情報を発信せよ。
今回の遠征もまたいつものように、それが私の大きなテーマだったのである。
何ゆえそれが必要なのか、ということについては、
きのう「ゆうこさんを探せ」で書いたとおりだし、
折にふれて繰り返し、口に出しかつ書いてきた(はずだ)。
だが、たとえば「沈黙の螺旋を逆に回す」などと大上段に構えてしまえば、「そりゃあたしかにそうかもしれませんがね」と、私が勝手に同じ地平に立っていると思い込んでいる人たちからスカンを食いそうな気がしないでもない。
じつは、それほど大それてはない別の理由が(私には)あった。
もやもやとして言語化できず(ちゃんと向きあおうとしていなかっただけ、かもしれない)、たぶん誰にも言ってなかったそのことが、今回の雪国行でやっと形をなしてきたので、そろそろ陽の目を見せてみようかなと思う。
現場の人間が現場のことを現場から発信する。
それこそが、すなわち情報発信なのである。
うん、ここまでは繰り返し書いてきたことだな。
では、「ゆうこさんを探す」こと以外に、何ゆえそれが必要なのか。
誰であれ彼であれ現場にリスペクトを持たない人間が、君やアナタや私の現場のことを、
ああでもないこうでもないと論評するのを看過する日々に、
そろそろクサビを打ち込みましょうや、と私は言いたいのである。
現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する
「工事だより」にしても「現場情報ブログ」にしても「完成検査プレゼンテーション」にしても、
結局は、やってきたことやろうとしたことを伝える場所であり、その想いを発露する場所であり、その反復訓練の場所なのである。
自ら物語を紡ぐ。
と言えばエエカッコしいが過ぎるのかもしれないし、「物語を紡ぐ」が「虚構をつくる」につながるのだとしたら、それは私の本意ではない。
だが私はそれでもあえて、「自らの物語」を紡いでみましょうやと言いたいのである。
現場の人間(たる自分)にも、
(生身の自分が存在する)現場にも、
そこに関わった人間の数だけの物語がある。
たしかに、「物語を紡ぐ」ことなど誰でも彼でもが出来得ることではない。
「あなたのような発信できる人がオレたちの想いを伝えてくださいよ」
と何年か前に私に訴えた北の国のベテラン技術者の気持ちは、痛いほどわかる。
だが、自ら語らないものは好き勝手に解釈されてもしかたがない、のが今という時代の基本であることを忘れてはならない。
「おぼんのような世界」は自ら情報を発信(物語=プレゼンテーション)できないことで、好き勝手に解釈されている。つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。(『桃知利男の浅草的ブログ』より)
http://www.momoti.com/blog2/2008/06/post_251.php
という桃知さんの言葉を、繰り返し引用してきた私はこれを、桃知さんの教えどおり(面向かってご教示いただいたことは一度もないが ^_^;)公共建設工事という業界の構成員に対して使ってきた。
そしてそれは、これからもたぶん使っていくのだろうと思うのだが、
これからは対象をもっと限定し、
つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなのであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。
という、この受け売りのメッセージを発していきたいと思うのである。
つまりそれを、
現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信しない限り、それは好き勝手に解釈されるものでしかないのである。
という言い換えで、対象を現場に生きるアナタや君や彼や彼女に限定することで、「(現場人的)情報発信のすすめ」という私からのメッセージとしたいのである。
もしアナタが「そんな余計なものを」と思い拒絶してしまうのだとしたら、アナタや君や彼や彼女の「現場」が浮かばれないと私は思うし、
何より、現場を語れない(あるいは現場を語る言葉を持たない)そのことが、
現場に対するリスペクトを持たずして公共建設業の周辺で利益を上げようとする人たちのなすがままになっているかもしれない現実の、ひとつの要因だとしたら、
現場の人間(たる自分)が(自分の)現場のことを(生身の自分が存在する)現場から発信する
それを行わずに他責の念をのみ抱くことが、良かろうはずはないのである。
公共建設工事の情報発信については、何より経営者が、そして建設業協会が、もっとも真剣かつ戦略的に考えなければならないことだと常々私は思っているし、切にそれを願っている。
だが、だからといって、一人ひとりの現場の人がそれをやらない理由にはならないし、経営者や建設業協会が動かないからという事実は、現場人が情報発信をしないことの免罪符とはなり得ない。
拠って立つ現場があるくせに語る現場がない、または、現場に拠って立つ自分がいるくせして現場を語れない、そういう現場人の不幸にそろそろ気づいてほしいのである。
だから、皆んなが何気なしにいつも通る道や渡る橋は、オレやあたしがこうしてああしてつくったのだと、そう発信してほしい。
たとえ発信したとして、受信者側の思い込みで如何ようにも解釈され得ることには違いない。
だが、指を加えて沈黙する前に、焼酎をあおってくだを巻くまえに、
せめて、自らが拠って立つところの現場を「好き勝手に解釈され」ないためのアクションは起こすべきである。
そうでなければ、アナタや君や彼や彼女の、何より私の「現場」に申し訳ないではないか。
と私は思うのである。
(いろいろ難しいことがあるのは承知のうえ、ですけどネ ^_-)
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