シティライフさんが以前に、いすみ市 行元寺 市原淳田さんを取材された記事をご紹介します。
いすみ市 行元寺 市原淳田さん
昭和5年 夷隅町生まれ 千葉県立総南博物館学芸課長、県立安房博物館長など歴任。現在行元寺住職 著書に市原允として、『日本文化発信の地 みゆき野物語』『大多喜城物語』『夢を売った男』など
のどかな田園風景が続く夷隅町・荻原にある行元寺。
この寺は、「波の伊八」の欄間彫刻と童謡「母さんたずねて」のゆかりの里として知られている。ここに、ふるさと夷隅をこよなく愛し、人生をこの地方の歴史や文化の堀り起こしにかけた人がいる。住職の市原淳田さんだ。
市原さんは、住職のかたわら県内の博物館の館長などを歴任。ライフワークとして、ふるさと夷隅を見つめてきた。 そのきっかけは何だったのか、お聞きした。
「文化的、経済的にも夷隅地方は県下一どん底。取るに足らない、何もない地域と思われがち。ましてや、そんな所に偉人が出るはずはないと。ならば、自分でふるさと夷隅のことを一生かけても調べてみよう、そう考えたわけです。それは住んでいる者の使命としてやらなくてはいけないことなんです」ときっぱり。
それからあらゆる文献を調べ、足を運び、人に話を聞き、歴史と文化の掘り起こしに全力を注ぐ。
調べていくうちに、何もないと思われていたこの地域が、実は明治までの時期、農業、商業、政治においても、多くの偉人が生まれたことが、わかってきた。
「農業ひとつ取っても、明治期、人耕にかわって馬耕が初めて行われたのもこの地域。それによって耕地整理が進められ、画期的な収穫を得ることができた。日本一の水車を用い、低い所から高い所に水を揚げる揚水に成功したのも夷隅地方なのです」。
文化においても例外ではない。「夷隅地域は、文化はつる所という印象を持たれている。ところが、逆なんですね。たとえば、近代絵画を支配した世界に誇る「狩野派」が生まれたのは夷隅町。といえば、みなさんはそんなことはない、と言うんです。だけど調べてみると、まちがいなく夷隅町・大野からは狩野派の始祖・狩野正信が生まれているんです」と市原さん。
偉人はいなかったのではなく出さなかった、といっても過言ではない。調べれば調べるほど、この地方が格調高い地域であることを確信する。しかし、そんな文化はあるはずもない、と思われていた地域。その事実を世間が認めるには時間がかかる。そのことを発信し続けなければいけない。なにより、地元の人に伝えたい。いかにこの地が勢いのある地域であったか。そしてふるさとを誇りに思ってほしい。
そこで20年来かけて、県内の学校、公民館、資料館などに数多く出講して、ことあるごとに話してきた。そのひたむきさが通じたのか、最近では少しずつ認識されてきている。
足元をみても、お話しを伺った寺の客殿には、「波の伊八」と異名を取った、彫物大工による欄間彫刻「波に漂う宝珠」がある。その彫刻の波頭はまさに溢れんばかりで、いまにもしぶきが降りかかってきそうな迫力だ。市原さんは以前からこの伊八の波が、浮世絵師・葛飾北斎の代表作『富嶽36景・神奈川沖浪裏』とそっくりなのに注目していた。今まではあまり知られていなかったが、最近になって新聞、テレビなどで取り上げられ、世間で話題になった。
市原さんの所へは、興味深い話を聞きに多くの人が訪れ、取材に来る。その話からは豊富な知識と、なによりふるさとを思う真摯な人柄が伝わってくる。
「今確かにこの地域は過疎化に向かっている。しかしそこに住む人が諦めるか、自分たちで立ち上がって未来に向かって希望を持つかは、考え方しだい。人はハングリーな方が、負けてはいられない、と根性がつくんだよ。やる気があれば何でもできるんだ。自分たちの足元の過去を見直すことにより、新たなる希望と活力を見いだしてほしい」と市原さん。
「まだまだ調べることがいっぱいでやりきれないよ」と、体力の許すかぎり、歴史と文化の掘り起こしを続けるつもりだ。 (シティライフより)