いすみ鉄道ファン

皆様方のご来訪をお待ちしています

梅屋庄吉と孫文  いすみ鉄道に乗って会いに行こうよ

2009年05月20日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

赤い風車さんの『夢幻泡影』より、森鴎外氏と林芙美子氏を紹介していただきましたので、いすみ市岬町JR三門駅繋がりで、もうひとつ。

皆様は『梅屋庄吉』さんをご存知ですか? 梅干屋さんではありません・・・(*o☆)\バキッ!

日本映画界の風雲児、日活創設者の一人・梅屋庄吉。彼は孫文を生涯を賭して支援しました。孫文亡き後、悪化する日中関係の歯車を押しとどめるさなか、千葉・三門の駅頭で倒れ人生に終止符を打ちました。孫文への支援活動(資金援助は現在の貨幣価値で約2兆円)はあまり知られていませんが、自らの遺志でそれに封印したからです。 

 

平成16年1月 『NHK その時歴史が動いた』でも紹介されました。(以下)

二十世紀初め、辛亥革命の指導者として清朝の皇帝支配を打ち破った革命家・孫文。「建国の父」と中国で評される孫文の活動、その舞台裏を支えた人々の中には日本人の存在があった。彼らは、アジア初の共和国樹立のため生涯を捧げた孫文を助け、共に戦い抜いた。度重なる挫折と裏切り、武装蜂起の失敗、終わりなき亡命生活…あらゆる困難を乗り越え、孫文は革命の理想にむかって走った。孫文から絶大な信頼を得ながらも、遺言により名を秘された日本人がいる。日本映画界の風雲児と呼ばれ、日本活動映画株式会社(日活)の創設者となった梅屋庄吉。梅屋は孫文に語っている。「君は兵を挙げよ、我は財をあげて支援す」。梅屋は、日清戦争末期の1985年、初めて孫文と出会い、孫文の思想に共鳴。梅屋は、広州での武装蜂起に失敗した孫文を日本に招き、映画産業で築いた富から10億円もの大金を孫文の革命工作に注いでいく。
現代中国成立の礎となった孫文による「辛亥革命」。近年整理が進む梅屋庄吉関連文書、孫文と宮崎滔天との間でなされた筆談録、日本政府がおこなった孫文監視記録などの豊富な史料をもとに、革命達成への裏側で繰り広げられた様々な工作と人間ドラマを描く。(以上 「NHKその時歴史が動いた」より)

 

梅屋庄吉氏は大正5年、三門海岸に15,000坪の土地を購入して別荘を建てました。三門の駅から歩いて15分程です。道路に面した小高い丘から太平洋の荒波が打ち寄せる白砂青松の海岸が広がる一帯で、温暖な気候と人情味のある町で、文豪・森鴎外や講談社を創業した野間青治の別荘があった。孫文をはじめ、犬養毅、頭山満、宮崎滔天らが別荘に滞在しました。他にも白蓮もかくまわれた時期がありました。 庄吉は別荘への訪問客にサインをしてもらう帳面を置いてあり、みなさんの知る名前がずらり並んでいます。

現在は別荘跡地に記念碑が建てられています。

梅屋庄吉氏は、日比谷松本楼の常務取締役・小坂文乃氏の曾祖父にあたります。

 

さあ、何が言いたいのかジャンヌ? いすみ鉄道じゃないじゃん? 

小湊鉄道~いすみ鉄道に乗って房総横断の旅に散策コースをひとつ加え、梅屋庄吉、森鴎外の在りし日を偲ぶのはいかがですか

 


森光子さんの『放浪記』2000回ということで、、、(いすみ市)

2009年05月19日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

房総を横断する魅力のひとつに、文学を追うこともアリですが(昨年5月31日いすみ鉄道ファン) 本当のいすみ市の魅力って何かを教えてくださるブログを紹介させていただきます。

 

いすみ鉄道ブロガー連合の 『夢幻抱影』さんから http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka  

「三門で下車する。
ホタホタ灯がつきそめて、駅の前は、桑畑、チラリホラリ、藁屋根が目につく、私はバスケットをさげたまゝ、ぼんやり駅に立ちつくしてしまった。」
           林芙美子
           放浪記

ちょうど今、森光子の放浪記が上演2000回を迎えたということで、話題になっています。

以前、木下順二の「夕鶴」が山本安英の主演で1000回を超える公演を行ったことがありました。夕鶴の公演は山本安英さんがお亡くなりになるまで続いたのです。

森光子さんの「放浪記」は、代役なしで、2000回。森光子さんは今年89歳。こちらもほんとうに凄い記録ですね。


その放浪記の中の一節に、岬のうちから一番近い駅、三門駅が出てきます。

ここでは、主人公は日在の海のほうへと歩き出すのですけど、、、
私はこの駅か、その手前の長者町駅で降りてそれとは反対の山側のほうへ歩くことになる。
駅の周りの住宅地を抜けると後は、何もない田んぼの中を半時間ほど歩く。

人の作ったものを文化と呼び、進歩と呼ぶのであれば、ここはあまりにも自然の中。
もちろん田んぼは人の手になるものだけど、、
「岬な日々」の中の花や鳥などのほとんどがその道路沿いで撮られたもの。
文化、進歩だけが人間の楽しみではないのだなって、、、
文化(芸術)に絡んで仕事をしてきた人間としては、自分が触れてきた安っぽいエセ芸術作品よりも、小さな自然の営みに改めて感銘を受けてしまう自分の存在がちょっと哀しい。

  

 鴎荘 いすみ市岬町日在  森鴎外

三門の駅はいすみ市岬町日在というところにありますが、放浪記の主人公(林芙美子)がこの駅から海岸の方に歩いていったとすれば、途中で森鴎外の別荘の前を通ったかもしれません。

鴎外の別荘は夷隅川を隔てて砂浜があり、その先は岬の海が広がっていたところにありました。別荘は建て替えられていますけど、まだあります。夷隅川はその当時よりも北側に流れを変えていて、当時の夷隅川は今はラグーンとなっています。
周りの家が建て込んできたかもしれませんし、道路も国道を横切るところなどの一部は変わったかもしれませんけど、鴎外が田舎の生活を楽しみ、林芙美子がとぼとぼと歩いていった道は当時とそれほど変わっていないかもしれません。

海から3キロほど離れた私の家でも風が強いときにはかなり強い波の音がします。
鴎外の別荘は、ほとんど海傍といってもいいところ、凪いでいるときでも潮騒の音に囲まれていたのでしょうね。
鴎外は文学者、文筆家として名を残していますけど、軍医のトップとして、医学者として大きな活躍をし、国立博物館の館長なども歴任した、ほんとうに多忙な人だったのですね。
いすみの海がそのエネルギーの補充になったのかと思うと、その力に呼び寄せられていすみに終の棲家を決めた私としては不思議な縁を感じてしまいます。


鴎外の息子さん(類さん)が晩年をこの別荘で過ごされています。

なんかの企画で鴎外の娘さんがお話くださったけど、、、、
かなりお年を召していらっしゃったけど、もし森茉莉さんだったのなら当然ですよね。
茉莉さんが亡くなられたのは1987年。85歳でした。亡くなられた年にお話をうかがったとしても、ちょうど20年前。あるいはそれ以前のことになりますから。お話はもううつろになりましたけど、鴎外やその子供たちの話だったと記憶しています。


ところで、森茉莉さんもそうですけど、鴎外の子供とその孫達は全員ヨーロッパ風の名前を持っていらっしゃることはよく知られていますよね。
於菟(オット;オットー) 不律(フリツ;フリッツ) 類(ルイ)
茉莉(マリ) 杏奴(アンヌ)

孫達もまた
真章(マクス;マックス) 富(トム) 
礼於(レオ) 樊須(ハンス) 常治(ジョージ)

などなど、、、

( by 夢幻抱影 )


戦国ブーム! いすみ・大多喜の城 (前編)

2009年05月12日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

 “大多喜城盛り上げ計画”に賛同してくださった鍋之助さんも出現しましたから、鬼に金棒!! そこで、第一弾は久我原さんです

お城ブームということで黙っていられなくなり、ついつい書き込みしてしまいました。人の迷惑顧みず、久々に独り言です

僕が、大多喜といすみ鉄道に興味を持ったきっかけは何と言っても、国道からちらりと見えた大多喜城ですから。

大多喜城と言えば、本多忠勝が築いた城ですが、実際に忠勝が大滝を支配していたのはわずか10年間。関ヶ原の後は桑名城に移り、ドンロドリゴが御宿に漂着した時の城主は息子の忠朝でした。その後、阿部氏、青山氏、松平氏と城主は変わりましたが、やはり大多喜と言えば忠勝です。

大多喜駅では本多忠勝の顔はめと発砲スチロールで作った像が出迎えてくれます。フィッシングパークの近くの橋にも忠勝像があります。
まあ、大多喜城は大多喜のシンボルで皆さんよくご存知なので、他の城めぐりをしたいと思います。

国吉駅最寄、、と言っても相当歩きますが、万木城というお城がありました。ここには今、天守閣もどきの展望台がありますが、ちょっとむむ~という感じです。

この城の城主土岐為頼は小田原の北条氏に加担したため、本多忠勝に攻められて落城しました。この土岐為頼は有名な武将ではありませんが、名将だったらしく、忠勝も称賛し、土岐氏の旧臣から為頼の話を聞きたがったそうです。

大多喜にはその他にも朝方城、大多喜城、大多喜根古屋城、大戸城、御林番所、寒山城、栗山城、小田代城、城の腰城、永島屋敷、堀ノ内館、横山館といった城や館があったようですが、大多喜城ほど遺構をとどめていないようです。今度、大多喜を訪れた時はこちらのお城めぐりをしてみたいと思います。

お城と言えば、立派な天守閣を想像しますが、こんな忘れ去られてしまったお城を探して歩くのも楽しいかも、、、って僕だけ?        つづく (by 久我原)


いすみ市大原公園の平和の鐘が米で絵本に

2009年04月27日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

いすみ市大原の大原公園内にある市指定文化財「平和の鐘」。

終戦時、戦利品として米国に持ち去られ、数年後再び日本に戻ってきたこの鐘を題材に、昨年、アメリカ・ミネソタ州在住の児童文学者マギ・プリウスさんが英文の絵本を出版し、さらにその翻訳が進められている。

関係者は「日米交流の懸け橋になれば」と期待している。

物語は、ダルースの少女ケティが大原の少女ユウコと一緒に、ユウコの祖母から鐘が太平洋を往復した経緯を聞くという内容

絵本についてのお問い合わせは 荘司さん 0470-62-0545

 

大原公園については

http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/chiba/ohara/01.html 

公園入口の大聖寺にある国の重要文化財・浪切不動堂の本尊、不動明王は鎌倉時代、漁師の妻が近くの丹が浦の海中から拾い上げてここに安置したと伝えられ、大漁祈願や海難除けなど、広く漁民に信仰を集めています。お堂は室町時代の作と推定。 大原公園は、丘にのぼれば太平洋が一望に見渡せる、自然とゆとりと歴史の公園です。

         

 大聖寺の含まれる大原のCM  http://cmizer.com/movie/35503


久我原さ~ん☆ こんなの見つけました♪

2008年12月15日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

ようこそ YouTube 「本多忠勝」へ!

http://www.youtube.com/v/uW2TT9upG_I&hl=ja&fs=1"></param><param

http://www.youtube.com/v/n7bPPzJRLDc&hl=ja&fs=1"></param><param

 

1.http://jp.youtube.com/watch?v=sjOiI-YaqIs

2.http://jp.youtube.com/watch?v=WRfLQLWAQ3k&feature=related

3.http://jp.youtube.com/watch?v=azCfEr1wm60&feature=related

4.http://jp.youtube.com/watch?v=yQwX2reRzP4&feature=related


つげ義春と大多喜(いすみ鉄道沿線)

2008年11月12日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

 山岡みずはさんです

大多喜町は、後の作家に多大な影響を残し、現在でも様々なパロディ漫画を見ることが出来る つげ義春 の多くの作品を産むきっかけとなった町だそうです。

今でも西部田村事件の舞台や、つげがよく宿泊した寿恵比楼、大屋旅館など訪れるファンがいて一種の聖地になってるみたいで、私も昔読んだ作品を思い出し、巡ったことがあります。

最近はアニメ・マンガの舞台となっただけで、全国から多くのファンが訪れることがあり、またそれに併せて地元で町おこしイベントが開催されていると聞きます。

つげの作品はあまり多くの人には支持されていませんが、熱狂的なファンがいることは確かであり、それを使って、いすみ鉄道の活性化などできないでしょうか?
(ちなみに前述した町おこしの結果、某町では4170万円の経済効果があったそうです)

 

*つげ義春フィールドワーク~西部田村を歩く~(けんさんの温泉漫遊記)http://blogs.dion.ne.jp/onsenmanyuu/archives/5707256.html 

*画像はhttp://www.chikumashobo.co.jp/special/tsugeyoshiharu/からお借りしました。


いすみ鉄道文学・『シャオリーの夏休み』

2008年10月01日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

久我原さんが小説を書いちゃった! 

その才能から予感はしてましたが、とうとう!!

久我原駅でジャンヌは、素晴らしい人と出会ったことに、今更ながら感激しています

作品『シャオリーの夏休み』は『大人のコラム』へ投稿・採用された作品です。  http://www.otona-column.com/www/index.php?module=User&action=MyNovel&id=820

写真&絵画&音楽&小説が揃いましたね  

*この記事は9/17にUPしましたが、まだまだ続きますので上げさせていただきました!


いすみ鉄道民話の旅

2008年07月29日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

『いすみ鉄道 民話の旅

 お元気ですか?

 こちらは「すこぶる元気です」と言いたいのですが、ちょっぴり落ち込んでいます。理由はこれと言ってないんですが、何だか疲れています。

 都会の生活に疲れたのか・・・心が萎えているのかもしれません。こんな気分を癒すために、今、房総を旅しています。

 今日、ローカル線に乗りました。「いすみ鉄道」という小さな小さな列車です。みかし読んだ童話の中に「マッチ箱の列車」という話がありましたが、マッチ箱という表現がピッタリする列車です。

 海辺の町を出発し、房総半島の山の町に向かいます。

 ガタン ゴトン ガタン ゴトン

 ガタン ゴトン ガタン ゴトン

 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ・・・・・・

 心地よい揺れが全身に伝わります。

 窓には田園風景が広がります。「日本には自然が少ない」なんて嘘です。ここは自然がいっぱいです。思わず窓を開けました。草の香りというか土の香りというか、久しぶりに嗅いだにおいです。とにかく、都会では嗅ぐことのできない爽やかな空気です。

 「蛇行する川」、むかし小学校の授業で勉強したことおぼえていますか・・・。

その川の蛇行を目の当たりにしました。ほんとうに大蛇が体をくねらして進む姿そのものです。大蛇のような川に時々、橋が架かり、マッチ箱の列車が横切ります。そのたびに川面がキラキラ輝きます。

 混雑と騒音、みな黙々と足早に駆け抜けるのが駅のイメージでした。驚かないでください。十三の駅のうち駅員のいる駅は二つだけです。ほかは無人駅です。切符売り場も改札口もありません。・・・じゃあ、どこで切符を買うのかって?それは、帰ってから話します。お楽しみに。

 ああ、それからお城もあるんです。徳川四天王の一人、本多忠勝の築いた白壁の天守閣が山の頂にそびえているんです。今も天守閣からは城下が見下ろせます。城下に下りると瓦屋根と格子戸の家並み、古い商家や宿屋、造り酒屋、寺が並ぶ町・・・この町の景色は江戸時代のようです。秋にはお城祭りが行われるようです。この街並みを鎧兜を見につけた武者の行列が練り歩くそうです。秋にもう一度訪れようと思っています。

 薄い小さな本を買いました。幼い日もどって久々に民話を読みました。民話って子供だましかと思っていたら、認識違いでした。何気なく使っている地名にも、樹木や池にも祖先の願いや思いがこもっているんですね。柄にもなく「人間が生きる」とは、「より人間らしく暮らすには」なんて人生について、ほんの少し考えてみました。萎えた心が少し元気になりました。

 今夜は養老渓谷の温泉宿に泊まっています。露天風呂もあります。静かな静かな月の夜です、来週、帰ります。今度は君と一緒にこのいすみ鉄道の旅をしたいです。案内します。

  『いすみ鉄道 民話の旅』 エピローグ でした。

発行:大多喜町

協力:いすみ鉄道 大多喜町商工観光課 大多喜町商工会

『いすみ地方の民話』 斉藤弥四郎  

絵: 最首静子 清水三枝  

先日、友人から借りた『いすみ鉄道 民話の旅』を鞄に入れて、房総横断切符で小湊鉄道~いすみ鉄道~JRで旅をしました。

いすみ鉄道沿線の民話がたくさん書かれていて、エピローグと全く同じ気持ちになりました。

昔聞いた話、初めて知るお話、かわいいイラスト、心が癒されました。癒されるだけじゃなく知恵に感心したり、親孝行話に感動したり、いすみ鉄道沿線の風景までがタイムスリップしているかのようでした。 

中に書いてある肝心のお話が聞きたい? 

じゃあ、夜が長くなった頃にお話します。 お楽しみに。 

大多喜駅に左の本が一冊置いてありましたよ 

この本を貸してくださったYさん、ありがとうございました 

 返したくないけど・・・・・・(*o☆)\バキッ!


昭和35年当時の木原線(いすみ鉄道)

2008年07月22日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

『40年前の鉄道風景』というサイトを鴨太郎さんが発見してくださいました。

http://6.fan-site.net/~haasan55/index.htm

その中に『国鉄木原線と小湊鉄道 1960年(昭和35年)』というコーナーがあります。

http://6.fan-site.net/~haasan55/kiharakominato.htm

時代と共に貴重になる資料としてご紹介させていただきます。


天賞文庫(大多喜町立図書館)と江澤金五郎 ・いすみ鉄道

2008年07月20日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

天賞文庫(大多喜町立図書館)を知っていますか?

 天賞文庫        図書館内

いすみ鉄道・大多喜駅から大多喜城方向に歩いて15分ほどのところにあります。

図書館はたくさんありますが、天賞文庫は、県内最初の公立図書館です。

 

この大多喜町立大多喜図書館天賞文庫は、明治30年(1897年)10月、東京銀座天賞堂店主、初代江澤金五郎の遺志「我若し幸に成功せば郷里は勿論国家教育上に対し公益事業を起こさん」に基づき、弟江澤富吉及び二代目江澤金五郎が、郷里大多喜町に図書館を寄贈、天賞文庫と命名された。

千葉県最初の公立図書館であり、当初は二階建てのレンガ造りのモダンな建物であったが、関東大震災で崩壊寸前となり、使用不能となった。
その後幾多の変遷を経て、平成元年(1989年)8月、大多喜町により、鉄筋コンクリート造りで新築オープンし、文化の殿堂として現在に至る。

 記念碑    江澤金五郎氏

江澤金五郎氏は『近代商業のパイオニア』と称され、功績については市原充氏(北斎の源流・波の伊八で知られる行元寺住職 市原淳田氏)が、『夢を売った男』(崙書房)の中で、紹介しています。

江澤金五郎氏の功績は、企業の社会貢献の先駆けとなりました。
 

かの文豪・夏目漱石は天賞堂(東京・銀座)のイルミネーションにひかれ、ダイヤモンドの広告に魅せられ、著書『虞美人草』のなかで、しきりと天賞堂を登場させ、「ダイヤは人の心を奪い・・・・・」「イルミネーションをみて、あっと驚かざるべからず」と表現しています。

 
*資料は『あそうあきこさん』からお借りしました。