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ノーベル賞選考委員会>最強の頭脳集団?ノーベル賞を選ぶ人々>古い知り合いの

2023年10月05日 11時03分25秒 | 科学のはなし
ノーベル賞、なにか人知を超えた知的存在が決めているかの錯覚を覚えますが、普通の人間が選考しています。

トマス パールマン:生理医学賞の選考委員長:2022で退任
>昔のライバルでした。トマスも偉くなったものです☆

ノーベル賞、神様が決めるものではなくて、
生臭い人間の所業ですw



今日の、ノーベル生理医学賞の受賞記事を見ると、古い知り合いの名前を見つけて記事にしました>トマス パールマン カロリンスカ研究所の教授になったのはずいぶん前ですが、2016年から生理医学賞の選考委員長を務めているそうです。ずいぶん偉い人になったものです。
Thomas Perlmann

トマスの師匠筋が少し間の委員長だったので、やはり人脈で決まるようですね。ノーベル賞選考は、世界最高レベルの研究者が選ばれるのは確かですが、
最終的には、かなり選考委員の「好み」が反映されるようです。所詮は人間が選ぶものですから☆


The Nobel Committee for Physiology or Medicine 

PS.選考委員は、それほど業績のある人々ではないですね。少なくとも、この委員になると、ノーベル賞はもらえなくなるようです。。


 
The Nobel Committee for Physiology or Medicine at Karolinska Institutet is responsible for the selection of candidates for the medicine prize from the names submitted by invited nominators.

Nobel Committee for Physiology or Medicine 2022

Members

Olle Kämpe
Professor in Endocrinology

Nils-Göran Larsson (Chair)
Professor of Mitochondrial Genetics

Gunilla Karlsson-Hedestam
Professor of Immunology

Sten Linnarsson
Professor of Molecular Systems Biology

Per Svenningsson
Professor of Neurology

Thomas Perlmann (Secretary)
Professor of Molecular Development Biology
 
The committee members are elected for a period of three years. In assessing the qualifications of the candidates, the committee is assisted by specially appointed expert advisers.

See a presentation of the committee members

The Nobel Assembly at Karolinska Institutet – prize awarder for the Nobel Prize in Physiology or Medicine

Process of nomination and selection of medicine laureates
Web site of the Nobel Assembly at Karolinska Institutet

To cite this section

 MLA style: The Nobel Committee for Physiology or Medicine. NobelPrize.org. Nobel Prize Outreach AB 2022. Tue. 4 Oct 2022.
 <https://www.nobelprize.org/about/the-nobel-committee-for-physiology-or-medicine/>    

Thomas Perlmann
From Wikipedia, the free encyclopedia

Swedish professor

Rolf Thomas Perlmann, (March 2, 1959, Stockholm, Sweden) is a professor of molecular developmental biology at Karolinska Institute.[1] In 2006, he became a member of the Nobel Assembly at the Karolinska Institute. He became an adjunct member of Karolinska Institutet's Nobel Committee in 2008 and was then elected in 2012. He has been Secretary for the Nobel Committee for Physiology or Medicine since 2016.[2] 



Thomas Perlmann: “Everyone is passionate about the Nobel Prize”



Thomas Perlmann: “Everyone is passionate about the Nobel Prize”  

Few prizes attract the same attention worldwide and have such a rigorous selection process as the Nobel Prize. According to Thomas Perlmann, secretary of the Nobel Assembly and the Nobel Committee, the importance of preserving the prize’s reputation is greater than ever before.
Text: Helena Mayer, first published in Swedish in the magazine Medicinsk Vetenskap, No 3/2018.
The 50 professors that make up the Nobel Assembly at Karolinska Institutet are responsible for selecting the researcher or researchers who will receive the Nobel Prize in Physiology or Medicine each year. In addition to the Nobel Assembly, there is also the Nobel Committee, a working body of roughly 15 people responsible for carrying out much of the practical work.
Image:
           
Caption:
            Thomas Perlmann. Photo: Erik Flyg.
“The most fun is without a doubt the preparations and the meetings held in the Committee and the Assembly. You get to read some incredibly exciting research, people are very committed, and there is no question that they are passionate about the Nobel Prize,” says Thomas Perlmann, secretary of both the Nobel Assembly and the Nobel Committee for Physiology or Medicine since 2016.
The Assembly votes on which candidates to proceed with.
“We air our opinions, but in a friendly manner. Our opinions and feelings may differ,” says Thomas Perlmann.
According to Perlmann, it is thanks to the careful investigative work that the right research has been awarded over the years.
“But if I was to give an example of an oversight, it would be Oswald Avery’s discovery in 1944 that DNA is the molecule carrying our genome in the cells, which was a find worthy of a Nobel Prize. Avery was nominated, but he was never awarded the prize before his passing away,” says Thomas Perlmann.





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ノーベル賞ワクチン学者・カリコ氏「パンデミックが起こらず、自分が無名のままでいるほうが良かった」

2023年10月05日 10時03分46秒 | 科学のはなし
ノーベル賞ワクチン学者・カリコ氏「パンデミックが起こらず、自分が無名のままでいるほうが良かった」 (msn.com) 





10/4/2023

© PRESIDENT Online
2023年のノーベル生理学・医学賞の受賞者に、米ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ非常勤教授(68)と同大のドリュー・ワイスマン教授(64)が選ばれた。新型コロナウイルスのmRNAワクチンの開発が評価された。カリコ氏は反骨の研究者として知られ、「科学者はロックミュージシャンと同じ」と語っている。増田ユリヤさんの著書『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)より、一部をお届けする――。
カリコ氏の研究には日本人博士も参加
2005年に論文を発表した頃から、カリコ氏の研究に日本人の村松浩美博士が加わった。村松氏は大学の隣の研究室に所属していて、脳虚血が起こす炎症反応の研究をしていたという。彼は動物実験を得意としていたが、研究に行き詰まりを感じていた。そこで、カリコ氏の誘いを受け、研究室の教授にも黙認してもらう形で共同研究に参加するようになった。


2012年には、シュードウリジンにさらに修飾を加えて改良し、タンパク質をさらに効果的に作ることにも成功した。現在のワクチンに使われているのはこの技術を使ったmRNAである(メチルシュードウリジン)。この年、日本の武田薬品工業から、肺気腫の治療を目的としたmRNA開発の資金提供を受けることになった。


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翌2013年に来日したカリコ氏は、武田薬品工業を訪問しているが、彼女自身の研究に使えた資金はほんの一部でしかなかったそうだ。それでもカリコ氏は、研究を続けたい、そのための資金を出してくれるところなら、どこへでも行こうという気持ちだったという。
化学療法が効かなくなった患者になにができるか
同じ頃、カリコ氏の研究に着目した人がいた。それが、ドイツの製薬会社「ビオンテック」の創業者、ウグル・サヒン博士だ。ビオンテックは、2008年にサヒン氏と妻のオズレム・トゥレシ氏が創業したベンチャー企業。ふたりとも、トルコ系移民2世の医師である。


30年前に大学病院で出会ったふたりは、新たながん治療の開発を志していた。サヒン氏もまた、mRNAの研究を長年続けていたひとり。がんの治療で化学療法が効かなくなった患者に対して、何も提案ができないことをもどかしく思っていた。


がんの場合、いわゆる「標準治療」がすでに確立されてはいたが、それだけではあっという間に患者に対してできることがなくなっていくことに気付いたという。そこで、2001年に最初の会社を設立して、正常な細胞を傷つけずにがん細胞だけを攻撃する抗がん剤の開発に当たった。いわゆる抗体療法である。


ビオンテック設立の理由
なぜ、会社を設立したのか。


そこには学術界における「死の谷」の存在があった。「大学病院で研究を続けていた私たちが、がんの治療薬を作る研究成果をあげても、その成果を使って薬を作ってくれる企業がなければ、患者のいる病床に届けることができなかった。それが会社を立ち上げる動機となった」とサヒン氏はインタビューで語っている(2020年12月3日THE WALL STREET JOURNAL 日本版ウェブサイト)。


その後、がんの治療法の研究を、抗体療法からmRNAを用いる方法にも広げるために創業したのがビオンテックである。


mRNAワクチンは壊れやすくて不安定だった
2013年7月、カリコ氏の講演を聞きに来ていたサヒン氏は、カリコ氏に声をかけた。


「私たちが開発した、改良型mRNAがサヒン氏の会社で使えるのではないかと、興味をもってくれたのです。彼は、その場で私に仕事のオファーをしてくれました。私もOKと即答しました」(カリコ氏)


同年、ビオンテックのバイス・プレジデント(副社長)に就任したカリコ氏。ペンシルベニア大学で一緒に研究をしてきた村松氏とともに、ドイツへ渡り、ビオンテックで研究を続けることを決意する。


製薬ベンチャー企業のCEOの多くは、研究者ではなく単に経営者ということが多いが、ビオンテックCEOのサヒン氏は科学者。しかも、財務、セールス部門の責任者も含め、取締役は全員科学者だという。科学の視点に重きを置き、だからこそ、誰もやったことがない新しいことに次々と挑戦していくビオンテックの姿勢にカリコ氏も納得し、やりがいを感じてきた。これまでの大学での環境から考えると、雲泥の差だ。


おすすめのビデオ: 「いたずらかと思った」本人驚き mRNAコロナワクチン開発貢献の2人にノーベル賞 (テレ朝news)
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ここでカリコ氏は、サヒン氏はじめ仲間たちと一緒に、がん治療のワクチンや、ジカウイルス、インフルエンザウイルスのワクチン開発にすでに着手していた。mRNAの技術を使ったワクチンは壊れやすくて不安定だったが、脂質の膜で覆うことで不安定さを克服することにも成功した。


新型コロナウイルスの世界的流行に対応
カリコ氏は、2020年2月初旬、中国武漢で新型コロナウイルスの流行が始まったという知らせを、姉に会うために帰国していたハンガリーで聞いた。どんどん情報は入ってきたが最初は「遠い中国のことでしょう」くらいにしか思っていなかったそうだ。


しかし、ビオンテックCEOのサヒン氏は、それより前の2020年1月25日の段階である論文を読み、中国で発生した原因不明の病気が世界を巻き込むことを確信し、すぐに新型コロナワクチンの候補を10種類ほど考えて設計した。すでにビオンテックは、2018年からファイザーとの共同開発でmRNAを使ったインフルエンザワクチン開発に着手していて、臨床試験を始める段階だった。


その積み重ねがあったので、新型コロナワクチンも、世界各地で臨床試験を展開し、製造や配送をするための準備に時間はかからなかった。2020年3月にはファイザーとの間に提携契約を結び、4月には臨床試験が始まった。このスピード感で11月には治験の結果が導き出され、サヒン氏からカリコ氏に報告の電話がかかってきた。


実用化が確実となった瞬間
「11月8日、この日は日曜日でした。サヒン氏がアメリカに電話をしてきたのです。『部屋に誰かいるか?』と聞かれたので、夫がいると答えました。夫に話していいのかどうか、知られてもいいかどうかはその時点では判断がつきませんでしたが、電話の向こうからサヒン氏が『フェーズ3の結果は有効だ』と言ってきたのです。結局、夫にも『うまくいったわ』と話しましたが」(カリコ氏)


フェーズ3とは、新薬開発で多数の患者さんへの治験の段階をさす。第3相という言い方もするが、この3番目の段階で有効で安全と判断されれば、承認を経て実用化ということになる。


記念すべきワクチン接種の日
翌12月、カリコ氏はワイズマン氏とともに、ペンシルベニア大学でワクチンを接種した。


普段は感情的にならないカリコ氏も、この時は感極まったそうだ。


「接種の準備が整うまでの間、ワイズマン氏とこれまでの研究を振り返って話をしました。目の前には、医療従事者や医師などが並んでいました。隣の部屋で、みな順番に接種をしていたのですが、私たちの接種が終わって外に出ると、『このワクチンの発明者が出てきたぞ』と脳神経外科のトップが言い、何人かが拍手をし始めたのです。そこで私もこれまでの様々な感情がこみあげてきて、涙ぐんでしまいました」


科学者はロックミュージシャンと同じ
そんなカリコ氏だが、それでも彼女の生きる姿勢や考え方、価値観には揺るぎないものがある。


「真に称えられるべきは、新型コロナウイルスと最前線で向き合っている医療従事者や、こんな時でも仕事を休めないエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちです。私はただ研究や実験に没頭してきただけ。好きなことを続けてきただけなのです」


「ワクチン開発によって、自分がこれほどまでに注目されるようになるとは思ってもみませんでしたが、だからと言って、私の何が変わるわけでもない。パンデミックで自分が有名になることと、パンデミックが起こらずに自分が無名のままでいることと、どちらを選ぶかと聞かれたら、迷わず後者を選びます。私は、基礎科学の研究者。mRNAワクチンの技術が他の病気の予防や治療に役立つこと。それこそが、私が願っていることなのです」



「科学者は、生涯歌い続けるロックミュージシャンと同じ。私も命ある限り、研究を続けていきます」





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ノーベル生理学・医学賞受賞!ワクチン開発の立役者カタリン・カリコ氏。母国では正規雇用されず失職、テディベアにお金を隠して出国…。

2023年10月04日 09時03分29秒 | 科学のはなし

ノーベル生理学・医学賞受賞!ワクチン開発の立役者カタリン・カリコ氏。母国では正規雇用されず失職、テディベアにお金を隠して出国…。それでもなぜ<世紀の発見>を成し遂げられたのか?(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース 




ノーベル生理学・医学賞受賞!ワクチン開発の立役者カタリン・カリコ氏。母国では正規雇用されず失職、テディベアにお金を隠して出国…。それでもなぜ<世紀の発見>を成し遂げられたのか?
10/3(火) 12:02配信


婦人公論.jp
新型コロナワクチン開発の立役者はハンガリー人の女性だった(写真提供:写真AC)


10月2日に2023年のノーベル生理学・医学賞の受賞者が発表され、アメリカ・ペンシルベニア大のカタリン・カリコ特任教授と、ドリュー・ワイスマン教授に授与されることが決まりました。カリコ氏は新型コロナウイルスに対するmRNAワクチン開発の中心人物ですが、その生涯を振り返れば、母国・ハンガリーでは研究者として正規雇用されずに失職。やむなくアメリカに渡ることになるなど、苦労の連続だったそうで――。


【写真】カリコさんの長女スーザンさんと、1000ドルを隠したテディベア


* * * * * * *


◆研究費の打ち切り、新天地アメリカへ


1985年1月17日。


30歳の誕生日に、当時在籍していたハンガリー有数の研究機関であるセゲド生物学研究所を辞めなければならないと知らされたカタリン・カリコ氏。


RNAに関して、思わしい研究成果があげられなかったから研究費が打ち切られた、というのも理由のひとつだったが、どれだけ優秀であっても、若い人材を正規雇用することはできなかったのだ。社会主義の国では珍しいことだが、ハンガリーの景気が低迷し、研究資金を出せなくなっていたことがその背景にあった。それほど当時の経済状況が不安定だったのだ。


それでも、カリコ氏は研究を続けることを諦めたくなかった。


「ハンガリーで仕事を探したけれど、申請したところはどこも返事をくれなかったの」


「ヨーロッパの名門大学でも探したわ。理学部も医学部もあって、私たちが研究をしていたRNAも扱っていた大学を調べて連絡をしたのよ。でも無理だった」


まだEUなども存在せず、ハンガリーを援助したり、行き場を失った学者に国境を超えて職を提供したりするような仕組みはなかった。結局、オファーが来たのは、アメリカ東部フィラデルフィアにあるテンプル大学からだった。


「テンプル大学に手紙を書いたのです。自分が何者で、どんなことができるのか、ということを書きました。その手紙を同じ分野で活躍する先生が読んでくれて、研究所に私を呼んでくれたのです」

◆娘のテディベアにお金をしのばせて渡米


テンプル大学の生化学科が、ポスドク(博士課程修了後の任期付き研究職)として正式に職と研究の場を与えてくれるという、嬉しい知らせだった。とはいえ、当時のカリコ氏にとって、アメリカはまだ見ぬ未知の国。しかも、エンジニアの夫と2歳の娘という家族がいたし、設備の整った新しいマンションに引っ越したばかりというタイミングだった。


それでも、カリコ氏はアメリカに渡ることを即決した。


「かつてのハンガリーでは、より自分が成功できる環境を求めて、多くの優秀な人材が海外に出ていきました。私自身は家族と離れるつもりはなかったですし、母や姉もいましたから、帰りたいと思ったときにいつでもハンガリーに帰れる状態でいたかったんです」


「海外で生活をするには、パスポート(旅券)やビザ(査証)などの書類が必要になりますよね。当時のハンガリーは自由に海外渡航ができる国ではありませんでしたから、パスポートやビザをとるには、それなりの理由が必要でした。ソ連の影響下にありましたし、しかも行き先はソ連と対立関係にあるアメリカ。でも、大学で研究をするという正式なオファーですから、家族も一緒に出国許可を得ることができたんです」


行き先は決まった。正式に出国許可もおりた。次なる課題は資金をどうするか、ということだった。当時のハンガリーでは、個人が所持できる外貨は100ドルまでと制限されていた。つまり、それ以上は換金できないし、持ち出すこともできない。


100ドルといったら、日本円にして(当時)およそ2万円。家族3人でアメリカに渡るにはいくらなんでも少なすぎる金額だ。


「闇で車を売ったりして何とかお金を集めたものの、換金が認められてなかったのでとても苦労しました。実際には100ドルでなく、1000ドルを持っていきました。でも、見つかったら一巻の終わりです。そこで、お金をビニール袋に入れて、それをテディベアの背中を切ってしのばせました。そのテディベアを娘に渡して出国したわ。だから、実際にお金を密輸したのは私の娘であって、私たちではないのよ。今だから笑って話せるけれど、本当に怖かった。アメリカに到着するまで、娘とテディベアから目を離さなかったわ」(カリコ氏)


こうして、テンプル大学のあるフィラデルフィアに移住したカリコ氏一家。提示された年俸は1万7千ドルだった。当時の日本円にすると340万円。


「年俸1万7千ドルなんて、家族で何とか食べていける程度の額でしかない。チケットは片道しかありません。研究を続け、生き残っていくためには、アメリカ社会にできるだけ早く溶け込まなければならなかった。ドルで食べるものを買わなきゃならない。クレジットカードだって持っていないし、(1985年当時は)携帯電話なんてなかった。しかも、誰も知っている人はいない。私を雇ってくれた大学の人すら知らなかったのですから。その後、私の母もアメリカに来ることになるのですが、ハンガリーでエンジニアだった夫は、まさにゼロからのスタート。清掃などの仕事から始めました」

◆「何もなければ失うものはない」


アメリカに到着した翌日から働き始めたカリコ氏。最初の1週間で逃げ出したいと思ったそうだ。


「(大学では)みんなドアの開閉は乱暴だし、大声でしゃべる。実験室はセゲドの研究室の方が、よっぽど設備が整っていた。ハンガリーの自宅には、洗濯機がありましたが、アメリカではコインランドリーに行くしかない。生活レベルは下がりましたね」


それでも熱心でひたむきな彼女は「ベンチのために」生きてきたという。ベンチとは、研究室の実験器具が並ぶ場所に置いてある椅子のこと。つまり、彼女の仕事場のことだ。


「研究室のベンチに腰掛けて、ああやって、こうやって、と試験管を振ったり、顕微鏡をのぞいたり、そんなことをしながら、ひとつひとつ実験を積み重ねていくだけでいいの。それが科学者というものだから、あとのことはどうでもいいわ」


「私のモットーは『何もなければ、失うものはない』ということ」(カリコ氏)


カリコ氏にとっての日常は、研究室で過ごす時間だ。


夫のベーラ・フランシアは、「君は仕事に行くんじゃない。楽しいことをしに行くんだよな」と日夜研究室に通い詰めるカリコ氏をそんな風にからかった。あるときは「君の労働時間を時給で換算したら、1時間1ドルだ。マクドナルドで働いた方がずっと時給が高いぞ」と笑いながら言ったりした。カリコ氏にとって、昔も今も、夫は一番の理解者であり、夫の全面的なバックアップがあったからこそ、今日のカリコ氏がある。


「わが家では、夫がもっとも多くの犠牲を払ったことは言うまでもありません。朝5時に研究室に出かけていく私や、学校に通う娘のために、車で送り迎えをしてくれましたし、子育てに支障が出ないようにと、自分は夜間の肉体労働などの仕事をしながら家族を支えてくれました。週末でさえも、私がラボから壊れた試験機器を持ち帰って修理するのを手伝ってくれましたし、食事の支度ができないときには、彼が料理をしてくれました。でも、夫は一度たりとも文句を言ったことはなかったのです」

◆信頼していた上司からの「嫉妬」


ポスドクとしてテンプル大学で働いていた1988年。カリコ氏の元にジョンズ・ホプキンス大学から仕事のオファーが舞い込んだ。


ジョンズ・ホプキンス大学といえば、世界屈指の医学部を有し、アメリカでも最難関の大学のひとつだと評判も高い。公衆衛生部門の研究でも有名で、今回の新型コロナウイルスのパンデミックに関する研究やデータ分析・発表なども行っている。


このオファーの話を知ったカリコ氏の上司が「ここ(テンプル大学)に残るか、それともハンガリーに帰るか」という二者択一の選択を彼女に迫った。明らかに同じ研究者としての嫉妬である。「何でそんなことを言われるのか。信頼していた上司だっただけに、とても落ち込んだ」とカリコ氏も言っているが、実際、彼女の元には国外退去の通知まで届いたという。しかも、その間、上司はジョンズ・ホプキンス大学に対して、カリコ氏への仕事のオファーを取り下げるよう手をまわしていたのだ。


「彼は教授で、私は何の地位もない人間でしたから、仕事もすべて失って、とても困難な状況に陥りました。でも、その上司にも敵(ライバル)がいることがわかったので、その人たちのところに駆け込んで、助けてもらったのです。人生は想定外なことばかりですよね」


やむなくテンプル大学を辞したカリコ氏を救ってくれたのは、日本の防衛医科大学校のような組織の病理学科だった。B型肝炎の治療に必要なインターフェロン・シグナルの研究をはじめ、ここで1年間、分子生物学の最新技術など多くのことを学んだ。


その後、1989年、ペンシルベニア大学の医学部に移籍し、心臓外科医エリオット・バーナサンのもとで働くことになった。この時の彼女のポジションは、研究助教で、非正規雇用の不安定な立場だった。そのうえ、もらえるはずだった助成金ももらえなかった。


「決して条件のいい移籍じゃなかったわ。翌1990年の私の年俸は4万ドル(当時のレートでは、日本円で約640万円)。20年経っても、6万ドル程度でした」


「だから、娘には、『あなたが進学するには、ペンシルベニア大学に行ってもらうしかない』と言ったのよ。なぜって、教員の子どもは学費が75%引きになるから」(カリコ氏)。研究が続けられれば、それでいい。カリコ氏の考え方は一貫している。


「自分のやっている研究は、とても重要なことなんだと信じていました。たとえどんなことがあっても『人の命がかかっている、とても大事なこと』と思っていたのです」

◆mRNAの研究で新しいタンパク質の生成に成功


そもそもカリコ氏がmRNAに興味をもったきっかけは、ハンガリー時代にさかのぼる。博士課程の担当教官から、RNAの存在と量などを明らかにするためのシーケンシング(遺伝子の正確な配列を調べること)を依頼するために、アメリカ・ニュージャージー州にある研究室に生体サンプルを送ってくれと頼まれたことだった。カリコ氏はこの種のRNAが薬として使用できるかもしれない、という可能性にひかれたのだ。


カリコ氏はペンシルベニア大学のバーナサン氏のチームで、mRNAを細胞に挿入して新しいタンパク質を生成させようとしていた。実験のひとつは、タンパク質分解酵素のウロキナーゼを作らせようとしたこと。もし、成功すれば、放射性物質である新しいタンパク質は受容体に引き寄せられる。放射性物質の有無を測定することで、特定のmRNAから狙ったタンパク質を作り、そのタンパク質が機能を有するか評価できるのだ。


「ほとんどの人はわれわれを馬鹿にした」(バーナサン氏)


ある日、長い廊下の端においてあるドットマトリックスのプリンターをふたりの科学者が食い入るように見つめていた。放射線が測定できるガンマカウンターの結果が、プリンターから吐き出される。


結果は……その細胞が作るはずのない、新しいタンパク質が作られていた。


つまり、mRNAを使えば、いかなるタンパク質をも作らせることができる、ということを意味していたのだ。


「神になった気分だった」カリコ氏はそのときのことを思い返す。


「mRNAを使って、心臓バイパス手術のために血管を強くすることができるかもしれない」「もしかしたら、人間の寿命を延ばすことだって可能になるかもしれない」


興奮したふたりは、そんなことを語り合った。


つまりこれが、ワクチン開発の肝となる、mRNAに特定のタンパク質を作る指令を出させる、という最初の発見だったのだ。


以下はリンクで





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なぜ東大や京大をハズしたのか…岸田政権の10兆円大学ファンドが東北大を選んだ残念すぎる理由

2023年09月25日 22時03分27秒 | 科学のはなし

なぜ東大や京大をハズしたのか…岸田政権の10兆円大学ファンドが東北大を選んだ残念すぎる理由(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース 

■政府に従う大学とすぐには従わない大学で明暗




なぜ東大や京大をハズしたのか…岸田政権の10兆円大学ファンドが東北大を選んだ残念すぎる理由
9/25(月) 11:17配信


プレジデントオンライン
防災功労者内閣総理大臣表彰式に出席する岸田文雄首相=2023年9月15日、首相官邸 - 写真=時事通信フォト


■年間予算500億円の東北大に100億円を配分


 大学の研究力を高めるために政府が創設した10兆円規模の大学ファンドの初の支援対象候補に東北大が選ばれた。昨年12月から公募を開始し、国立、私立の10大学が手を挙げた。最終候補に東大、京大、東北大の3校が残ったが、なぜ東大、京大が落選し、東北大が選ばれたのか。


【この記事の画像を見る】


 ここ20年にわたって日本の研究力は低下してきた。挽回の切り札として政府が打ち出したのが、この大学ファンドだ。


 政府の出資で10兆円規模のファンドを作り、その運用益を使って、文部科学省が「国際卓越研究大学」と認定した数校の大学を支援する。


 政府の計画では、約3~約4%の運用益を目指し、2024年度から年間3000億円を上限に国際卓越研究大学に配分する。配分期間は最長で25年間続く。


 今回選ばれた東北大は、その候補第1号というわけだ。


 東北大には、2024年度に100億円程度の資金が配分される見通しだ。この資金を研究や若手研究者育成に充てる。東北大の収入予算は1458億円(2021年度)。このうち国から東北大に配分されている予算(運営費交付金)は458億円で、これが100億円増えることを考えると、影響は非常に大きい。


■なぜ東大や京大は外されたのか


 政府は国際卓越研究大学の認定は、数校に限る方針だ。


 2000年代に入ってから政府は、経済活性化につながると思われる研究分野に手厚く予算を配分する「選択と集中」を続けてきた。国際卓越研究大学は、その大学版といえるだろう。


 ただ、実際にどれぐらいの規模の資金が国際卓越研究大学に配分されるかは、運用益次第だ。ファンドを運用するJST(科学技術振興機構=文部科学省が所管する国立研究開発法人)は2022年度の運用で604億円の赤字を出しており、苦しいスタートとなった。


 次回の公募について文科省は、「来年度中に開始したい」としつつも、「運用状況を勘案し、段階的に行う」と慎重な姿勢も見せる。


 世間の関心を集めたのは、なぜ東北大なのかということだ。


 最終候補の3校はトップクラスの大学であり、どこが選ばれてもおかしくないが、多くの人は、東大あるいは京大が選ばれると思っていたのではないか。


 英国企業「クアクアレリ・シモンズ」の最新版世界大学ランキングでも、東大28位、京大46位、東北大は113位と差が開いている。


 逆転現象が起きた理由のひとつは、文科省など政府の希望に沿った改革を目指しているかどうかだ。


 文科省は選定にあたって、経済界、学術界、外国人の大学関係者など10人の有識者からなる「アドバイザリーボード」を設け、審査をした。アドバイザリーボードの報告書を見ると、なぜ東大、京大が落選したか、理由が浮かび上がってくる。

■政府に従う大学とすぐには従わない大学で明暗


 報告書は東大に対してこう指摘する。


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〈既存組織の変革に向けたスケール感やスピード感については必ずしも十分ではなく、工程の具体化と学内調整の加速・具体化が求められる〉
〈「成長可能な経営メカニズム」の具体化に向けては、長期的・世界的規模のビジョンと戦略を構築する「法人総合戦略会議」の設置(などが求められる=筆者注)〉
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 京大には


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〈新たな体制の責任と権限の所在の明確化が必要〉
〈実社会の変化への対応の必要が感じられた〉
----------


 東大、京大は、経営改革や組織改革などのスピードの遅さや、全学としての取り組みが不足していることが問題視されている。


 一方、東北大については、


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〈改革の理念が組織に浸透している〉
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 と、評価した。


 文科省やアドバイザリーボードは、ガバナンス(組織統治)の強化、従来の慣習の廃止や見直しなど、徹底的な改革を大学に求めている。その大学像に向かって進む大学と、すぐには進めようとしない大学との差が今回の結果につながったと思われる。


 ただ、報告書は、東大や京大に対して、含みを持たせた。


 東大には


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〈今後、構想の具体的内容を学内の多くの構成員が共有し、全学として推進することが確認できれば、認定候補となりうる〉
----------


 京大についても


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〈構想の具体的内容を学内の多くの構成員が共有し、全学として推進することを期待したい〉
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 文科省など政府が望むように経営などのガバナンス強化をきちんと行えば認めるということだろう。


■「災害からの復興」というメッセージ


 東北大が選ばれたもうひとつの理由はストーリー性だ。最近、メディアなどで東北大がよく取り上げられるようになった。


 東日本大震災以後、政府は東北地方を科学技術や研究成果を生かすイノベーションの拠点にしようとしている。


 文科省は東北大の「東北メディカル・メガバンク機構」「災害科学国際研究所」や、東北大が中心になって進めている「ナノテラス(次世代放射光施設)」といった最先端研究施設新設を次々と支援している。


 東北大学が第1号になるというのは、そうした一連のイノベーション拠点政策の集大成であり、「災害からの復興」というメッセージ効果が大きい。こうした点も評価されたのではないか。


 大学ファンドに対しては、大学の研究者からかなり批判が集まっている。多くの大学や研究者が予算不足に悩んでいる。日本の研究力を高めたいのなら、数校に絞らずに幅広く支援すべきではないかというのだ。そうした意見が根強い背景には、開始前にどういう制度にするかを十分検討することや、議論が不足していることがある。


 政府が制度を作る際にお手本にしたのは、米国のハーバード大など、欧米のトップ大学だ。


 経営トップのガバナンスによる経営が行われ、大学独自の莫大なファンドの運用益を研究費などに使っている。政府はそこに着目し、日本の大学にもそうしたやり方を持ち込もうとしている。

■海外大学を真似ても成功するはずがない


 ただ大きな違いがある。欧米の大学の多額のファンドは、産学連携や寄付などによる大学自身のお金が原資になっている。一方、日本は巨額の税金が原資という政府丸抱えだ。


 どういう制度にするかを議論するために、政府は、まず内閣府に有識者会議を設けた。会議では、海外の大学学長経験者や関係者のヒアリングを行ったが、日本国内の大学については東大、京大、東北大、大阪大の学長経験者や、産学官からなる大学改革支援組織のヒアリングですませた。


 国際卓越大学の審査を行ったアドバイザリーボードのメンバー10人のうち半数は、この議論をした内閣府の有識者会議のメンバーだ。大学に大きな変革を求め、これからの日本の将来を決めるものだけに、審査する側の多様性や、大学の現場の声をもっと重視すべきではなかったか。


 ファンドを運営しているJST(科学技術振興機構)が初年度の運用で600億円を超える赤字を出したことも暗雲を投げかけている


 文科省は9月にJST法の施行令を改正した。これまでファンドの運用方法は株や債券だったが、新たに「金利先物」「上場投資信託オプション」「株価指数先物オプション」「金利先物オプション」など10項目を加えた。


 文科省はその理由として、「大学ファンドは元本の約9割が負債である長期借入金(財政融資資金)であり、さらに、毎年度の損益を確定させていかなければならないという性格がある」「よりきめ細かに損失のリスクを低減した資金運用を可能にするため」など、と説明する。


 だが、不確実で不安定さを伴う資金調達法であることに変わりはない。研究支援、若手育成にあまりふさわしいとは思えない。


■また同じ失敗を繰り返すのか


 これまでも、政府が税金を投じて、民間も走らせ、結果、頓挫してしまった例は多々ある。


 最近の例でいえば、三菱重工業を説き伏せて、国産初のジェット旅客機MSJ(旧名MRJ)を開発したが、開始15年後の今春に頓挫した。三菱重工は当初予定の1500億円を大幅に超える1兆円規模を投じたと見られている。


 民間にも資金を出資させて官民ファンドをたくさん作ったが、赤字を流し続けていたり、きちんと機能していなかったりするところも目立つ。
ビジネス感覚に乏しい官主導の問題点を露呈しているのではないか。


 大学ファンドについても、運用益を約3%~約4%と見積もったことに対して、経済関係者からは「甘すぎる」と批判が出ている。


 研究力の低下からの脱却は日本にとって喫緊の課題である。これまで通りの大学の在り方では、新しい時代にそぐわないこともある。ただ、甘い見通しと希望的観測が先行して大学を巻き込んでの失敗となると、日本の将来を潰しかねない。


 大学の組織改革や巨費のファンドだけで、研究力や大学の国際競争力向上につながるわけではない。研究に必要な予算をきちんと投じて成果を上げるためには、現場の意見をもっと聞きながら着実に進める必要があるだろう。


 税金を使う以上、国民への説明責任や透明性確保という問題があることも忘れてはならない。






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知野 恵子(ちの・けいこ)
ジャーナリスト

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自然科学分野の引用論文数 日本は過去最低の12位に後退>ノーベル賞も激減しますね!

2023年09月23日 13時03分49秒 | 科学のはなし
大学などで研究の担い手となる博士号取得者の数が、アメリカや中国、韓国でこの20年ほどで倍増した一方、日本では減少傾向が続いている



博士号をとっても、不安定なポスドク(博士研究員)職しかない状態ですから、優秀な人が研究者になんかならない道理です。将来の人材がなければ、日本の科学の未来も閉ざされますね。


【科学】自然科学分野の引用論文数 日本は過去最低の12位に後退

自然科学分野の引用論文数 日本は過去最低の12位に後退

2022/08/28(日) 20:53:27.



自然科学の分野で、おととしまでの3年間に発表され引用が多かった論文の数を各国で比較したところ、日本は過去最低の12位に後退し、初めてトップ10から陥落しました。

調査したのは文部科学省の科学技術・学術政策研究所で、おととしまでの3年間に世界で発表された生物学や物理学など自然科学の22分野の論文を国や地域ごとに分析しました。

論文の引用回数は「質」の高さの指標とされ、各研究分野で上位10%に入った論文の数は、おととしまでの3年間の平均で日本は3780本と前回からわずかに増えたものの、韓国などに抜かれ10位から12位に後退。

1981年にデータを取り始めて以降、初めてトップ10から陥落しました。

また、論文の総数でみると、同じく3年間の平均で6万7688本で、前回から1つ順位を落とし5位に後退しました。

文部科学省は、自然科学の分野で日本の存在感が低下しているとしたうえで、要因として、ここ20年で国内の大学の研究開発費が主要国に比べ伸びていないこと、研究時間の確保が難しいことを挙げています。

 加えて高い専門性を持ち、大学などで研究の担い手となる博士号取得者の数が、アメリカや中国、韓国でこの20年ほどで倍増した一方、日本では減少傾向が続いているとしています。 


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