今から思えば、
人を妬み、世を恨み、陰々滅々とした酒を呑んでいたころもある(ああ、ヤダヤダ)。
しかし、(酒飲みとしての)キャリアをとおしていえば、明るい酒だろうなという自負はある。
それは、必要以上に熱く、飲めば呑むほど、酔えば酔うほど議論をするというその体質も含めてである(最近はなりをひそめているがネ)。そしてそれは間違いなく、訓練を経て身についたものである。
私のように、酒が強いというDNAを受け継いでいる、と自他ともに認める人間であっても(今はそんなに強くないがネ)、それ相応になるにはそれ相応の訓練が必要だったのだ。
それ相応の訓練を重ねた結果、何が身につくかというと、「酔わない」身体もしくはテクニックである。
いや正しくいえば「酔う」。それも人並みに、飲み始めたらすぐ「酔う」。「酔わない」テクニックとは、「酔ってしまった」そのあとをいかにして持続させるか、または「酔っていない」という擬似信号を送って、自分自身の脳をいかにして騙すかということである。
しかし、そうやって年月を経てきた我が身体と脳が、今となっては悩ましい。
いつもいつでも、「ほろ酔い」でやめれば可愛いものを、習い性というものは哀しいもので、ついつい完全に「酔う」までやる。もとい、やってしまう。
これを「哀しい」といわずして何と言うか、である。
これがまた旨いから「哀しい」、のである。
そしてこの「哀しい」は、たいがいのところ楽しいのだから、悩ましい。
(いやじっさい、そないに悩んではないんですがネ)
(どないやねん)