昨日「松下幸之助一日一話」(PHP総合研究所)を買いました。本を開くとすぐにこう書いてあります。
いかに才能があっても、知識があっても、熱意の乏しい人は画ける餅に等しいのです。反対に、少々知識が乏しく、才能に乏しい点があっても、一生懸命というか、強い熱意があれば、そこから次々とものが生まれてきます。その人自身が生まなくても、その姿を見て思わぬ援助、目に見えない加勢というものが自然に生まれてきます。それが才能の乏しさを補い、知識の乏しさを補って、その人をして仕事を進行せしめる、全うさせる、ということになるのです。
あたかも磁石が周囲の鉄粉を引きつけるように、熱心さは周囲の人を引き付け、周囲も情勢も大きく動かしていくと思うのです。
私は吉田社長から「熱意」。 このことを学んでいます。吉田社長には、知識や才能はたくさんありますが。 マザーテレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく、無関心。」ともあります。 自分のことで申し訳ありませんが、今この時に、考える機会を与えられたことに感謝します。
私は10年ほど前から、1冊の本より書き写したメモを持ち歩いています。もうボロボロですけど。 そうなりたいと自分が欲する、願うもので、戒めでもあります。・・・・・これ以上ここに書くと長いので、コメントに入れますね。
『若し人、生きて百歳あらんも、諸仏の機を会いせずは、未だ生きて一日にして、能く之を決了せんには若かじ』
もし人が生きて百歳になろうとも、諸仏の真理に出会うことなければ、たとえ生きること一日でも真理を実行した者に及ばない。
『この生しりがたし。生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。ただ志気を専修にして、べん道工夫すべきなり・・』
自分が生きているこの生とは、そもそも何か、まことに知りがたい。生きているのか、生きていないのか。老いとは何か。老いたのか、老いていないのか。人の見方その見る立場ごとに違う(一水四見。水を天人は瓔珞と見、魚は宮殿と見、餓鬼は膿血と見、人は清涼の水と見る)だから、われわれはそんなことにかかわらず、ただ志をはげまして、学道の一事に専念すべきである。修行のなかにこそ生死の全部があると心得るがいい。生死の一部として修行があるのではない。・・生れてこのかたたとえどれだけの歳月が経っていようと、それはただ人として生きてきた上での数字にすぎぬ。どれほど修行したか、真の人間になったかどうかという事柄ではない。修行をこそ第一と志すがいい。脇尊者の肩をならべるほど修行するがいい。
なかなか出来ませんが(^_^;) いえ、出来そうにないのですが、すごいことだと思いました。ハイ
本当にそうだ・・・と思います。
イイ言葉で・・・沁みますね(>_<)
松下幸之助さんは、吉田平社長の尊敬する人物だったとどこかで見たような気がしました。間違っていましたらごめんなさい。でも、お誕生日は11月27日でご一緒ですね。
ということは、私達に何かメッセージが含まれているのではないかと、本を買ってしまいました。 どんな形であれ、未来はあるのです。自分が今しなければならないことをやることかなと思っています。
どんな形であれ、未来はある・・・。
そうですね。
なんか、いいですね。
「本」って。
なんか、いいですね。
「人間」って。