20日ほど前、県外からお客さんが来た。初見の方たちではない。あちら側が来社するのは3度目で、1回だけだが、こちらから訪問をしたこともある。行ったり来たりの始まりは、あちらさん側のアクションからだった。1年半ほど前のことだ。
とあるところでわたしの話を聴いたという若い経営者さんが、「これが僕らの目指す方向だと確信した」という。それから半年後、つてを頼って訪ねてきてくれた。
ただでさえ熱量が他人さまより少しばかり多いわたしだもの、そんな熱い想いを告白されてうれしくないはずがない。「三方良しの公共事業」の真髄を伝授して差しあげようと、肩肘張って待ち構えたが、先方さんのリクエストは「どうすれば工事成績がアップできるか」、ひらたく言えば「工事評定点をあげる方法を教えてくれ」だった。
「そっちかよ」
そのストレート過ぎる要望に、心中思わず腰砕けになったわたしだったが、それも一瞬のこと。すぐに思い直し、わたしが伝えられることはでき得る限り伝えることにした。「そんな入り口があってもいい」からだ。はじめの一歩は各人各様。なんとなれば、今でこそエラそうに理念を説くわたしにしてからが、スタートはまぎれもなく「点数アップ」だったのだし、今でも、公共建設工事を生業とする地場建設業の番頭たるわたしにとってそれは、相変わらず至上命令のひとつとしてある。
二つ返事で引き受けたもうひとつの理由は、彼らが発散させていた「切実さ」だ。「切実な思い」は人を動かす。渡る世間は生易しいものではなく、多くの場合、「思い」だけで人は動かないのが現実だとはいえ、ときとして「切実な思い」が人を動かす。わたしのようなおせっかい者ならなおさらだ。
この10年のあいだ、「何かをつかもう」とこの地を訪れてくれた人々はたくさんいる。袖触れ合うも他生の縁、でき得る限りオープンな態度で接してきたつもりだ。なんとなれば、かつてのわたし(たち)がそうやって、厚かましくも他人さまのところへ押しかけては何かを学びとり、それを自らの環境向けに翻訳し土着化を図るという行為を繰り返してきたのだもの(もちろん現在進行形です)、わざわざ赴いてくれる他人さまを邪険に扱うことなどできるはずがない。
だとしてもだ。
こちらが披瀝する情報量とそれを伝えるときの熱量は、まことに申しわけないが、相手によってそれ相応に変化してしまう。そうなる要因は何か。「切実さ」は、そのなかでも大きなひとつだ。「困っている」という現実を赤裸々に吐露できる開き直り、「何とかしたい」という身を焦がすような願望、そして「わからないけどやる」「何とかするのだ」という覚悟。それらをごちゃまぜにした「切実な思い」が人を動かす。余人はいざ知らず。少なくともわたしは、その思いに動かされる類の人間だ。
20日ほど前、県外から来たそのお客さんたちには同行者がいた。わたしたちの出会いに話が及び、ひとしきり盛り上がったあと、
「なんで見ず知らずの人たちにそこまで?」
わたしの振る舞いについて、そう疑問を呈された。
「切実」というキーワードは答えた。だが、全体的にみれば、まともな返事ができてなかったような気がする。
さて、今日は何を書こうかと、まったくのノープランだったわたしが、記事一覧に「下書き」という名で保存されている稿を探していくうちに、「切実な思い」というタイトルだけが保存された下書きにもならぬ下書きを見つけ、そのことを思い出した。
上記、いささか遅すぎたが、その回答である。
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