答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

可憐 ~ モネの庭から(その194)

2014年03月21日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

小さな花が咲くその高さまで目線を下げてみると、

これまでとは違った景色が見えてきた。

なんにつけても、目線を変えてみるということは大切なこと。

いつも同じ目線で見ていると、同じようなものの見方しかできない。

ややもすれば、そのことを忘れ、慣れ親しんだ自分の目線にとらわれがち。

「反省、反省」と、ボウズ頭をボリボリ掻く。

と、その横、池の汀に突き出た可憐な花。

名前はわからない。

 

 

「よっしゃ今シーズンの撮影テーマは”可憐”でいってみようか」

ふと思ったが、すぐさま別の私が否定。

「そら似あわんでアンタ」

うんそりゃそうだ。人には向き不向きっていうやつがある。

と、これまたすぐさま断念。

 

それはそうと、先日フェイスブック友だちの女性に、

「モネの庭の写真、素敵ですよね。いつも楽しみにしています」

なんて言われ、まんざらでもない私。

とっさに返す言葉がなく、どんな顔をしていいかわからずモジモジしている私を、

かたわらの妻が、「あら、褒められた。よかったねえ~」と茶化す。

こう見えて、生身の人に面と向かって褒められるのには、からきし弱い。

「可憐」なオヤジなのである ^^;

 

 

 

 

 

 

 

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夕日に向かって打て

2014年03月20日 | 北川村

 

3月21日、中芸観光びらき「本気でほげな祭」が奈半利港周辺で開かれる。

 

「ほげる」とは・・・

「ふざける」「冗談を言う」など陽気な気分で楽しんでいる様子のことを言います。

(リーフレットより)

 

ワタシ的には、「ふざける」は少し違うんでないかい?という思いがないではないが、

「陽気な気分で楽しんでいる様子」とそのあとにつづいているので、「ま、ええか」なのである。

高知県外の人にもうひとつ説明しておくと、

「ほげなさい」というのは「ぱーっとはしゃぎなさい」という感じで使う言葉。

というか「ほげな(=ほげるな)」と言われることはあまたあるが、「ほげなさい」などという用例は実際にはほぼ、ない。

その、「ほげる」と「祭り」とをドッキングさせて「ほげな祭」である。


さてその「本気でほげな祭」。

我が北川村やまなみ太鼓も当然のこととて出演させていただくのだが、

なんと今回は、あの中芸が誇るスーパースター、豆電球さんの前。

つまりセミファイナルへの出演である。

題して「夕日に向かってほげる太鼓」。

昨年1月の「朝一番目覚めの北川村やまなみ太鼓」という、愛があふれるキャッチフレーズにはやや劣るが、

これにはこれで、またまた事務局の愛情を感じてしまう私。

3月21日17時、夕日に向かって打て。

乞うご期待なのである。

 

 

 

 

 

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上司も育てるCCPM

2014年03月19日 | オヤジのCCPM修業

「先ほどの災害復旧の事例では、若い人がそれぞれの現場にいて宮内さんが統括でとおっしゃいましたが、どうも重要な局面では宮内さんが決めているように見受けられます。当然、宮内さんが全部やればそれは上手くやっていけるのでしょうけど、人材育成という観点から見ればそれではいけないのも事実だと思います。そこのところの兼ね合いをどういうふうに行っているか、具体的にお教え願いませんか?」

 

上越遠征の2日目。

「何か質問は?」という主催者さんの問いを受けた、ある土木技術者さんから質問である。

 

「鋭い質問ですね」

とかなんとか言って時間稼ぎをしつつ、おのれの頭のなかを整理しようと試みてはみたものの、

「具体的に」と指定されたにもかかわらず、具体的な例を指し示すことはできず、

「その場に応じて」だとか「その人に応じて」だとか、挙句の果てには「上司って我慢なんですよね」などという、

わかったようなわからないような、もやもやっとした回答しかできなかった私。

さぞかし質問の主さんは、がっかりされたことだろう。

毎度毎度のことなれど、ぶっつけ本番の質疑応答には、からきし弱いオジさんなのである。


あれから数日が経ち、今朝、西谷川畔を犬とともに歩きながらパッとひらめく。


「ああ、こうやって言えばよかったんだわ。。。」

 

そのときの脳内にあるのは今週の現場の流れ。

こんなふうである。

今週稼働するのは5つほどの現場、仮にA、B-1、B-2、C-1、C-2、Dとしておく。

枝番がついているのは工事は違うが隣接している現場と、工事は同じだが工区が分かれている現場、と理解してほしい。

Aは、3月いっぱいで完了させなければいけない部分があるが、全体は繰越し(つまり4月以降も工事ができる)。とりあえず今週についてはメンバーの変動はなし。

B-1は今日明日で作業完了、完成検査は来週。

B-2は、C-2を応援していたメンバーが今日から戻り、最後の作業。これも完成検査は来週。

B-1の次はCを優先、Cでは1より2のほうが優先。

それから・・・・・。

D君にアレを確かめて、C君にはあのことを念押しして、A君には・・・・・

いやいや待てよ、Aにはまだ言うべきじゃないな、混乱させるだけや・・・

あ、そうそう4月以降のあの件とあの件、そろそろ段取りしとかんと。Eさんに話しをしておこうか・・・・・

いやいやまだガマンガマン。優先順位が違う。今週は今ある現場が最優先。

 

とそこで気がついたのである。

答えはCCPMにあった。

優先順位と「つながり」である。

(ちなみにCCPM論的には、「つながり」は因果関係と説明されることが多いのだが、「因果」という言葉が嫌いな私は「つながり」。平仮名で「つながり」である)

優先順位を判断せずに(できずに)無闇やたらとでき得る作業に手をつけて現場を混乱させる。

あるいは作業(もしくは人)の「つながり」を考えずに(無視して)、たとえば出来高(お金)の進捗率で判断して作業を現場にリリースする。

現場にとってこれがもっともいけないことである。

一見すると ア → イ → ウ という流れが、それぞれの「つながり」をよく見直すと イ → ア → ウ であったり、

ところがそれはそれとして、そのときの優先順位をマルチプロジェクトのトータルで判断すると、別の考えかたもOKだったり。

常に「つながり」のなかで考え、「つながり」で判断し、優先順位で行動する。

単なる工程管理ツールのように思われがちなCCPMだが(建設業では特にそう思われていると思う)、そういう基本的なものの考え方こそが大切なのだと私は思う。

それまで経験的感覚的に行ってきたその行為に、ロジカルシンキングという実をふりかけてやることで、自分自身の暗黙知が身体のなかで形式知に変化する。

そう考えると、CCPMを使って人材育成をするということは、ベテラン技術者の頭のなかを「見える化」し、「見える化」したその段取り(工程)を共有していく繰り返しから、技術を伝承していく

というのとは別に、CCPMを運用することで培った思考方法や手法を、上司が部下に相対して使っていくという、

いわば「上司育成ツール」としての側面もあるのではないか。

少なくとも私は、意図していたかどうかは別にして、そうやって育てられてきたのではないか。

と、そう気づいたのである。

 

上司育成ツールとしてのCCPM。

新説やら珍説やら定かではないが、おかげさまで、おのれのやってきたことを違う目線で見ることができたような気がする。

人材育成とは、何も若手のみを育てることにあらず、伸びしろさえあれば、いささかトウがたった私のようなオジさんでもOK。

齢(よわい)五十を目前にした年にCCPMと出会って以降、CCPMに育てられた「上司」たる私が言うのだから(たぶん)間違いない。

と、それを気づかせてくれた雪国のあの技術屋さんの真摯な質問に感謝しつつ、こう心に誓う朝。

 

「よし、次はちゃんと答えるぞ~ (^^)v」


 (次はないかもしれないが。。。。ネ ^^;)

 

 

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手が合う

2014年03月18日 | 読む・聴く・観る

 

日本人の心のかたち (角川SSC新書)
玄侑宗久著
KADOKAWA / 角川マガジンズ

 

先週末の遠征は、旅客機プラス新幹線プラス列車。

ということで、お供は多いほうがよかろうと、私が指名したのは、

『日本人の心のかたち』(玄侑宗久、角川マガジンズ)と『脳内現象』(茂木健一郎、NHKブックス)。

題名に平仮名が多くやさしげな感じを受けるほうから読んでみた。

 

 この国の制度は、すでに性悪説の国の後追いに終始しているのではないか。そうとしか思えないことが、とても悲しいのである。

 しかしどんな政治や制度が行われていようと、そう簡単に変わらないのがこの国の人々の「心のかたち」だろうと思う。私はこの本で、古来の日本人の心の基本ソフトのようなものを抽出してみたい。制度が変わり、政治が不安定でも、そればかりはそう簡単には変わらないと思えるからである。(P.29)

 

という趣旨のこの書を読みながらも、

冒頭近くにあるこんな文章に引っかかり、

 

 思えばこの国の自然は、放っておいても「ひとりで」に生えてくる草木に満ちている。そしてその「ひとりで」に生えてくるものが古代には「ケ」という同じ音で呼ばれていた。主に「木」「毛」「気」の三つがそれである。

 しかもこの「ケ」が枯れることを「ケガレ」と呼んで忌み嫌った。生産性の枯渇こそ最も忌み嫌うべきこと。しかしそれでも、春になればまた生えてくる草のように、この国の自然は際限なく「ひとりで」にまた蘇ると信じられたのである。(P.44)

 

本文の内容とは関係なしに、「ケ」「ケが枯れる」「生えてくる」という言葉が気になって気になってしようがない私。

事程左様に、「読む」にしても「聴く」にしても、受信者というやつは、いつもいつでも発信者の思いどおりに受け取るものではなく、その場そのときの自分勝手な思い込みとリンクさせつつ理解しようとするものではある。

などとこれまた勝手な理屈をつけて読み進める。

 

 一つ二つと礼法を習い、新たなことを学ぶのはいいが、稽古を重ねることの意味はただ一つ、最終的には「身につける」ことである。

 繰り返しによって習熟し、無意識にも動作ができるようになることで、我々は自らの自然を拡張できる。(P.149)


素人とはいえ太鼓打ちの端くれである私にとって、このセンテンスの、なんと響きのよいことか。


 この場合もまずは「私」の勝手な思い込みをはずし、心を初期化してみることだ。初期化とは、物理的にはいわば対象と距離をとり、俯瞰的な視点を獲得すること。心のほうは、とにかく二次元的な判断は「私」の勝手な分別と心得て、未練なくそれを脱ぎ捨てることだ。(P.149)

 

「おお、メタ認知」

 

環境と自己が別にあるのではなく、それは常に一体なのだから、自分のほうから変わり、やがて環境も変えていくしかないのだ。(P.157)

 

「オルテガやんか!」


とかなんとか色々さまざま勝手な感想を抱きつつ、一気に読了。

初めての玄侑宗久さん、どうやらこの人、手が合いそう。

「手が合う」

おそらくこんなシチュエーションで使う言葉ではないのだろうが、「手が合う書き手」という自らの思いつきが気に入った私は、すぐさま同じ著者の『しあわせる力~禅的幸福論~』(角川SSC新書)をAmazonに注文。今度はKindle版である。

こっちはまた(ワタクシ的にみると)胡散臭げな題名で、普段の私なら手もつけないような本ではあるが、

なんだか乞うご期待な気分でさっそく「はじめに」を読む。


 和語としての「しあわせ」は室町時代には「仕合わせ」と書いた。「さいわい」は「咲き(にぎ

わい」のことで、勝手に「幸」という文字の訓読みにしたのである。

 二つの和語に共通しているのは、相手がいて、その人間関係力によってしか実現しないのが日本人の「しあわせ」や「さいわい」だということだろう。西欧的な「幸福」はむしろ「幸(さち)」という物質的豊かさのことだ。(位置No.26)


やはり「手が合う」、かな?

 


しあわせる力~禅的幸福論~ (角川SSC新書)

玄侑宗久著

KADOKAWA / 角川マガジンズ



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(現場人的)情報発信のすすめ

2014年03月17日 | 三方良しの公共事業


情報を発信せよ。

今回の遠征もまたいつものように、それが私の大きなテーマだったのである。

何ゆえそれが必要なのか、ということについては、

きのう「ゆうこさんを探せ」で書いたとおりだし、

折にふれて繰り返し、口に出しかつ書いてきた(はずだ)。

だが、たとえば「沈黙の螺旋を逆に回す」などと大上段に構えてしまえば、「そりゃあたしかにそうかもしれませんがね」と、私が勝手に同じ地平に立っていると思い込んでいる人たちからスカンを食いそうな気がしないでもない。

じつは、それほど大それてはない別の理由が(私には)あった。

もやもやとして言語化できず(ちゃんと向きあおうとしていなかっただけ、かもしれない)、たぶん誰にも言ってなかったそのことが、今回の雪国行でやっと形をなしてきたので、そろそろ陽の目を見せてみようかなと思う。

 

現場の人間が現場のことを現場から発信する。

 

それこそが、すなわち情報発信なのである。

うん、ここまでは繰り返し書いてきたことだな。

では、「ゆうこさんを探す」こと以外に、何ゆえそれが必要なのか。

誰であれ彼であれ現場にリスペクトを持たない人間が、君やアナタや私の現場のことを、

ああでもないこうでもないと論評するのを看過する日々に、

そろそろクサビを打ち込みましょうや、と私は言いたいのである。


現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する

 

「工事だより」にしても「現場情報ブログ」にしても「完成検査プレゼンテーション」にしても、

結局は、やってきたことやろうとしたことを伝える場所であり、その想いを発露する場所であり、その反復訓練の場所なのである。

自ら物語を紡ぐ。

と言えばエエカッコしいが過ぎるのかもしれないし、「物語を紡ぐ」が「虚構をつくる」につながるのだとしたら、それは私の本意ではない。

だが私はそれでもあえて、「自らの物語」を紡いでみましょうやと言いたいのである。

現場の人間(たる自分)にも、

(生身の自分が存在する)現場にも、

そこに関わった人間の数だけの物語がある。

たしかに、「物語を紡ぐ」ことなど誰でも彼でもが出来得ることではない。

「あなたのような発信できる人がオレたちの想いを伝えてくださいよ」

と何年か前に私に訴えた北の国のベテラン技術者の気持ちは、痛いほどわかる。

だが、自ら語らないものは好き勝手に解釈されてもしかたがない、のが今という時代の基本であることを忘れてはならない。

 

「おぼんのような世界」は自ら情報を発信(物語=プレゼンテーション)できないことで、好き勝手に解釈されている。つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。(『桃知利男の浅草的ブログ』より)

http://www.momoti.com/blog2/2008/06/post_251.php

 
 
という桃知さんの言葉を、繰り返し引用してきた私はこれを、桃知さんの教えどおり(面向かってご教示いただいたことは一度もないが ^_^;)公共建設工事という業界の構成員に対して使ってきた。

そしてそれは、これからもたぶん使っていくのだろうと思うのだが、

これからは対象をもっと限定し、

 

つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。

 

という、この受け売りのメッセージを発していきたいと思うのである。

つまりそれを、

 

現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信しない限り、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。

 

という言い換えで、対象を現場に生きるアナタや君や彼や彼女に限定することで、「(現場人的)情報発信のすすめ」という私からのメッセージとしたいのである。

もしアナタが「そんな余計なものを」と思い拒絶してしまうのだとしたら、アナタや君や彼や彼女の「現場」が浮かばれないと私は思うし、

何より、現場を語れない(あるいは現場を語る言葉を持たない)そのことが、

現場に対するリスペクトを持たずして公共建設業の周辺で利益を上げようとする人たちのなすがままになっているかもしれない現実の、ひとつの要因だとしたら、


現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する

 

それを行わずに他責の念をのみ抱くことが、良かろうはずはないのである。




 

公共建設工事の情報発信については、何より経営者が、そして建設業協会が、もっとも真剣かつ戦略的に考えなければならないことだと常々私は思っているし、切にそれを願っている。

だが、だからといって、一人ひとりの現場の人がそれをやらない理由にはならないし、経営者や建設業協会が動かないからという事実は、現場人が情報発信をしないことの免罪符とはなり得ない。

拠って立つ現場があるくせに語る現場がない、または、現場に拠って立つ自分がいるくせして現場を語れない、そういう現場人の不幸にそろそろ気づいてほしいのである。

だから、皆んなが何気なしにいつも通る道や渡る橋は、オレやあたしがこうしてああしてつくったのだと、そう発信してほしい。

たとえ発信したとして、受信者側の思い込みで如何ようにも解釈され得ることには違いない。

だが、指を加えて沈黙する前に、焼酎をあおってくだを巻くまえに、

せめて、自らが拠って立つところの現場を「好き勝手に解釈され」ないためのアクションは起こすべきである。

そうでなければ、アナタや君や彼や彼女の、何より私の「現場」に申し訳ないではないか。

と私は思うのである。


(いろいろ難しいことがあるのは承知のうえ、ですけどネ ^_-)


 

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ゆうこさんを探せ

2014年03月16日 | 三方良しの公共事業

 

今回の新潟遠征。

私に与えられた時間は、14・15日の両日とも各90分。

毎度のことではあるがスライドを少しくマイナーチェンジしてみた。

その目玉は、

ゆうこさんを探せ。

そこから、「沈黙の螺旋」を逆に回そうではないか、というストーリーである。

 

感謝(ゆうこ)ー2011.10.19

 北川村道路工事、本当にありがとうございました。

 仕事とはいえ、過酷な作業、残酷な雨・・・ほんとに大変だったと思います。

 (中略)

 北川村のじいじとばあば達は、皆さんのこと拝んでますよ。

 その子供の私たちも・・・ありがとうございます。


何度か紹介しているのでご存知の方も多いと思うが、

2011年10月19日、国道493号の応急復旧完成時に、当ブログにいただいたこのコメント。

「ゆうこさん」とはコメントの主さんの名前である。

そして「沈黙の螺旋」(ノエル・ノイマン)。

 

マスメディアを通じ、個人が多数派と認識する世論が形成され、そのような世論が同調への圧力を持つという理論。

人々は自分の意見が世の中で多数派か少数派かを判断する直接的統計能力を持ち、

少数派だと思う人々は孤立を恐れて沈黙を保ちたがる。

そのため多数派の声が、螺旋が収束するようにますます増大するというものである。

(Weblio辞書より)


現代日本でこの理論がピタリと当てはまるのが、公共事業悪玉論とそれを取り巻く情況だと私は思っている。

藤井聡さんは、その著書『強靭化の思想』(扶桑社)でこう書いている。


世論と呼ばれるものは、人々の冷静な意見の集積というよりはむしろ、こうした「こわばった風潮」にしか過ぎない、と考えるのが沈黙の螺旋理論である。(P.101)

伝統に裏打ちされた良識を携えた庶民が残されていることを信じ、彼らに向かって正当な論理を発言し続けること以外に、沈黙の螺旋を逆に回す術はない(P.104)


「ゆうこさん」を探すために、私たちがしなくてはいけないことは情報を発信すること。

デジタルとアナログの双方を使った情報発信、つまりWebと生身との両面作戦である。

情報を発信しなければ、(たぶん)日本全国どこにでもいるはずの「ゆうこさん」は、その姿を表わすことすらなく沈黙するしかないのである。

私たち公共建設産業の構成員の一人ひとりが、それぞれの持ち場でそれぞれの「ゆうこさん」を掘り起こす。

そうは言いつつかといって、沈黙の螺旋を逆に回すなどという大それたことを成すには、私はちっぽけな存在に過ぎないし、私(たち)が置かれている情況を考えれば、あまりにも悠長な話しに過ぎるのかもしれない。

だとしても私は、「ゆうこさんを探せ」というメッセージを、送りつづけたいと思う。

それを見聞きして、「このメッセージはオレ(アタシ)に向けて発信された?」と感じた方がいたとしたら、

それは単なる勘違いではなく、自覚という名の勘違いである。

大いに「勘違い」してアクションを起こしてほしい。

そして、あなたの周りの人に、勧めてみてほしい。

キーワードは、「ゆうこさんを探せ」である。

 

 

強靭化の思想―「強い国日本」を目指して
藤井聡
扶桑社



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雪国から

2014年03月15日 | ちょっと考えたこと

 

 

「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」

なんて月並みな言葉しか思い浮かばない私は、

雪国に住む人たちには申しわけないが、雪を見ると、どうにもテンションが上ってしまってしようがない南の人。

案内人たるAさんが、ハンドルを握る車中で何度も、

「春ですよ」

とつぶやく言葉に、

「そんなことあれへんやろ」

と心のなかで応答する。

桜の花がもうすぐ咲かんとする南国土佐より、はるばるきたぜ雪国新潟。

上越市初見参のきのう。

 

「プレゼンテーションは送り手と受け手の創作物だ」

「それを創りだすのはあなたのパッションとデータである」

 

桃知利男さんのその言葉が、頭のなかで行きつ戻りつするのを、別の私が確認しながらしゃべる90分なのであった。


その一方で、新潟への道中を含め、ずっと気になっていたことひとつ。

きのう行われた、村の中学校の卒業式である。

私にとって今回の卒業生6人は、今まででもっとも思い入れの強い子どもたち。

「どんなやったろ。。。」

と思いながら、夜の部になるとそんなことは忘れ、これまたテンション上げ上げなのはいつものこと。

そんなこんなで今朝起きると、夜中に届いていたメールがひとつ。

女房殿からである。

 

「参加者のだれもが涙した、村でしかできないような素晴らしい卒業式でした」

 

 

 

 

「そうか・・・」

 

窓から見えるモノトーンの景色が、なんだかとても輝いて見える朝。

Aさんの言葉を反芻する。


春なのである。

 

 

 

 

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春を告げる

2014年03月14日 | 土木の仕事

工期間際、土壇場になっての大水は堪えるものだ。

だが、そうはいっても、3月になれば雨は降る。

雨が降らなければ春がこない、といってもいい。

自然の節理に逆らえるほど私(たち)は、エラくも賢くもない。

だから、お天道さまと上手につき合い、少しでもリスクを減らすためにはどうするか、が工期遵守の肝心要、必須事項となる。

今年もまた、水に関わる現場が多い。

となると、降る雨に一喜一憂する日々となるのはいたしかたない。

幸い、どの現場も、きのうの春一番を余裕でやり過ごすことができた。

「元気があれば何でもできる!」

とアントニオさんは言うが、私は、

「ゆとりがあれば何でもできる!」

と、この生業(なりわい)たる土木の仕事をして、そう思う。

であればやはり、如何にして「ゆとり」を生み出すかが、勝負の分かれ目になるのだろう。

 

 

 

陽があるうちに帰ったすぐあと、西谷川のほとりを犬とともに散歩する。

どうやら、桜のつぼみがほころび始めたようだ。

 

春告げる おおかぜ過ぎて 水増ゆる 里山の渓(たに) 桜のつぼみ


とかなんとか言いつつ今日は新潟行き。

天気予報は雪なのであるが。。。

 

 

 

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釜石からの手紙

2014年03月13日 | ちょっと考えたこと

 

趣旨(『釜石からの手紙』公式サイトより)

東日本大震災から、今年で丸3年を迎えようとしています。私たちはこの3年間、日本中・世界中の方々の力を借りながら、復旧・復興に向けて毎日を過ごしてきました。そのなかでのたくさんの出会い、家族や友人とのやりとりに、勇気づけられてきた人は多いのではないでしょうか。

普段はなかなか機会がないけれど、想いを伝えたい人がいる。そんな出会いや気持ちを大切にしたい。最近の釜石の様子や変化、近況、感謝の気持ちを伝えるきっかけになれば。そんな想いから、この企画は生まれました。

離れて暮らす家族や友人へ、かつてお世話になったあの人へ、大切な人へ、1枚の絵はがきに想いをのせて送ってみませんか?

2014年3月11日付、釜石オリジナル風景消印のはがきが、大切な人のもとに届きます。

 

 

春一番の強風が吹くなかやってきた郵便やさんが、

「釜石からの手紙」を持ってきた。

「3.11」の消印があるその手紙に、

送り主の人柄があらわれたその手紙に、

ちかごろヘタレなこの私は、ガツンと気合を入れられたのである。

さりげなく、だが真っ直ぐに、ガツンと入れられたのである。

 


 

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勉強をしなおして・・・

2014年03月12日 | ちょっと考えたこと

やばい!

書けなくなったのである。

理由ははっきりしている。

それについて、つい今しがたまでグダグダと書いていた。

が、どうにも陰々滅々としたトーンから脱出できない。

 

ということで、

 

勉強をしなおしてまいります。

 

 

 

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