一個の「私」をこのもやもやした世界のなかから、もやもやした自分のなかから取り出していくためにも日記は欠かせないものだと思う。
『日記をつける』(荒川洋治著、岩波現代文庫)
「さすが詩人の書く文章は違うわな」と私をそう感心させてしまう荒川洋治さんは、しかし、ブログについては、
”そのことばの量で「自分がある」ような錯覚が生まれる。でも、それは「自分のない状態」なのだ”と書いている。
しかしながら、そのブログというやつを書く主体たる私は、ブログを書く日々というやつについて、「やっぱりええな」と、折りにふれそう思うのだ。
たとえばこんな時である。
ああだこうだと文句は言いたい、でも言えない。そこで、もやもやとする私。
言えない理由は、置かれている立場であったり、戦略戦術上の判断からであったり、義理と人情のしがらみだったり・・・・・・、それはその時その時で色々さまざまなのだけれど、
そんな時、ブログにああだこうだと書き散らかすと、そのうちに、案外頭の中がまとまってきたりする。
そういう文章に限ってたいていは、そのままアップすることはあり得ず、他人さまに晒すとなれば、公表して良いとこ悪いとこを取捨選択し文章を推敲したうえで(というほど練れてはないが、ま、それなりにその時は、よしこれで行こうと、ネ)、晴れてお天道様の下を歩かせられる、というややこしい作業がつきもので、
その結果、ついぞ陽の目を見ることがなかったという稿も数々あるわけだが、それはそれ。
閉じた世界のなかでやっていることではないのだ、仕方がない。
そうやって、「考える」と「反省」の間を行きつ戻りつしながら、「ブログを書くという行為」を繰り返す。
私的にはそれをして、「オヤジのIT修行」というのだと、今日もまた独り納得しているのだし...。
「反省」を通じて、そこで学んだことを言葉で表そうと極限の努力をするとき、「言葉で語れる知識」だけでなく「言葉で語れない智恵」も掴みやすくなる。
(『これから知識社会で何が起こるのか』田坂広志著、東洋経済新報社)
荒川洋治
岩波書店
これから知識社会で何が起こるのか―いま、学ぶべき「次なる常識」
田坂広志
東洋経済新報社