入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (10)

2007-09-25 14:26:37 | 霊学って?

10.
意識は、物質体とエーテル体がもたらす活動の継続によっては発生しない。
これらの二つの「体」は、その活動を零点にまで、
いやそれ以下にまで下げなければならない。
そのとき初めて、意識が働くための「場が発生」する。
物質体とエーテル体は、意識を生み出すのではなく、
精神のための土台を提供する。
この土台の上で、精神が地球生活における意識を生み出すのである。
地球の人間は、自分が立脚すべき地面を必要とする。
精神もまた、地球では自己を展開するための物質的基盤を必要とする。
しかし、宇宙空間の惑星は、自分の位置を確保するために地面を必要とはしない。
同様に、精神の直観が、感覚を通して物質に向けられるのではなく、
自分自身の力を通して精神的なものに向けられるのであれば、
その精神にとって、物質の基盤は必要ではない。
物質の基盤がなくとも、その精神は自分自身のなかで、
自らの意識活動を活発にすることができる。

10.
Das Bewußtsein entsteht nicht durch ein Fortführen derjenigen Tätigkeit,
die aus dem physischen und dem Ätherleib als Ergebnis kommt,
sondern diese beiden Leiber müssen mit ihrer Tätigkeit auf den Nullpunkt kommen,
ja noch unter denselben, damit „Platz entehe“ für das Walten des Bewußtseins.
Sie sind nicht die Hervorbringer des Bewußtseins,
sondern sie geben nur den Boden ab, auf dem der Geist stehen muß,
um innerhalb des Erdenlebens Bewußtsein hervorzubringen.
Wie der Mensch auf der Erde einen Boden braucht, auf dem er stehen kann,
so braucht das Geistige innerhalb des Irdischen die materielle Grundlage,
auf der es sich entfalten kann.
Und so wie im Weltenraum der Planet den Boden nicht braucht,
um seinen Ort zu behaupten,
so braucht der Geist, dessen Anschauung nicht durch die Sinne auf das Materielle,
sonden durch die Eigentätigkeit auf das Geistige gerichtet ist,
nicht diese materielle Grundlage,
um seine bewußte Tätigkeit in sich rege zu machen.


私たちの多くは、「死」というものについて、
「死んだら、すべてが終わりなのか?」
「この私という意識も、肉体とともに消えうせてしまうのか?」
と考えます。

脳が損傷を受ければ、記憶が失われたり、
性格が変化することもあります。
肉体の疲労とともに、私たちは眠り込み、意識を失います。
結局、私たちの意識は
肉体の状態とともに変化し、
肉体が滅ぶとともに消滅するように感じられます。

私たちの「実感」としては
肉体や生命活動が意識を成立させていると感じられるのです。

しかし、シュタイナーは、
肉体(物質体)や生命活動からは、意識は発生しないと述べています。
物質体と生命体(エーテル体)の活動レベルがゼロ以下に落ち込んだとき、
初めて意識の発生する余地(場)が出てくるというのです。

この「場」とは、「感覚器官」と神経系のことと言ってよいと思います。
神経細胞はいわゆる「非再生系細胞」で、再生されることなく老化していきます。
つまり、生命体の働きである再生作用は、
誕生後、神経細胞においては「抑制」されているといえます。
ただし、胎児期に神経細胞を生み出し、その後もそれを維持するのは生命体です。
また、神経細胞も再生されうるという研究もありますが、
これは言い方を変えれば、
神経細胞の生命体は抑制されているだけであり、
その抑制を外せば、また再生することもありうると言えるかと思います。

そして、眼も、耳も、皮膚も、およそすべての感覚器官は、
自分自身を感じることはありません。
自分を無にして、ひたすら対象を知覚するのが感覚器官です。
神経系と感覚器官があることで、
人間は世界を感じ、そして感じることのなかで「意識」をもつことができます。

もちろん、神経系と感覚器官は、物質体と生命体によって成り立っています。
その意味で、物質体と生命体は、
一人ひとりの意識が展開するための「場」を提供しているのです。

しかし、物質体と生命体が提供する「場」に展開される意識は、
この地球の意識であり、
地球上の「物質界」を知覚する意識でしかありません。
地球では、感覚によって物質界を知覚することが、
大地を踏みしめて立つことにつながるのです。

しかし、宇宙では、
惑星が惑星であるために、大地を踏みしめる必要ありません。

精神は、本来、宇宙における惑星のようなあり方をしています。
精神は、物質の地面に支えられなくても、
自分で自分を支えることができるものなのです。

人間の意識は、
肉体の感覚器官を通して世界を知覚しているために、
肉体が滅び、それとともに感覚器官も滅んでしまえば、
意識までも消滅するかのように感じられます。

しかし、本来の精神は、
肉体の感覚器官がなくても、意識をもつことができるのです。
この第10項では、
精神が本来の自己を体験する可能性が示されています。
感覚を通して、物質を知覚する代わりに、
自分自身の力を通して、精神的なものを知覚するということです。
人間は、自分自身が精神であり、
精神的なものを知覚するとは、
自己を知覚すること、と言い換えてもよいでしょう。

自分自身を知覚する精神は、
物質の基盤なしに、
つまり外界を知覚する感覚器官なしに、
自分で自分を支えつつ活発な意識活動を展開できるというのです。

そのようにして、私たちのまなざしは、
自己というものに向かうことになります。