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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「ためにする」転じて「ためになる」

2021年03月03日 | 読む・聴く・観る

村上悟さんの『不確実な時代に勝ち残る、ものづくりの強化書』つながりで買った数冊のうちひとつが、『トヨタ式A3資料作成術』。

 

 

 

 

(わたしの)「ためにする読書」(つまり、下心をもって本を読む)シリーズ絶賛継続中である。

それはいいとして、2016年に宝島社から発刊されたこの本、絶版だろうか、Amazonには中古品しかない。そのうち、わたしが購入したのは最安値の2千円ちょっとのもので、出品者がつけていたそのコンディションは「良い」だった。Amazonで中古本を買う場合、「非常に良い」か「ほぼ新品」以外は、よほど欲しくてたまらないものをのぞいては買わないようにしているわたしが、「良い」で手を打つことにしたのは、そのひとつをのぞいた他14品の値段が、5千円代が3つ、7千円台が4つ、その他は1万円以上で最高値が29,999円とバカ高かったからである。

となると人間の心理とはおかしなもので、2千円ちょっとが「安い」と感じてしまう。すぐに購入しようとした。

だが、ちょっと待てよ。

「注文を確定する」をクリックしようとする右手を止めて、レビュー欄をのぞいてみた。最上位にあったのは以下のようなコメントだ。

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この書籍は「永久保存版」です。

例え、10年経とうと、20年経とうと、全然古くなりません。

幸運にもこの書籍を手にすることができた人には、何年か経過して20万・30万の値がついたとしても、そうやすやすとは手放さない方が得策かと思います。

他のショッピングサイトでは高値(ヤフーでは2万円弱)で取引されていたり、そもそも「在庫なし」だったりするようです。

極めて入手困難の良書です。

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「へーそうなんだ。買いだな」

だからといって、よもや転売しようなどとは思わないが、騙されたと思って買ってみた本が届いたのはきのう。今朝、さっそく読んでみた。

いや、「読む」という表現はどうなんだろう。文章はほとんどない。その多くが図説である。他人はいざ知らず、わたしはこの手の本があまり得手ではない。ましてや、「トヨタ」がどうだこうだと冠がついた本はあまり読む気がしない。

あらあら、それもこれもをわかって買っておいてそれはないだろう。苦笑しつつページをめくった。

ところがどっこい、それがわるくないのだ。

いや、わるくないどころか、よいのである。

読み物としてではない。資料として一級品。という意味でよいのである。

この本、当たり。いくらなんでも、3万円という大枚をはたいてまで手に入れようとは思わないが、2千円ちょっとなら買い得だ。

ということで、(わたしの)「ためにする」読書(つまり、下心をもって本を読む)シリーズ絶賛継続中。

「当たるも八卦」のようなものではあるけれど、ときどき「ためになる」のなら、「ためにする」のもわるくない。

 

 

 

 

 


ためにする読書

2021年03月02日 | 読む・聴く・観る

近ごろどうも本読みがすすまない。原因ははっきりとしている。またぞろ「ためにする」読書をしているからだ。

主人がへそ曲がりでひねくれ者であるにもかかわらず、なぜだか、わたしのココロもアタマも、そんなところは正直で素直だ。とたんにヤル気をなくしてしまう。まったくどうも、しょうがない奴らではある。

ところが、そんななかでも日ごろの行いがよければ「玉」に当たったりもするからおもしろい。それが、『不確実な時代に勝ち残る、ものづくりの強化書』(村上悟)だった。

読み終えたあと、興奮もさめやらぬまま、著者村上悟さんにダイレクトメッセージを送った。感謝の言葉のあとに記したのは、「ここ、よいですね」というコメントと以下の文章だ。

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 人間は考えることによってのみ「知り」「学び」続けることができます。私は、学ぶこと、考えることは「物事を疑う」ことであり、これは科学することと同義だと考えます。そして、科学することの本質、すなわち科学的な態度とは、物事の合理的な「疑い方」であると思うのです。

 しかし、「疑う」行為は、「否定する」ことではありません。疑い深く何度も三現主義で確かめて、それでも否定できないときに初めて、その事象は「正しい」とみなされます。つまり、正しさを確かめるために疑うのです。

ただ、否定できないからといって「正しい」とは断言できません。あくまでも「正しいとみなす」のであって、疑問の余地を残すのが科学的に「正しい」ということであり、学ぶことにつながるのです。

(P.216)

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さほど時間がかからぬうちに、返信が届いた。そこには、Critical thinking という文字が踊っていた。

「そうかクリティカルシンキングか」

とわかったようにうなずくわたしはしかし、どこかで目にし耳にしたことはあるにせよ、そのじつ、クリティカルシンキングについて、まったく何もわかってはいない。

検索してみた。めんどくさいのでGoogleのトップにある記事を斜め読みしてみた。と、そのなかにはこう書かれていた。

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ビジネスの世界でクリティカルシンキングが注目されるようになった理由の1つに、価値観の多様化があります。

かつての日本では、「より良いもの」を提供することが企業にとって重要でした。

高性能や低価格といった明確な基準があり、それを追い求めることが事業を成功させる方法だったのです。

しかし、人々が異なる考え方や価値観を持つようになり、1つの基準に合わせているだけでは、ビジネスを成功させることはできなくなっています。

そうした時代の変化のなかで、本質を見極める思考法であるクリティカルシンキングが重要性を増しているのです。

これまで正しいと考えられてきたものが、通用しなくなっているという事例は数えきれません。

だからこそ、従来どおりの考え方から脱却し、時代に合った意見や判断に必要なクリティカルシンキングが求められているのです。

(『あしたの人事 Online』より)

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ナルホド。とはいえもちろん、これだけでは理解できるはずがない。

そのままAmazonへとジャンプし、クリシン本(というのだそうだ。それほどこの手の書籍が出回っているという証だろう)を2冊買った。その他、村上さんの本にあったトピックからの関連で購入した本が3冊。

それもまた玉石混交ではあろうし、いつものように積ん読に仲間入りする奴もなかにはあるだろうが、おじさん、俄然読む気がわいてきた。

「ためにする」読書も捨てたものではない。

 

 


『バッファデザインー製造業における多品種少量・短納期化に応えるための方法論』(八木将計・八木香織)を読む

2021年02月24日 | 読む・聴く・観る

『バッファデザインー製造業における多品種少量・短納期化に応えるための方法論』(八木将計・八木香織)より。

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計画生産が困難な環境下でも、顧客の納期を守るにはどうしたらよいでしょうか?

 一つの答えが「バッファを持つ」です。つまり、「変動性はゼロにできない」「計画はズレる」ことを前提として、顧客納期を守るために余力を持つということです。

 ここで注意していただきたいのですが、「計画はズレる」ことを前提にするからといって、生産計画が不要になるわけではありません。「バッファ」を含めて生産計画を立てることで変動を吸収し、顧客納期を守れるようにするのです。

(Kindleの位置No.149)

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仏壇の脇に飾ってある黄色いチューリップの切り花にも気づかないほど余裕のない日々を生きるおじさんが言えた義理ではないのかもしれないが、あらためて、工程管理におけるバッファの意義と重要性について、あれやこれやと考えをめぐらしていた。

そんなこと、わたしにとっては「今さら」ではあるのだけれど、たとえ「今さら」であったとしても、アタマの斜め上にぶらさがっているのだもの、考えないわけにはいかない。いや、「今さら」だからこそ、考えるべきなのだろう。考えることで、「今さら」ではない何かに気づくこともあるのだから。

てなことを考えながらページをスライドする朝。

バッファデザイン・・・なんとなくお洒落なその語の響きが気にいった、あいも変わらずミーハーなおじさんなのである。

 

 


『ことばと思考』(今井むつみ)と『きのうの空』(志水辰夫)をかわるがわる読む

2021年01月04日 | 読む・聴く・観る

コロナ禍は、なんの変哲もないこの辺境の集落の、どおってことないこの家族にも色濃くその影響をおよぼし、わずか3人で迎えた令和3年元日は読書三昧。『ことばと思考』(今井むつみ)を一章読むごとに、『きのうの空』(志水辰夫)に収められた短編を一つずつ読むを繰り返すという、とらえようによっては、まことにぜいたくな一日となった。

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私たちが「見ている」世界は、ことばが切り分ける世界そのものなのだろうか。それとも、ことばが切り分ける世界は、私たちが「見ている」世界とは別のものなのだろうか。(『ことばと思考』、P.6)

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コミュニケーションについて考えるにつけ、「伝える」を考えれば考えるほど、「言葉」への興味はますます大きくなり、尽きることがなくなっている。そして、「言葉」についてのこだわりもまた、より強くなってきている。一方で、「言葉」にあまり頓着がない人の存在が現実としてある。物と数字という、一見すると即物的な素材を相手にする、わたしたちの仕事においてはなおさらそうだ。そして、わたしが「言葉」について、考えれば考えるほど、反比例的にその差は広がるばかりだ。

とはいえ、それをもって、「だからアンタは」と指弾したとしても、多くの場合、「言葉」をたいせつにしない人にとってはどこ吹く風だし、「なんのこっちゃそれ」であることが多い。

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 結局、言語は人の思考の様々なところに入り込み、いろいろな形で影響を与える。世界に対する見方(知覚の仕方)を変えたり、記憶を歪めたり、判断や意思決定に良くも悪くも影響する。(P.204)

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だったらそのままにしておけばよいのだろうが、わたしという人間の厄介なところは、それで事を納めようとしないところだ。

じゃあどうすりゃいいのさ思案橋。

ゆくのも辛いし退くのも辛い。

なれば、ぼちぼちと前を向いて行くしかない。

「行けばわかるさ」とはよく言ったもので、たしかに、それは正解ではあるけれど、その正しさは半分でしかない。なぜならその「わかる」は、次の「わからない」のスタートラインだからである。「わかった」途端に、次の「わからない」がはじまる。

だからおもしろいんじゃないか。

そう独りごちながら、『ことばと思考』(今井むつみ)と『きのうの空』(志水辰夫)を読んだ。かわるがわる読んだ。

 

凧(いかのぼり)きのふの空の有り所(蕪村)

 


『ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学』(川添愛)読む

2020年12月29日 | 読む・聴く・観る

 

 

 

人が読んだ(読んでいる)本を見て、「読んでみたいなぁ」と思うことなどは枚挙にいとまがない。ましてやそれが、信頼のおけるホンヨミストならばなおさらだ。そんななかでも、「新潟のハム」さんは、わたしにとってまちがいなく最上位にランクインされる。

彼と先日、Webで一献かたむけた際、彼がつくった資料に参考文献としてさりげなく記載された数冊のうちひとつのタイトルが、わたしの目にとまった。すわ、忘れてならじと急いでメモし、呑み会がはねたあと即購入。それが、『ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学』(川添愛)だ。

といっても、ビビッときたからといって、それがそのままわたしにとってよい本となるかといえばそうでもなく、むしろ、確率的にいえば結びつかない可能性のほうが高い。だが、今回は大当たり。ホームラン級と称してさしつかえないほどの当たりだった。

章立ては5つ。

まず第一章では、「機械の言葉」の現状を解説し、問題点を指摘。つづく、第二章から第四章は、「人間の言葉」について、意味、文法、習得、意図の理解をはじめとするコミュニケーションの問題について見ていったあと、最後の第五章でふたたび「機械の言葉」に帰って、今後の課題を考えるという骨格によってできている。

とはいえ、今の今まで「機械(=AI)の言葉」についてほとんど興味がなかったわたしのことだ、当然のことながら、ぐぐっと惹きつけられていったのは、第二章以降である。

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 第一章で見たように、今のAIは私たち人間の「言葉の理解の仕方」や「言葉の使い方」を忠実に再現しているわけではありません。(略)

 またその一方で、私たち人間がどのように言葉を理解しているかということも、いまだ謎に包まれています。(略)当然のことながら、人間の言語能力についての理解が進まなければ、AIが「人間と同じように言葉を理解しているかどうか」も判断できないことになります。

(略)

しかし、そもそも「言葉の意味とは何か」という基本的な問題にも、まだ明確な答えが出ていないのです。この第二章ではそういった意味の問題を中心に、人間の言葉の謎に触れていきたいと思います。

(Kindleの位置No.845)

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そして、この本の最終盤、著者の締めくくりはこうだ。

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重要なのは、「言葉の意味」や「コミュニケーション」といった言葉があやふやであることに対して投げやりな態度をとることではなく、そういった言葉の奥にある「見えにくい本質」をつかもうとすることです。

 人間の言葉の本質を探る上で、機械の言葉との比較が良いきっかけの一つになることは間違いありません。そういった意味で、今は人間の言葉に対する理解が進む大きなチャンスなのかもしれません。

(No.2611)

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読み終わるなり、著者の別の著作を探して購入した。そして、さっそく読むべと開いたが、ちょっと待てよと考えた。

まだまだ理解は浅いぢゃないか。

であれば、ここに書かれている内容をもそっと咀嚼してみる必要がある。

幸いにして休みは長い。腰を据えて取り組んでみよう。そう思いなおした。

それもこれも、酒でアタマがしびれてしまわなければという括弧付きではあるが、そして、それがもっとも困難な問題ではあるけれど、とりあえずそんなふうに思いつつ、『ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学』(川添愛)を読了。


乱読の併読

2020年12月23日 | 読む・聴く・観る

どれぐらい前からだったかは忘れたが、わたしの「読む」は併読だ。

今は、数はおおむね4つまでときめている。

その一つひとつには、関連性がある場合もないではないが、たいていの場合は脈絡がない。

つまり、乱読の併読だ。

この秋からは、そのなかにひとつ小説を、しかも短編小説を入れることに、これまたきめた。

今は、シミタツこと志水辰夫だ。

昨夜は、『きのうの空』を読んでいた。

 

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「あ、蛍」

 智美が声をあげた。振り向くと、黄色い光がひとつ、川上のほうからふらふらと飛んでくるところだった。蛍はふたりの頭上を横切り、光の糸を引いて川下へ消えていった。

「早いわねえ。もう蛍が飛びはじめたんだ」

 いつの間にかふたりは、つぎの蛍を心待ちにして闇に目を凝らしていた。しかし蛍はそれきり現れなかった。躰がいくらか湿ってきた。夜露が下りはじめたのだ。

「帰ろうか」

 弟のようすを見て姉は言った。信夫は答えなかったが、逆らいもしなかった。肩が丸くなっていた。智美は立ち上がって下駄をはいた。カランと桐の音が響いた。

(P.72)

******

 

人にとってもっともたいせつなのは情緒だと、わたしは信じている。そして、土木技術者というものには特にそれが必要だと、これまた信じている。

わたしたちがつくる構造物は無機質な物体であり、そのプロセスにおいて必要欠かさざるべきものである数値や数字もまた、血が通わぬものではある。しかし、わたしたちが常に相対しているものは、山や川や海やらの、けっきょくのところ「なにがなんだかよくわからない」自然である。そんななかで、土木技術者、特に現場のそれにとってもっとも必要なものは感性だ。センサーと言ってもいい。「なにがなんだかよくわからないもの」を相手にして、畏敬の念や危険や攻略法などを感じとるセンサーだ。

情緒を育み感性を磨く。

これが土木技術者として成長する肝である。

これはたぶん、「土木一般」からすれば変わった考えだろう。

だが、繰り返すがわたしはそう信じている。

 

そうだとして、ではどうすればよいのか。

答えは現場にあり。第一義には、まちがいなく現場だろう。現場での経験と気づきにまさるものはない。

ただ、この考え方には少し注意が必要だ。

現場を、たとえ百万回こなしても、漫然とそれをするだけでは「感性」を身につけることも磨くこともできない。それに気づかず、なにがなんでも現場さえ踏めばよいのだ、とにもかくにも現場の経験だけ積み重ねればよいのだと考えてしまうと、「狭義の土木技術」という落とし穴に入ってしまい、そこから脱けだすことが困難となる。

土木(施工)技術者という職業は、一流になろうとすればするほど、その総合性が問われるものだ。ジェネラリストでなければ一流にはなれない。余人は知らず。わたしにとってプロフェッショナルな土木技術者とはそういうものだ。

土木という枠のなかでしかものごとを考えることができない。会社という枠のなかでしかものごとを見ることができない。もっと狭くすれば、自分の現場という枠のなかにしかその身を置くことができない。そういった技術者が、いくらよい構造物をつくろうと、わたしの基準では一流と呼べない。

土木以外のもので感性を磨き、情緒を育む。この実践なくして、一流の土木技術者にはなり得ない。誰がなんと言おうと、わたしはそう信じている。

 

あらあら、たかだか短編小説を読んでいるというだけの話が、なんだかとても肩ひじ張った大それたものになってきた。なんでもすぐものごとを大げさにしたがる。わるいクセだ。

ふ~っ

少し肩の力を抜こう。

 

(土木以外の)本さえ読めば情緒が育まれ感性が磨かれるのだ、とまでは断言しないし、思ってもいないけれど、有用なものであることはまちがいない。

だからわたしは、できるかぎり本を読む。

そんな想いで本を読む。

ん?

なわけはない。

おもしろいから読んでいる。

つらつらと書いたのは、ついでの餅にこんな効用もありますよ、てなことに過ぎない。

乱読の併読。

じわじわと効いてくるかこないかは、人それぞれだが、ひとつ試してみてはどうだろうか。

 

 


辺境の土木屋、『土木のこころ』(田村喜子)を読む。

2020年12月21日 | 読む・聴く・観る

『土木のこころ』(田村喜子)を読む。

この本はいつから本棚にあったのだろうか、よくは覚えていないが、数ヶ月という単位でないということだけはまちがいない。

なぜ買ったか。

これは覚えている。

森崎さんがブログで紹介しているのを読んだからだ。

なによりそのタイトルに惹かれた。

どうしてすぐに読まなかったのか。

本を開いたとたん、少しばかり身がまえてしまったのだ。

のっけから、田辺朔郎、廣井勇、八田與一などのビッグネームが並ぶ偉人伝。しかも二十話のオムニバス形式。わたしはこの手の本が少々苦手だ。

そうとは知らず買う方がわるい。

そうっと閉じてそのままにしていた。

ではどうして読む気になったのか。

じつはこの『土木のこころ』、絶版になっていたのだが、このたびめでたく復刻されるという。ほんの、本当にほんの少しだけかかわらせてもらった。そのことで、あるSNS上に協力者として名前があがった。そんな人間が、まさか読んでないなどと、口が裂けても言えるはずがないではないか(書いたけど)。

なもので、おっとり刀で本棚からひっぱり出してきた。いつもながらの、なんというぐにゃぐにゃ。なんというぶれぶれ。まったく、泥縄というか付け焼き刃というか、行きあたりばったりである。

とかナントカ言っているうちに、読みはじめたと思ったら、またたくまに読了。

全編を通してもっとも印象に残った言葉がある。なぜだかそれは、それぞれの主人公が残したものではなく、元国鉄総裁仁杉巌が信奉していたという貝原益軒の言葉だ。

いわく、

「人、生まれて学ばされば生まれざると同じ。学んで道を知らざれば学ばざると同じ。知って行うこと能わざるは知らざると同じ」

ここに書かれた20人すべての共通項として、この言葉はあるとわたしは思う。

そして、この本を読んだあとでは、「土木のこころ」の末座の末座のそのまた隅っこに連なっている、と口にだすのもはばかられる、この辺境の土木屋62歳と11ヶ月。

Webで今知ったばかりの貝原益軒の辞世の句を独りごちてみる。

「越し方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢をみしかな」

過ぎ去った年月は、たった一夜のように思える・・・

ならば、せめて彼らの爪の垢なりでも・・・

そっと心に誓った。

 

 

 

 

このブログでもおなじみの福本伸行さんのイラスト、

「ここで見せろ!!!土木の力っ!!!土木の魂っ!!!」

を表紙にした復刻版は現代書林から2月に発売されるそうです。

一家に一冊、一所に一冊、一社に一冊。

ぜひ、お買い上げあれ。

↓↓

http://www.gendaishorin.co.jp/book/b531816.html

 

 


『街場のアメリカ論』(内田樹)を読む

2020年12月20日 | 読む・聴く・観る

昭和32年生まれのわたしは、高度経済成長まっただなかの時代にその少年期をすごした。そのころが、敗戦からたかだか20年ほどしか経っていなかったという事実に気づいたのは、それほど昔のことではない。いや、子どもとはいえバカではないのだから、数字としてはもちろんわかっていた。しかし、約20年という時が大人にとってどのような時間なのかは、理解しようともしていなかった。

ひと口に20年というが、まだ来ぬ先を眺望するときのそれは、遠く長い。道の途上ならなおさらだ。それに比べ、歩いてきた道をふりかえって見る20年は、ついこの前のようだ。それを理解するには、それ相応の歳月を生きる必要がある。

つまり、わたしの少年期とは、大人たちにとっては、ついこの前まで戦争をしていたという生々しい記憶をもつ時代だった。つまりそれは、アメリカ合衆国という国を、かつての敵国として明確に認識していたということに他ならない。それが、憎っくき敵国変じて新時代の宗主国を礼賛し崇拝する気持ちなのか、完膚なきまでに叩きのめされた屈辱をいつかどこかで晴らしてやろうという臥薪嘗胆の想いなのか、いずれにしても、「ほんのこの前まで敵国だった」というのは、大人たち各人の胸に刻まれた事実だったはずだ。

一方、その時代を生きる少年少女たちにとってのアメリカは、それほど屈折したものではなかった。少なくともわたしにとっては、憧れであり、希望であり、光り輝く未来の象徴としてあの国はあった。とはいいながら、それも中学生ぐらいになり世界情勢についての知識がついてくると、どうもそうでもないぞという気分がじわじわとアタマをもたげてくるのだが、それでも、映画、音楽、スポーツなどなど、ありとあらゆる分野で、憧憬の対象でありつづけたのはまちがいない。

そんなアメリカが、近ごろなんだかあまりにもおかしいぞ、と思いはじめたのはいつのころからだったろうか。

そういう思いが底流にあったのかなかったのか。たぶんあったのだろうが、本人の感覚としては、さして深い意味もなく読みはじめたのが『街場のアメリカ論』(内田樹)だ。

「へ~」

「ほぉ~」

「なるほど」

「ん?」

「え~?」

「ちゃうやろ」

さまざまな想いが去来しつつ読み終えた今、たったひとつだけ、これだけはよーくわかったという点がある。

それは、アメリカが変わったわけでも、今という時代のアメリカがおかしいわけでもなく、その建国にさかのぼって以来のこの方、アメリカはずっとアメリカのままであり、今のアメリカもわたしが憧れていたころのアメリカも、双方がアメリカ的にアメリカだということ。つまり、本質的には、なーんにも変わっちゃいないのだということである。

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たしかに日本はアメリカの軍事的属国です。けれども、それはアメリカの世界戦略を理解しているということでもないし、理解した上で賛同しているという意味でもない。「何をしたいのかよくわからないけれど、主人の言いつけだから従っている」というだけのことです。

(中略)

 アメリカが没落し、西太平洋から撤退したあとの日本は、このままでは「主人のいない従者」「本国のない属国」「宗主国のない植民地」になる可能性が高い。これは考え得る最悪の国のありようの一つです。そうならないためにも、改めてアメリカについて考えること、より厳密にはアメリカについて考えるときに日本人はどのように知性が不調になるのかについて考えることが要請されているとぼくは思います。

(No.3340あたり)

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そう。20世紀から21世紀にかけて生きる日本人がアメリカについて考えるということは、そっくりそのまま今という時代の日本について考えるということに他ならない。

 

そんな思いを抱きつつ、『街場のアメリカ論』読了。2005年の初版というから、今から15年前に書かれた本だ。しかし、「15年前」という時代を感じさせる箇所は、そのころあったトピックについて言及した箇所をのぞくと、あまりない。「文庫版のためのあとがき」で著者は、この論考を書くにあたってどのようなことを心がけたのかをこう記している。

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ぼくはこのアメリカ論をアレクシス・ド・トクヴィルに献呈していて、「トクヴィルが墓場から甦って読んでも『わかる』」ように書こうと思っていたからです。トクヴィルが今読んでもわかるように書くというのは、アメリカという国がいくら変わっても変わらない点に的を絞ったということです、まさにトクヴィルはそのような論件に絞ってその『アメリカにおけるデモクラシーについて』を書いたのでした。

(Kindleの位置No.3246)

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やはりな。

薄々は気づき、この本を読む以前から思ってはいたが、やはりトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』を読まなければはじまらないようだ。

そう決め、おもむろにAmazonストアをひらいて物色。

「全巻は大変だぞ、抄訳にしておこう」と、ほとんどクリックしかけたが、すんでのところで思いとどまった。

目の前に積み重なった本たちが目にはいったからだ。

せめてこの「積ん読」、半分ぐらいにしてから。

待ってろよ「トクヴィル」。

 

 

 

 

 


秋の夜長に

2020年11月24日 | 読む・聴く・観る

たてつづけに3冊読んだ「桜木紫乃」を、小休止した。

あの世界にはまることの、ある意味心地よさとはうらはらに、「このままつづけるのは危険だぞ」というメッセージが、わが脳から発せられたからだ。

3冊しか読んでいないのに断定するのは早計だが、彼女の小説には(いまのところ)ハッピーエンドがない。いや、そこはかとない希望をただよわせつつ終わる物語もあるのだから、Sad end ばかりだとは言えないのだが、俗にいうハッピーエンドではない。

たとえば、短編集を読んでいて(短編集しか読んでいないが)、

「え?そんな終わり方?」

というようなエンディングが一話二話とつづく。次の物語を読む。そろそろ終幕かなと予想できるような場面展開になってきた。すると、「今度はいったいどんな終わり方をするんだ?」という期待感でアタマのなかが満ちてくる。読んでいて、終幕がまちどおしい。たったの3冊しか読んでいないのにエラそうなことを言わせてもらえば、エンディングのキレは、彼女の短編の魅力の大きなひとつである。

 

NHK朝の連続ドラマ『エール』を観ている。

ただしくは、ずっとみてはいなかったのだが、近ごろ観るようになった。

少しみつづけて止めたのは、今という時代のテレビドラマに共通する、なんだかチャラチャラした過剰な演出と芝居が鼻につき、なんとも辟易とした気分になることがつづいたからだ。

それなのに、また観るようになったのは、「見てみる?最近おもしろいよ」と妻がススメたからだ。

あいかわらず鼻にはつくが、慣れてくると、こらえて観ることができるようになった。こらえてまで観ることはないじゃないか、と自分でも思うが、なぜかつづけている(といっても3週間ぐらいでしかないが)。

その最大の要因は、ハッピーエンドだろう。「ハッピーエンドありき」で物語を観ている安心感。期待どおりのエンディングの安堵感。それが映しだされたときの満足感。そんなこんながたのしみなのだろう。

ハッピーエンドが好きなわたしとアンハッピーエンドを好むわたしの、どちらか偽でどちらが真か。もちろん、そのように単純なものであるはずもなく、どちらもがわたしに違いない。ハッピーエンドに安心しながら、これではいけないと Sad end を求め、Sad end にひたりながら、このままでは危険だとハッピーエンドをさがす。この引き裂かれた心の、どちらもがわたしである。

とかナントカ言いつつも、ここ十数年のわたしは、小説を読んだりドラマを観たりという行為をそれほど多くすることがない人であった。それが近ごろでは、ハッピーであろうとアンハッピーであろうと、エンディングのあるストーリーが、やたらと欲しくなっている。

たぶん、一話完結の物語などめったにありはしない現実を生きていると、エンディングがある虚構のなかを泳ぎたくなるのだろう。とはいえ、テレビドラマには、ほとんど食指を動かされることがほとんどないし、映画に長い時間拘束されるのも、今のわたしにはわずらわしい。その点、小説なら。まして短編小説なら。

ということで、以前のようにぼちぼち読んでみようと思っている。とりあえず、と指名したのは、志水辰夫『いまひとたびの』。やはりここは電子ではなく紙でなければいけない、と酔眼でAmazonをクリックし、翌々日届いた本を見て思う。

「ひょっとしてこれ読んでるか?」

だが、本棚を調べはしない。

ま、よいではないか。

長く「本読み」をやっていればそんなこともある。

秋の夜長に「志水辰夫」を読む。

たのしみなのである。

 


『豆腐』(荻原井泉水)ならびに『豆腐の如く』(斎藤茂太)

2020年11月22日 | 読む・聴く・観る

わたしが読み終えた本の多くは、一年前まで住んでいた道路をはさんで向かいにあるあばら家にある。それでも、手元に置いておきたい本というのはあるもので、転居先で妻が与えてくれた部屋(つまり今これを書いているところ)に、4〜50冊ほどを選んでもってきて、「積ん読本」といっしょに棚にある。

そのなかのひとつが『豆腐の如く』(斎藤茂太)だ。

だが、なぜこの本なのか、よくはわからない。

どこのどの部分がよかったのか、よく覚えていない。

他のものは、どうしてそこに在るのか、明快な答えをだすことができるのにもかかわらずだ。

なのだがなぜか、選抜チーム入りに自分自身で躊躇することはなかった。

今朝、ふと手にとって、数ページを読み進めると、その理由がわかった。

20ページから21ページにかけて紹介されている荻原井泉水の『豆腐』という随筆がそうにちがいないと思いあたったのだ。

短い文章なので全文を掲載する。

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豆腐ほど好く出来た漢(おとこ)はあるまい。彼は一見、仏頂面をしているけれども決してカンカン頭の木念人ではなく、軟らかさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもっている。煮ても焼いても食えぬ奴と云う言葉とは反対に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんをかけても、又は湧きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。又、豆腐ほど相手を嫌わぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥じない。スキの鍋に入っては鶏と相交わって相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんに於いては蒟蒻や竹輪と協調を保つ。されば正月の重箱の中にも顔を出すし、仏事のお皿にも一役を承らずには居ない。彼は実に融通がきく、自然に凡てに順応する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持たずして、いわば無我の境地に至り得て居るからである。金剛経に「応無所住而生其心」とある。これが自分の境地だと腰を据えておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞う。此の自然にして自由なるものの姿、これが豆腐なのである。

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もともとの文には、つづきがあるようだが、斎藤茂太が引用しているのはここまでだ。当ブログのバックナンバーを紐といてみると、わたしはこれを2017年に読んでいる。そして以下のような感想を記している。

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読むなり胸がときめいた。

サウイフモノニワタシハナリタイ。

だがたぶん、この偏屈偏狭偏執なオヤジでは、ついぞかなわぬことだろう。

せめて爪の垢なりと・・・

ということで今宵は、「豆腐ほど好く出来た漢」に思いを馳せ、湯豆腐に熱燗でもやろうか。

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バカである。

「そういうものになりたい」と思えば、思いを馳せて熱燗を呑んでいる場合ではない。

ヘタレである。

「ついぞかなわぬ」と自分で自分の可能性をきめつけているかぎり、なれるはずがない。「爪の垢」さえも、その身にはつかないだろう。

『豆腐の如く』の終盤で著者はこう書いている。

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結局、人生は演技であると言っていいかもしれない。

家庭なら家庭における自分の役割をきちんと理解し、ときには自分にウソをついてでも、その役割を上手に演じていくことが肝心なのだ。(P.208)

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わたしはこの論に全面的に同意する。荻原井泉水が描いた「豆腐」、すなわち、「これが自分の境地だと腰を据えておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞う」人には、ただそこに座していてなれるものではない。

茂太先生によると、『豆腐』の後段には次のような意味合いの言葉がつづくらしい。

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豆腐には、悟りきった達人の面影がある。それは、厳しい環境の中で心身ともに鍛えられる禅の修行のように、重い石臼の下をくぐり、細かい袋の目を漉してさんざん苦労をしてきたからだ。(P.28)

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「演技」には稽古が必要だ。それは「積み重ね」の所産である。「上手に演じ」ようとすればなおさらだ。「そういうものになりたい」と思うならば、遅きに失するということはない。