夏目漱石を読むという虚栄
<「どうです、王さま。ろうやの中では、なにをしても自由です。なにをしなくても自由です」
(寺村輝夫『王さまきえたゆびわ』)>
第六章
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6110 『君たちはどう生きるか』
6111 『私たちの望むものは』
『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)というリベラリストの免罪符みたいなものが漫画になって、よく売れたらしい。タイトルからおかしい。〈怎麽生(そもさん)〉の和訳か。
「どう生きるか」の真意は〈こう生きろ〉だ。あからさまに、〈君たちはこう生きろ〉と命令されたら、「君たち」は賛成、反対が言える。また、〈言われた通り、こう生きたら失敗したので、責任を取ってください〉と、クレームをつけることもできる。
「君たちはどう生きるか」という問題に対する正しい解答の形式は、〈私たちはこう生きる〉というものだ。〈こう〉がどうでも、集団主義的な答え方しかできない。この形式を無視して、〈私だけはこう生きる〉と答えたら、話にならない。〈こう〉がどうであれ、ナンセンスだ。日本語を重んじるなら、解答者は集団主義者にならざるをえない。汚いトリックだ。
<私たちの望むものは 決して私たちではなく
私たちの望むものは 私であり続けることなのだ
(作詞・作曲 岡林信康『私たちの望むものは』)>
意味不明の問題に答えてしまう人は、何主義者であれ、混乱している。単に愚かなのではない。〈「向上心」のある「馬鹿」〉だ。Kの同類。
君が〈私たち〉という主語を用いるのなら、君は「君たち」の代表者などを紹介しなければならない。社員の失敗は社長が責任を取る。さて、「君たち」の代表者は君の失敗の責任を取ってくれるのか。そもそも、どうやって代表者を決めたのか?
君が「君たち」の代表者だとしよう。そして、「君たちはどう」かして「生きる」と決めたとしよう。では、義勇軍を作って戦地で死ぬのか。赤紙を燃やして拷問されて死ぬのか。暴君を殺して死刑になるのか。だったら、〈「どう」死ぬか〉という問題になる。
When 平和な時代? 存立危機事態? 就職まで? 定年退職まで? 不定?
Where 大日本帝国? 大東亜共栄圏? 普通の国なら、どこへでも移住?
Who 「君たち」は少国民だが、女子は入るのか。無理に日本人にされた人は?
What 「生きる」とは、何を「どう」することなのか?
Why なぜ「生きる」のか。「君たち」に共通の目的や理想、敵、障害、その他は何か。
How 「どう」って、たとえば、どう? 目的が違っても方法さえ同じなら、大丈夫か。
<私たちの望むものは あなたと生きることではなく
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ
(作詞・作曲 岡林信康『私たちの望むものは』)>
私の望むことは「君たち」を殺すことなのだ。「君たち」は「良い子でいたい お利口さん」(岡林信康『今日を越えて』)だ。ただし、実際に皆殺しにすることはできない。できたとしても、「君たち」のイメージが頭の中に巣食っていたら、何にもならない。逆に言うと、「君たち」のイメージをごみ箱に入れることができれば十分なのだ。黙殺!
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6110 『君たちはどう生きるか』
6112 日馬富士と貴ノ岩
『君たちはどう生きるか』は、あたかも全体主義に対する最後の防波堤だったように誤読されている。だが、実際には、全体主義に対する白旗なのだ。
あらすじ。学内の旧秩序を後輩に強制する黒川たちが新秩序を提唱する北見たちを殴る。本田は傍観。北見たちの父兄がモンスター・ピュアレンツになって学校に抗議し、黒川たちは「譴責」を受ける。本田は北見らのシンパにさせてもらう。そして、おしまい。
この話は、〈真面目な日馬富士が生意気な貴ノ岩を殴った〉という話に似ている。互いの言い分をちゃんと聞いてやって、冷静に吟味しないと、真相は解明できない。ところが、語り手は、主人公の見方でしか語らない。依怙贔屓をしている。
黒川は北見に服従したのか。あるいは、両者は仲直りをして、仲間になったのか。以後、学内で争い事はなくなったのか。そういうことがきちんと語られていない。だから、物語として未完成だ。つまり、確かな意味がない。こんな中途半端なものを読んで、何事かを悟ったつもりになるとしたら、「君たち」はおっちょこちょいだ。
本田は、北見と黒川の対立に関わらなかった。そのことは、偉くもないが、悪くもない。ところが、彼は「ほんとに、ほんとにいくじがなかった」と恥じて、死にたくなる。ただし、反省はしない。なぜ、「いくじ」がなかったのか。ないのが普通だからだ。〈浦川を守るという口実で北見は黒川と対立する〉という物語に、本田の出番はなかった。彼は、そのことがまったく反省できていない。イジメは、学校という閉鎖的な社会だから起きた。そのことを、作中の誰も指摘しない。学校がなければ、あるいは、学校が社会に対してもっと開かれていれば、生徒間の対立の質は違っていたろう。
当時の国際情勢の比喩として読んでみよう。黒川は米国で、手下たちは英国、中国、オランダなどの象徴になる。北見は大日本帝国で、いじめられっ子の浦川は東南アジアの植民地、水谷は満州国の象徴で、本田は従軍記者。モンスター・ビュアレンツは神風か。この異本は大東亜戦争肯定論になってしまう。
二十一世紀に当てはめれば、黒川は北朝鮮だ。その仲間はロシアと中国。浦川は南朝鮮(サウス・コリア)で、北見は米国。水谷は自衛隊トップ。本田は、マスごみコメンテーター。モンスター・ピュアレンツは国連。この異本の作者は、北朝鮮の暴走を期待している。
『君たちはどう生きるか』には種本があったようだ。
<ある日、僕がうんどう場へ(ママ)出て見ると、中村君が泣いてゐました。聞けば級のものが二三人で、中村君を生(なま)いきだといつて、いぢめたのださうです。
僕は
「君しつかりしたまへ。日本の男は泣くものではない。」
といつて、力をつけてやりました。
(『国語読本巻五 第二課』*)>
偉そうな「僕」は「中村君」をさらに「いじめた」のだが、その自覚がない。
本田は、北見たちにいじめられるのが怖くて交際を復活したのに違いないのだ。
*『いま日本人に読ませたい「戦前の教科書」』(日下公人)より再引用。
6000 『それから』から『道草』まで
6100 『それから』の「減らず口」
6110 『君たちはどう生きるか』
6113 八紘一宇
『君たちはどう生きるか』の原典は『坊っちゃん』だ。北見が「山嵐」で、黒川が「赤シャツ」に相当する。ただし、態度の硬軟は逆。浦川は「うらなり」で、ウラ繋がり。本田は「五分刈り」で、共通点は「弱虫」のところ。「マドンナ」は、かつ子だ。
本田は吊るし上げを食うのが怖くて、勝利者に尻尾を振る。許された彼は、もう、反省ができなくなってしまう。そして、意味不明の総括をする。
<僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。
(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』「十.春の朝」)>
「すべての人」に媚びるから、媚びる君は身動きが取れなくなるのだ。「おたがいに」でなければ、一方的に「よい友だちであるような」関係もあるのか。「よい友だち」とは、具体的にどんな関係か。「いけない」と誰が決めたのか。「それ」はどれ?
<「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国、東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「八紘一宇」)>
口先だけの〈多様性〉や本田の「そういう世の中」の思潮は、八紘一宇と区別できない。
<「世界は一家、人類はみな兄弟、仲よくしましょう……」
あれにはじめて接した時、私はきもをつぶした。異次元にでも飛びこんだような気分におちいった。いつ中止になるかわからないので、注のかわりに書いておく。競艇を主催する日本船舶振興会の流しているものである。
(星新一『できそこない博物館』「薬など」)>
『君たちはどう生きるか』ブームは、私には「異次元」の出来事のようだ。
友愛と「進歩」は、両立するのか。両立しないとき、どちらを優先させるのか。
<コンドルセの《人間精神の進歩》(1795年)がそのマニフェストである。しかし技術と産業のもたらした人間疎外や公害、科学知識の普及に伴う生命軽視の風潮や道徳的危機は、進歩の観念に深い疑いをだかせるにいたっている。
(『百科事典マイペディア』「進歩」)>
「君たち」は、イエスや釈迦よりも「進歩して」いるつもりなのか。
(6110終)