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ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 6120

2022-01-25 10:58:27 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6120 アンパンチ! 

6121 詭弁

 

骨董屋は、騙されたふりをして、平然と贋物を売りつける。

 

<最後に亡き吉野さんの霊に一言申します。この作品にたいして、またこの作品に凝集されているようなあなたの思想にたいして「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびの生えた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。

(丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」)>

 

「霊」の返事はない。丸山の空想する返事もない。「霊」が冗談なら、「回想」も冗談だろう。全体的に冗談口調なのが気に障る。

〈「作品に凝集されているような」~「思想」〉は意味不明。「ような」は怪しい。

丸山らの敵は「利いた風の口を利く輩」と呼ばれることに決まっているらしい。

 

<私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。

(丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』「増補版への後記」)>

 

丸山は賭博師でもあったようだ。

 

<選択肢は、本当に二つしかないのでしょうか。つまり、戦後民主主義を選択しなければ、大日本帝国に戻るしかないのかということです。

(香西秀信『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』)>

 

香西は、他にも丸山の「詐術」(『レトリックと詭弁』)を挙げて批判している。

 

<地政学も、いうまでもなく、いくつかの仮説群から構成される地理科学、もしくは政治科学の一分野であるが、そのテーゼは、確かに国際的な政治戦略を策定する上で強力な武器として役立つ。したがって、地政学を知る者と、知らない者とでは、国際政治学への理解度において雲泥(うんでい)の差が生じてくるであろう。

それゆえ、人間という愚かな生きものに対する洞察(どうさつ)の浅い軽薄な人間は、地政学のとりこになりやすい。「たとえ、地政学が虚構論理であろうとも、これに賭(か)ける」などという者が出現する。これが戦前のドイツや日本の一部の指導者がおちいった陥穽(かんせい)なのである。戦後になると丸山真男氏のように、「たとえ戦後民主主義が虚構であろうとも、それに賭ける」という人が現われた。いずれも、科学の仮説性をわきまえていない小善人たちの自己陶酔というべきであろう。

(倉前盛通『悪の論理』「地政学とは何か」)>

 

この「虚構」は「虚妄」が適当か。

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6120 アンパンチ! 

6122 バベルの塔

 

人それぞれ、善悪に関する考えが違うのに、どうして仲良くできよう。

 

<ノアの大洪水後、人々が築き始めた天に達するような高塔。神は人間の自己神格化の傲慢を憎み、人々の言葉を混乱させ、その工事を中止させたという。

(『広辞苑』「バベルの塔」)>

 

人は、どんなとき、ある種の人を排除したくなるのか。話が通じないときだ。

 

<ここにきて、おじさんは「「人間分子の関係」は、この言葉のあらわしているように、まだ物質の分子と分子との関係のようなもので、人間らしい人間関係にはなっていない」と正論を語っています。なぜもっと早くにそのことをコペル君に伝えなかったのかと思いますが、それはおじさん自身がうまく理解できていない事柄だったからです。というのもおじさん自身、「人間らしい人間関係」がどういうものであるかうまく言い当てることができていないからです。おじさんは確かに「人間は、いうまでもなく、人間らしくなくっちゃあいけない。人間が人間らしくない関係の中にいるなんて、残念なことなんだ。」とも言っていましたが、そのうまくわからない原因について、「これは、人類が今まで進歩して来て、まだ解決の出来ないでいる問題の一つなんだ」というふうに、人類の課題にしてしまっています。

私は、それは人類の課題なのではなく、おじさんの思考法の欠点から来ているのだ、と指摘したいと思います。その欠点とは、「人間の偉大さ」を「上から見る目」にしか置けていない、という欠点です。

(村瀬学『『君たちはどう生きるか』に異論あり! 「人間分子観」について議論しましょう』「三 ニュートンの林檎と粉ミルク――「網目の法則」は「取り換え」がきく人間関係」)>

 

Kだったら、〈媚びる君の「おじさん」も村瀬のおじさんも、〈「この人間らしいという言葉のうちに」~「自分の弱点の凡てを隠している」(下三十一)〉と一蹴することだろう。

おじさんたちが認めているとおり、「人間らしい人間関係」という言葉は意味不明なのだから、「人間は、いうまでもなく、人間らしくなくっちゃあいけない」という文は、「いうまでもなく」無意味で、これは「解決の出来ないでいる問題」ではなく、どんな「問題」でもなくて、だから、「うまくわからない原因」などといったものもない。「課題」はないのだから「思考法」もない。「人間の偉大さ」などにも、確かな意味はない。

 

<人間は、人間的という言葉に呪縛されてはならない。人間の悪を非人間的と呼んで、人間から切り離し、自分を人間的と呼んで、それとは無縁なものと見なしてはならない。

(なだいなだ『人間、この非人間的なもの』「それでも、私は人間」)>

 

『君たちはどう生きるか』に、確かな意味はない。だから、「異論」は無駄口。

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6120 アンパンチ! 

6123 『向上心』と『人はなんで生きるのか』

 

Kは、「向上心」の意味を、他の人々と共有していなかったらしい。Sは、「向上心」のK的意味を知らなかった。知らないということを軽視していた。Kは、「向上心」のK的意味がSに知られていないことに気づかなかった。こうした反省がSにはできない。

 

<包容力が豊かで健全な人たちはみな、希望に満ちていると同時に朗らかである。彼らが示した手本には伝染力があり、近づいてその影響を受けた人たちを元気づけ明るくする。

この朗らかさの基礎となるのは、愛と希望と忍耐力である。

愛は愛を呼び覚まし、慈悲(じひ)を生む。愛は惜しみなくやさしくそして誠実であり、善悪を見きわめるものである。愛は物事を明るく変え、常に幸福を追求する。愛は明るい考え方を育て、朗らかな雰囲気(ふんいき)の中に宿(やど)る。

愛は無料だが、その価値ははかり知れない。愛は愛を持つ者を祝福し、そうでない人たちの胸にもあり余るほどの幸福を育てるからである。悲しみさえも愛があれば喜びにつながり、流す涙も甘い露(つゆ)の味がする。

(サミュエル・スマイルズ『向上心』「第1章 自分を大きく育てる」)>

 

「朗らかさ」の足りない憂い顔の「君たち」は混乱している。

 

<「今こそわたしは、ひとが自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、それはただ人間がそう思うだけにすぎなくて、じっさいはただ、愛の力だけによって生きているのだということが、わかりました。愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから」

(レフ=ニコラエビチ・トルストイ『トルストイ民話集 人はなんで生きるか』)>

 

敵を愛することができない「君たち」の善意は独裁を準備する。

 

<なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ

わからないまま おわる そんなのはいやだ

わすれないで ゆめを こぼさないで なみだ

だから きみはとぶんだ どこまでも

そうだ おそれないで みんなの ために

あいと ゆうきだけが ともだちさ

(作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし『アンパンマンのマーチ』)>

 

「あいと ゆうき」が足りないくせに「ともだち」収集が趣味の「君たち」は、ばいきんまんと一緒なんだよ。一生、ドキンちゃんに嫌われてろ。

アンパンチ! 

(6120終)


ネンゴロ二十世紀 1906・1907

2022-01-24 16:32:11 | 学習

   ネンゴロ二十世紀

1906 人の苦を無に、社会党。(日本社会党結成)

1906 得を路線で、満鉄設立。(南満州鉄道株式会社設立)

1906 人、クレーム、ドゥーマ。(ドゥーマ開設)

1907 得を並んで、三国協商。(三国協商成立)

1907 得を並んで、日露協商。(日露協商成立)

1907 貧苦をなめさす日韓協約。(第三次日韓協約)

1907 得を並んで、英露対独。(英露協商)

1907 貧苦を内通、ハーグ事件。(ハーグ密使事件)

(終)

 

 

 


御一人様なら来てよね

2022-01-23 23:28:56 | ジョーク

   御一人様なら来てよね

私 淋しいの

知らない

意地悪

本当にひとりよ

ひとりよ ひとりよ ひとりよ ひとり

やめろと言われても 不出来

ひとりよ ひとりよ ひとりよ ひとり

もうどうにもとまらない

ひとりよ ひとりよ ひとりよ ひとり

困っちゃうな

ひとりよ ひとりよ ひとりよ ひとり

うっせえ うっせえ うっせえ うっせえ

だよね だよね だよね だよね

ひとりよ ひとりよ ひとりよ ひとり

(強制終了)


夏目漱石を読むという虚栄 第六章 6110

2022-01-22 00:41:03 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

<「どうです、王さま。ろうやの中では、なにをしても自由です。なにをしなくても自由です」

(寺村輝夫『王さまきえたゆびわ』)>

 

第六章

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6110 『君たちはどう生きるか』

6111 『私たちの望むものは』

 

『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)というリベラリストの免罪符みたいなものが漫画になって、よく売れたらしい。タイトルからおかしい。〈怎麽生(そもさん)〉の和訳か。

「どう生きるか」の真意は〈こう生きろ〉だ。あからさまに、〈君たちはこう生きろ〉と命令されたら、「君たち」は賛成、反対が言える。また、〈言われた通り、こう生きたら失敗したので、責任を取ってください〉と、クレームをつけることもできる。

「君たちはどう生きるか」という問題に対する正しい解答の形式は、〈私たちはこう生きる〉というものだ。〈こう〉がどうでも、集団主義的な答え方しかできない。この形式を無視して、〈私だけはこう生きる〉と答えたら、話にならない。〈こう〉がどうであれ、ナンセンスだ。日本語を重んじるなら、解答者は集団主義者にならざるをえない。汚いトリックだ。

 

<私たちの望むものは 決して私たちではなく

私たちの望むものは 私であり続けることなのだ

(作詞・作曲 岡林信康『私たちの望むものは』)>

 

意味不明の問題に答えてしまう人は、何主義者であれ、混乱している。単に愚かなのではない。〈「向上心」のある「馬鹿」〉だ。Kの同類。

君が〈私たち〉という主語を用いるのなら、君は「君たち」の代表者などを紹介しなければならない。社員の失敗は社長が責任を取る。さて、「君たち」の代表者は君の失敗の責任を取ってくれるのか。そもそも、どうやって代表者を決めたのか? 

君が「君たち」の代表者だとしよう。そして、「君たちはどう」かして「生きる」と決めたとしよう。では、義勇軍を作って戦地で死ぬのか。赤紙を燃やして拷問されて死ぬのか。暴君を殺して死刑になるのか。だったら、〈「どう」死ぬか〉という問題になる。

When 平和な時代? 存立危機事態? 就職まで? 定年退職まで? 不定? 

Where 大日本帝国? 大東亜共栄圏? 普通の国なら、どこへでも移住? 

Who 「君たち」は少国民だが、女子は入るのか。無理に日本人にされた人は? 

What 「生きる」とは、何を「どう」することなのか? 

Why なぜ「生きる」のか。「君たち」に共通の目的や理想、敵、障害、その他は何か。

How 「どう」って、たとえば、どう? 目的が違っても方法さえ同じなら、大丈夫か。

 

<私たちの望むものは あなたと生きることではなく

私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ

(作詞・作曲 岡林信康『私たちの望むものは』)>

 

私の望むことは「君たち」を殺すことなのだ。「君たち」は「良い子でいたい お利口さん」(岡林信康『今日を越えて』)だ。ただし、実際に皆殺しにすることはできない。できたとしても、「君たち」のイメージが頭の中に巣食っていたら、何にもならない。逆に言うと、「君たち」のイメージをごみ箱に入れることができれば十分なのだ。黙殺! 

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6110 『君たちはどう生きるか』

6112 日馬富士と貴ノ岩

 

『君たちはどう生きるか』は、あたかも全体主義に対する最後の防波堤だったように誤読されている。だが、実際には、全体主義に対する白旗なのだ。

あらすじ。学内の旧秩序を後輩に強制する黒川たちが新秩序を提唱する北見たちを殴る。本田は傍観。北見たちの父兄がモンスター・ピュアレンツになって学校に抗議し、黒川たちは「譴責」を受ける。本田は北見らのシンパにさせてもらう。そして、おしまい。

この話は、〈真面目な日馬富士が生意気な貴ノ岩を殴った〉という話に似ている。互いの言い分をちゃんと聞いてやって、冷静に吟味しないと、真相は解明できない。ところが、語り手は、主人公の見方でしか語らない。依怙贔屓をしている。

黒川は北見に服従したのか。あるいは、両者は仲直りをして、仲間になったのか。以後、学内で争い事はなくなったのか。そういうことがきちんと語られていない。だから、物語として未完成だ。つまり、確かな意味がない。こんな中途半端なものを読んで、何事かを悟ったつもりになるとしたら、「君たち」はおっちょこちょいだ。

本田は、北見と黒川の対立に関わらなかった。そのことは、偉くもないが、悪くもない。ところが、彼は「ほんとに、ほんとにいくじがなかった」と恥じて、死にたくなる。ただし、反省はしない。なぜ、「いくじ」がなかったのか。ないのが普通だからだ。〈浦川を守るという口実で北見は黒川と対立する〉という物語に、本田の出番はなかった。彼は、そのことがまったく反省できていない。イジメは、学校という閉鎖的な社会だから起きた。そのことを、作中の誰も指摘しない。学校がなければ、あるいは、学校が社会に対してもっと開かれていれば、生徒間の対立の質は違っていたろう。

当時の国際情勢の比喩として読んでみよう。黒川は米国で、手下たちは英国、中国、オランダなどの象徴になる。北見は大日本帝国で、いじめられっ子の浦川は東南アジアの植民地、水谷は満州国の象徴で、本田は従軍記者。モンスター・ビュアレンツは神風か。この異本は大東亜戦争肯定論になってしまう。

二十一世紀に当てはめれば、黒川は北朝鮮だ。その仲間はロシアと中国。浦川は南朝鮮(サウス・コリア)で、北見は米国。水谷は自衛隊トップ。本田は、マスごみコメンテーター。モンスター・ピュアレンツは国連。この異本の作者は、北朝鮮の暴走を期待している。

『君たちはどう生きるか』には種本があったようだ。

 

<ある日、僕がうんどう場へ(ママ)出て見ると、中村君が泣いてゐました。聞けば級のものが二三人で、中村君を生(なま)いきだといつて、いぢめたのださうです。

僕は

「君しつかりしたまへ。日本の男は泣くものではない。」

といつて、力をつけてやりました。

(『国語読本巻五 第二課』*)>

 

偉そうな「僕」は「中村君」をさらに「いじめた」のだが、その自覚がない。

 本田は、北見たちにいじめられるのが怖くて交際を復活したのに違いないのだ。

 

*『いま日本人に読ませたい「戦前の教科書」』(日下公人)より再引用。

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6110 『君たちはどう生きるか』

6113 八紘一宇

 

『君たちはどう生きるか』の原典は『坊っちゃん』だ。北見が「山嵐」で、黒川が「赤シャツ」に相当する。ただし、態度の硬軟は逆。浦川は「うらなり」で、ウラ繋がり。本田は「五分刈り」で、共通点は「弱虫」のところ。「マドンナ」は、かつ子だ。

本田は吊るし上げを食うのが怖くて、勝利者に尻尾を振る。許された彼は、もう、反省ができなくなってしまう。そして、意味不明の総括をする。

 

<僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』「十.春の朝」)>

 

「すべての人」に媚びるから、媚びる君は身動きが取れなくなるのだ。「おたがいに」でなければ、一方的に「よい友だちであるような」関係もあるのか。「よい友だち」とは、具体的にどんな関係か。「いけない」と誰が決めたのか。「それ」はどれ? 

 

<「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国、東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「八紘一宇」)>

 

口先だけの〈多様性〉や本田の「そういう世の中」の思潮は、八紘一宇と区別できない。

 

<「世界は一家、人類はみな兄弟、仲よくしましょう……」

あれにはじめて接した時、私はきもをつぶした。異次元にでも飛びこんだような気分におちいった。いつ中止になるかわからないので、注のかわりに書いておく。競艇を主催する日本船舶振興会の流しているものである。

(星新一『できそこない博物館』「薬など」)>

 

『君たちはどう生きるか』ブームは、私には「異次元」の出来事のようだ。

友愛と「進歩」は、両立するのか。両立しないとき、どちらを優先させるのか。

 

<コンドルセの《人間精神の進歩》(1795年)がそのマニフェストである。しかし技術と産業のもたらした人間疎外や公害、科学知識の普及に伴う生命軽視の風潮や道徳的危機は、進歩の観念に深い疑いをだかせるにいたっている。

(『百科事典マイペディア』「進歩」)>

 

「君たち」は、イエスや釈迦よりも「進歩して」いるつもりなのか。

(6110終)


『冬のソナタ』を読む 「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31) 2 スケッチブック

2022-01-20 14:37:52 | 評論

   『冬のソナタ』を読む

       「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31)

2 スケッチブック

見たいものは、見ようとすると見えない。見まいとするとき、見える。

 

<サンヒョクは十年間、ユジンだけを見つめて生きてきた。ところが、ユジンはいつもひとりではなくふたりだった。見えるユジンと、眼には見えないもうひとりのユジン。

(上p19)>

 

ユジンには見えないもうひとりのサンヒョクがいる。それを彼自身が隠している。

 

<サンヒョクはたまに、こう思ったことがある。高校生のころ、仲間と一緒に山のロッジに遊びに行き、ユジンが道に迷ったときにユジンを発見したのがジュンサンではなく、自分だったらどうなっていたのだろうと……。自分が先にユジンを発見していれば、そうなっていればユジンは自分のことを愛したのではないのだろうか。

(上p22)>

 

サンヒョクが先にユジンを発見していれば、彼はチュンサンになっていたろう。見えるサンヒョクは、誰にも愛されない。チュンサンは、誰にも見えないもう一人のサンヒョクだ。

 

<その日の夜、ユジンはジュンサンを描いたスケッチブックを燃やした。ジュンサンは炎の中でも相変わらずの微笑みを浮かべていた。長年大切にしていた彼の姿を燃やしてしまえば、自分の記憶の中からも消えそうだった。

(上p22)>

 

炎の儀式によって、ユジンはチュンサンを蘇らせてしまった。

「記憶の中」から外へ。

(続)