生ずる危険の最たるものであった。そのため、傷が癒えたときにふさがらないよう、尿道に金属の棒が挿入され、また化膿を防ぐために、手術は涼しい季節に行われた。とはいえ抗生物質のない時代、手術の死亡率は非常に高く、およそ半数、熟練した術者の手であっても4分の1が死亡したという。このため宦官は高価な商品となり、通常の奴隷より、およそ2倍から3倍の価格で取引された。
性的搾取の恐れなく少年たちを監督するために…
オスマン帝国において、宦官はいつから利用されたのだろうか。
オスマン帝国における宦官の組織的活用は、15世紀前半にはじまり、デヴシルメ制(キリスト教臣民の少年を徴用する制度)、そして君主の側近として小姓を育成するシステムの形成と並行して発展した。
内廷で働く小姓は、君主の身の回りを世話する、将来のエリート候補生である。男性といえども成人する前は性的な対象となりえたから、性的搾取の恐れなく少年たちを監督するために、宦官が必要とされたのだ。
小姓たちを監督する役目をつとめたのは、白人宦官である。その供給源はさまざまであった。そのひとつに、バルカン地方での戦争捕虜があげられる。15世紀までのオスマン帝国は、バルカンのキリスト教諸国と頻繁に干戈を交えていたから、捕虜には事欠かなかった。
また、デヴシルメ制で徴用された少年たちの一部も、宦官になるよう取り計らわれた。去勢手術の生存率は、若い方が高かったから、徴用された者のなかでも年少者が対象となったと考えられる。ただし時代が下ると、女奴隷同様、宦官にされる男性の白人奴隷もコーカサス地方から購入されることが一般的となった。
白人宦官の去勢手術
白人宦官の場合、施術はおそらく帝国内で行われたと思われる。たとえば、高名な白人宦官長ガザンフェル・アアは、おそらく宮廷医師によって去勢されている。また、16世紀後半に宰相やエジプト総督を務めたメスィフ・パシャも、ボスニア出身の宦官であり、宮廷で去勢手術を受けたという。しかし、イスラム法との矛盾をどのように解決したのかはつまびらかではない。
なんにせよ、宮廷で施術を受けることができた者は、まだ幸運だったといえよう。白人宦官ハジュ・ムスタファ・アアの運命は、過酷かつ数奇なものだった。ムスタファはトルコ人を父とし、ボスニア地方の劣悪な環境で育った。あるとき、ひとりの非正規兵がムスタファを男娼としてかかえたすえに、彼に去勢手術を施した。手術は成功し、非正規兵は彼をイエメン総督マフムト・パシャに献呈する。非正規兵は多額の見返りを受け取ったことだろう。なにしろ、宦官は通常の奴隷よりもはるかに高い値が付くのだ。
ほかにも、1560年、バルカン半島の町プリズレン近郊の地方指揮官が、オスマン臣民である3人の少年を捕らえて去勢手術を施したが、みな死亡し、その指揮官は民を虐げた罪で罰せられたという例がある。そもそも、ムスリムや、非ムスリムであっても帝国臣民を奴隷としてはならない。さらに帝国内での去勢手術は禁じられているから、これは二重の違法行為であった。
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〈知られざる世界の慣習〉男性器を切り落とすことで出世する…!?
帝国でもっとも権勢を誇った「宦官」たちとは何者だったのか 〈知られざる世界の慣習〉男性器を切り落とすことで出世する…!? 帝国でもっとも権勢を誇った「宦官」たちとは何者だったのか へ続く