最近、相談者を叱りつけ、断定的な物言いをする霊能者の話を聞きました。
そこで、改めて「アントロポゾフィー」の観点から、
霊能者の見分け方について書いておきたいと思います。
☆ ☆ ☆
一般に、「霊能者」というのは、要するに
普通の人々には見えないものが見えたり、
聞こえないものが聞こえたりする人たちのことです。
それだけで「先生」と祭り上げられ、
他者の人格を平気で貶めるような言動をする霊能者や占い師が、
巷には数多くいるのです。
もちろん、霊的な問題について、相談者の立場になって
真剣に向き合っている人たちもいます。
いわゆる「霊的な体験」は、誰にでも起こりうることです。
ドラッグによっても、
精神的な病気によっても、
あるいは極端なストレス状態にあるときでも、
そしてもちろん「修行」によっても、
普段ないような「超常現象」が体験されます。
そこで体験されることを単なる「幻覚」として片付けるつもりはありません。
いわゆる幻覚であっても、
その幻覚が生じた意味や経緯があるからです。
それを「幻覚」と見るにせよ、「霊的体験」と見るにせよ、
重要なのは、それをどう「読み解く」か、ということです。
霊能者の良し悪しは、この「読み解く」能力にかかっています。
そして、この「読み解く」能力は、
ごく普通の人間の知恵と経験に基づくものなのです。
つまり、人間として生きていくなかで、
おのずと培われていく経験や知恵が、
霊的体験を読み解く基盤になるのです。
その意味で、
霊能者の資質として決定的に重要なのは、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念であるといえるでしょう。
この畏敬の念があれば、
「あんたはこういう人だ」と決めつけたり、
「前世の因縁があるから、あの人とは別れなさい」などど、
他者の運命に介入することはありえません。
自分がどう生きるか、
自分の運命にどう向き合うかは、その当事者が決めることです。
一人ひとりが自分の人生の主人公として生きること、
そのことを最大限に尊重する人でなければ、
「霊」の問題を扱う資格はないでしょう。
☆ ☆ ☆
シュタイナーは、
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本のなかで、
「認識の道を一歩進んだなら、道徳の道を三歩進めなければならない」
と述べています。
ここでいう「道徳」は、「かくあるべき」という規範のことではありません。
むしろ、「他者」や「世界」に対する関わり方のことだといえるでしょう。
この「認識の道」と「道徳の道」を理解するうえで、
以下のことも参考になるかと思います。
シュタイナーは「薔薇十字」の道を歩むための二つの条件を挙げています。
(シュタイナーが「薔薇十字」ということばで表現したのは、
「現代人の意識にふさわしい霊学のあり方」と言い換えることができます。)
一つは、「問いを持ちつづけること」。
もう一つは、「他者に対して、その意志にではなく、認識に働きかけること」です。
最初の「問いを持ち続けること」は、
自分自身の「認識の道」であり、
自分自身の生き方に関わる基本姿勢であるといえるでしょう。
人生を通して、自分に降りかかってくる一つひとつのことがらに対して、
つねに「問い」を持ち、その意味を知ろうと努めること。
つまりは、「認識」を求める姿勢のことです。
二番目の「他者に対しては、その意志ではなく、認識に働きかけること」は、
「道徳の道」であり、
霊能者の資質に直接、関わってきます。
つまり、「あなたの前世がこうだから…」とか、
「あなたの守護霊がこう言っているから…」などという
普通の人には知りえないことをそのまま根拠にして、
「こうするのがいい」、「こうしなさい」と
その人の生き方や行動(「意志」)を束縛するのではなく、
それを伝えることで、
相手が自分で考え、
自分の責任で、自分の人生に対する決断が下せるように
「判断の材料」を提供するということです。
つまり、その人の「自由意志」を支えるためには、
相手の「意志」にではなく、「認識」に働きかける必要があるのです。
その意味では、
霊能者が知りえた「前世」や「運命」に関する情報は、
医師が患者の状態に関して持っている専門的知識にも共通しています。
ドクター・ハラスメントということばもあるように、
同じ診断結果を伝えるときも、
それによって患者の生きる意志を支えることも、
患者の生きる希望を打ち砕くこともできるのです。
あるいは、教師が子どもの発達に関する専門的知識をもって、
子どもにどう関わり、
その親とどのように話し合うか、という場面にも共通しているといえるでしょう。
つまり、シュタイナーが「薔薇十字」の2番目の条件として述べた
「他者の意志にではなく、認識に働きかけること」は、
医師、教師、カウンセラーなど、
「専門家」や「指導者」として
他者が抱える問題に向き合う人たちすべてに
共通して求められる基本姿勢なのです。
この薔薇十字の二つの条件においては、
第1の条件が、第2の条件の前提になっています。
第1の条件とは、
自分に降りかかってくることがらに対して、
「問いを持ち続けること」。
それはすなわち、自分の運命に対して
「認識を求める姿勢」で向き合うということです。
自分の運命の意味を知ろうとする態度は、
自分の人生に対する主体性、
自分の人生の主人公として生きようとする意志につながっています。
自分の運命を、自分自身で意味づけることができたとき、
その人は、自分の人生に対して、責任をもって向き合うことができます。
この「意味づけ」は、人生の当事者自身によってしかなされえないことです。
霊的な指導者が、「あんたの人生の意味は…」と言ったとしても、
それは本当の意味づけにはならないのです。
そして、この「自分の人生への態度」が、
第2の条件である、「他者への関わり方」の前提になっているのです。
☆ ☆ ☆
錬金術師・魔術師であり、
近代医学の祖ともされるパラケルススが、
「最高の薬は、医師のなかのアルカヌムである」と言っています。
アルカヌムというのは、「秘密奥義」とか「秘薬」と訳され、
その複数形の「アルカナ」は、
タロットの「大アルカナ」と「小アルカナ」につながるのですが、
僕は、パラケルススのいうアルカヌムは、
一人ひとりの「自我」のことだと思っています。
シュタイナーは、医術には二つの源泉があると言っています。
一つは「エーテル(生命力)」。
もう一つは「自我」です。
この意味での「自我」は、シュタイナーにとって
「教育」の源泉でもありました。
ただし、この「自我」は、
「自分の自我を他者に押し付ける」ことによっては、
「秘薬」としては作用しません。
その場合、自我は「破壊」作用しかもたらしえないのです。
自我が治療的に働くためには、
「私」自身が自分の人生に対して、
問いを持ち続け、認識を求め続けなければならない。
つまり、医師であれ、教師であれ、
あるいは霊能者であれ、
およそ人類に対して「治療者」であろうとする人は、
自分自身が問いを持ち、
自分自身の運命に対して、認識を求めて格闘していなければならないのです。
そして、そこに働く「自我」だけが、
シュタイナーのいう「地下の通路」を通って、
教師であれば、子どもたちの自我に、
医師であれば、患者の自我に
治療的な作用を及ぼすのです。
自分が真剣に生きている人は、
他者の人生に対しても真剣に向き合うことができます。
その根底にあるのが、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念なのです。
たとえ口調が厳しかったり乱暴であったりしても、
その人が自分に対して、深いところで敬意をもっているかどうかは、
相談者の側でも感じられます。
霊能者が本物であるかどうか。
それはその人の「見える」ということよりも、
その人自身がどう生きているか、
その人の「自我」のあり方によって決まってくる。
それが、僕がいま考える
「霊能者の見分け方」です。
そこで、改めて「アントロポゾフィー」の観点から、
霊能者の見分け方について書いておきたいと思います。
☆ ☆ ☆
一般に、「霊能者」というのは、要するに
普通の人々には見えないものが見えたり、
聞こえないものが聞こえたりする人たちのことです。
それだけで「先生」と祭り上げられ、
他者の人格を平気で貶めるような言動をする霊能者や占い師が、
巷には数多くいるのです。
もちろん、霊的な問題について、相談者の立場になって
真剣に向き合っている人たちもいます。
いわゆる「霊的な体験」は、誰にでも起こりうることです。
ドラッグによっても、
精神的な病気によっても、
あるいは極端なストレス状態にあるときでも、
そしてもちろん「修行」によっても、
普段ないような「超常現象」が体験されます。
そこで体験されることを単なる「幻覚」として片付けるつもりはありません。
いわゆる幻覚であっても、
その幻覚が生じた意味や経緯があるからです。
それを「幻覚」と見るにせよ、「霊的体験」と見るにせよ、
重要なのは、それをどう「読み解く」か、ということです。
霊能者の良し悪しは、この「読み解く」能力にかかっています。
そして、この「読み解く」能力は、
ごく普通の人間の知恵と経験に基づくものなのです。
つまり、人間として生きていくなかで、
おのずと培われていく経験や知恵が、
霊的体験を読み解く基盤になるのです。
その意味で、
霊能者の資質として決定的に重要なのは、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念であるといえるでしょう。
この畏敬の念があれば、
「あんたはこういう人だ」と決めつけたり、
「前世の因縁があるから、あの人とは別れなさい」などど、
他者の運命に介入することはありえません。
自分がどう生きるか、
自分の運命にどう向き合うかは、その当事者が決めることです。
一人ひとりが自分の人生の主人公として生きること、
そのことを最大限に尊重する人でなければ、
「霊」の問題を扱う資格はないでしょう。
☆ ☆ ☆
シュタイナーは、
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本のなかで、
「認識の道を一歩進んだなら、道徳の道を三歩進めなければならない」
と述べています。
ここでいう「道徳」は、「かくあるべき」という規範のことではありません。
むしろ、「他者」や「世界」に対する関わり方のことだといえるでしょう。
この「認識の道」と「道徳の道」を理解するうえで、
以下のことも参考になるかと思います。
シュタイナーは「薔薇十字」の道を歩むための二つの条件を挙げています。
(シュタイナーが「薔薇十字」ということばで表現したのは、
「現代人の意識にふさわしい霊学のあり方」と言い換えることができます。)
一つは、「問いを持ちつづけること」。
もう一つは、「他者に対して、その意志にではなく、認識に働きかけること」です。
最初の「問いを持ち続けること」は、
自分自身の「認識の道」であり、
自分自身の生き方に関わる基本姿勢であるといえるでしょう。
人生を通して、自分に降りかかってくる一つひとつのことがらに対して、
つねに「問い」を持ち、その意味を知ろうと努めること。
つまりは、「認識」を求める姿勢のことです。
二番目の「他者に対しては、その意志ではなく、認識に働きかけること」は、
「道徳の道」であり、
霊能者の資質に直接、関わってきます。
つまり、「あなたの前世がこうだから…」とか、
「あなたの守護霊がこう言っているから…」などという
普通の人には知りえないことをそのまま根拠にして、
「こうするのがいい」、「こうしなさい」と
その人の生き方や行動(「意志」)を束縛するのではなく、
それを伝えることで、
相手が自分で考え、
自分の責任で、自分の人生に対する決断が下せるように
「判断の材料」を提供するということです。
つまり、その人の「自由意志」を支えるためには、
相手の「意志」にではなく、「認識」に働きかける必要があるのです。
その意味では、
霊能者が知りえた「前世」や「運命」に関する情報は、
医師が患者の状態に関して持っている専門的知識にも共通しています。
ドクター・ハラスメントということばもあるように、
同じ診断結果を伝えるときも、
それによって患者の生きる意志を支えることも、
患者の生きる希望を打ち砕くこともできるのです。
あるいは、教師が子どもの発達に関する専門的知識をもって、
子どもにどう関わり、
その親とどのように話し合うか、という場面にも共通しているといえるでしょう。
つまり、シュタイナーが「薔薇十字」の2番目の条件として述べた
「他者の意志にではなく、認識に働きかけること」は、
医師、教師、カウンセラーなど、
「専門家」や「指導者」として
他者が抱える問題に向き合う人たちすべてに
共通して求められる基本姿勢なのです。
この薔薇十字の二つの条件においては、
第1の条件が、第2の条件の前提になっています。
第1の条件とは、
自分に降りかかってくることがらに対して、
「問いを持ち続けること」。
それはすなわち、自分の運命に対して
「認識を求める姿勢」で向き合うということです。
自分の運命の意味を知ろうとする態度は、
自分の人生に対する主体性、
自分の人生の主人公として生きようとする意志につながっています。
自分の運命を、自分自身で意味づけることができたとき、
その人は、自分の人生に対して、責任をもって向き合うことができます。
この「意味づけ」は、人生の当事者自身によってしかなされえないことです。
霊的な指導者が、「あんたの人生の意味は…」と言ったとしても、
それは本当の意味づけにはならないのです。
そして、この「自分の人生への態度」が、
第2の条件である、「他者への関わり方」の前提になっているのです。
☆ ☆ ☆
錬金術師・魔術師であり、
近代医学の祖ともされるパラケルススが、
「最高の薬は、医師のなかのアルカヌムである」と言っています。
アルカヌムというのは、「秘密奥義」とか「秘薬」と訳され、
その複数形の「アルカナ」は、
タロットの「大アルカナ」と「小アルカナ」につながるのですが、
僕は、パラケルススのいうアルカヌムは、
一人ひとりの「自我」のことだと思っています。
シュタイナーは、医術には二つの源泉があると言っています。
一つは「エーテル(生命力)」。
もう一つは「自我」です。
この意味での「自我」は、シュタイナーにとって
「教育」の源泉でもありました。
ただし、この「自我」は、
「自分の自我を他者に押し付ける」ことによっては、
「秘薬」としては作用しません。
その場合、自我は「破壊」作用しかもたらしえないのです。
自我が治療的に働くためには、
「私」自身が自分の人生に対して、
問いを持ち続け、認識を求め続けなければならない。
つまり、医師であれ、教師であれ、
あるいは霊能者であれ、
およそ人類に対して「治療者」であろうとする人は、
自分自身が問いを持ち、
自分自身の運命に対して、認識を求めて格闘していなければならないのです。
そして、そこに働く「自我」だけが、
シュタイナーのいう「地下の通路」を通って、
教師であれば、子どもたちの自我に、
医師であれば、患者の自我に
治療的な作用を及ぼすのです。
自分が真剣に生きている人は、
他者の人生に対しても真剣に向き合うことができます。
その根底にあるのが、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念なのです。
たとえ口調が厳しかったり乱暴であったりしても、
その人が自分に対して、深いところで敬意をもっているかどうかは、
相談者の側でも感じられます。
霊能者が本物であるかどうか。
それはその人の「見える」ということよりも、
その人自身がどう生きているか、
その人の「自我」のあり方によって決まってくる。
それが、僕がいま考える
「霊能者の見分け方」です。