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ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1340

2021-02-08 17:59:57 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1341 「これが先生であった」

 

Sの「遺書」を読んだ後のPは、次のような感想を抱く。

 

<人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐(ふところ)に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」六)>

 

「人間」と「人」は別らしい。「人間」は〈人類〉などの類義語だろう。いわゆる人間嫌いだって、特定の誰かを「愛し得る人」だろう。「愛せずにはいられない人」は〈愛せる人〉ではない。〈愛せない人〉なのだ。愛したいという欲求はあるが、愛する能力が欠如している。そうした真相を隠蔽しつつ伝達しようとして変になった言葉だ。「手をひろげて抱き締める事」は、抱き締める対象が何であれ、誰にもできない。「これ」は雑。

Pは、〈自分を愛してくれる「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて」自分に愛されたがって「自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて」招き入れてから「抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった」〉という真意を隠蔽している。隠蔽しながら、その気分をQに伝達しようとしている。ただし、そういう文芸的表現になっているわけではない。したがって、虚偽の暗示を試みているのは作者だということになる。

Sは〈愛されたい〉という強烈な願い、被愛願望を抱いていた。ププッピドゥー。

 

<定理三 受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情でなくなる。

(スピノザ『エティカ』「第五部 知性の能力あるいは自由について」)>

 

〈甘える〉は能動で、〈好かれる〉は受動。Sは、誰かに甘えたかったのではない。好かれたかったのだ。『こころ』の作者は、「受動の感情」に関して「明瞭・判明な観念」を文芸的に表現することができず、個人的な「混乱した観念」(『エティカ』)を露呈した。

 

<傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止(よ)せという警告を与えたのである。他(ひと)の懐(なつ)かしみに応じない先生は、他(ひと)を軽蔑(けいべつ)する前に、まず自分を軽蔑していたものと見(ママ)える。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」四)>

 

「傷ましい」は、〈イタすぎる〉みたいだ。「近づこう」の実態は不明。「価値」は「近づこうとする人間」が決めることだろう。「警告を与えた」という事実はない。「警告」は勧誘の裏返しだろう。「である」は〈であろう〉が妥当。

「他(ひと)の懐(なつ)かしみに」の一文は、〈「先生」は「応じない」〉と、〈「先生」が「応じない」わけ〉と〈語り手Pには「先生」が「自分を軽蔑していたものと見える」〉の混交だ。語り手Pは、〈SはPを「軽蔑していた」のではない〉という虚偽の暗示に失敗した。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1342 常識としての美談

 

Pは、危篤の「父」を捨てて上京する。その非常識な行為を正当化するのは難しい。だが、〈親は息子が師父の傍にいることを望むものだ〉という前提があれば、どうだろう。

国定教科書に、次のような物語が載っていたそうだ。

 

<藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差し出していたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。ところが、母は、

「あなたは学問をするために生まれて来(ママ)た人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」

と、薬も受け取らず、家にもいれてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。

母に諭(さと)され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。

(渡部昇一『自分の品格』)>

 

「藤樹」は中江藤樹。

太平洋戦争中の映画『君こそ次の荒鷲だ』(保積利昌監督)では、重病の父を見舞うために帰省した少年が父に追い返される。『大空のサムライ』(坂井三郎)にも、父が危篤なのに「カエルニオヨバズ」と息子に打電する軍国の母の話が出てくる。

 

<無遠慮に云うと、第一、信用していた叔父に財産を横奪されただけで、あらゆる人間に対する信用を喪うて終(しま)うというのも極端であるし、また、自己に対する信用の喪失が、自己の愛する妻をも見棄てて終わせるほど絶望的だというのも極端である。――思うに、リアリストたる漱石先生も、未だ『心』にあっては、全然観念的な殻を破りえなかったのであろう。

(赤木桁平『夏目漱石』)>

 

「極端」とは違う。「自分が信用出来ないから、人も信用でき(ママ)ない」(上十四)というのは意味不明なのだ。意味不明だから、赤木は本文を作り変えてしまったのだろう。

 

<潔癖家のアルセストが世間から嘲笑(ちょうしょう)され、訴訟事件にも敗れ、人間嫌いとなり、砂漠へのがれようとするまでの話に、社交界の花形セリメーヌ、処世術にたけたフィラントらがからむ。

(『百科事典マイペディア』「人間嫌い」)>

 

〈「遺書」の物語〉は『人間嫌い』のパクリだろう。ただし、原典は喜劇だ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1340 異本のあらすじ

1343 「自叙伝」の真相

 

『こころ』の作者は、次のような真相を隠蔽しているのかもしれない。

変な両親によって変な育てられ方をしたSは、変な少年に育った。両親の死後、同居した普通の叔父一家に甘え過ぎて、もてあまされ、故郷から追放される。

Sの叔父一家に対する失望は、両親によるネグレクトの体験の反復だろう。だが、Sにその自覚はない。あるいは、ネグレクトされたことを自分の恥のように錯覚していて、自他に対してその奇妙な羞恥心を隠蔽しようとしているのかもしれない。Sは、他の親戚にも疎まれる。なぜだろう。Sの父は精神を病んでおり、〈精神病は遺伝する〉と信じられていたからかもしれない。あるいは、病弱な父に子種がなく、Sが養子だったからかもしれない。

東京のSは、ルーム・シェアをしていて同じ大学に通う同郷の変なKをそそのかし、Kの普通の養親らに反抗させる。Kは復籍した実家からも嫌われて、孤立無援になる。仕送りは途絶え、苦学生になり、心身の健康を損なう。Sは金銭的援助を申し出ようと考えるが、どうせ断られるものと思って、何もしない。SにはKを孤立させた責任があるのだが、どうにも対処のしようがない。Kを避けるために、Sは下宿を移る。

下宿先の主は未亡人で、娘に良縁は望めない。世間知らずで一流大学の学生であるSが現れたから、いいカモだ。Sは彼女の魂胆に気づいていながら、婿になりたがる。仲人の心当たりがないので、Kを仲介役に仕立てようと企む。この企みは、S自身の女性恐怖を克服するための儀式でもあった。KはSのダミーだった。ところが、Sは、〈自分がやりたいこと〉と〈Kがやりそうなこと〉の区別ができなくなる。

静とSは婚約したのも同然の間柄だった。ところが、KYのKは、Sの友人である自分に対する静の親切を自分に対する恋慕と誤解し、舞い上がる。Sによって軟化させられていたせいもあろう。このままだと、Kは静の母から静を略奪するかもしれない。男性的魅力において、SはKに負けている。Sが唯一Kに勝っているのは財産だ。

普通に計算高い静の母は、貧乏なKを婿にしたくない。その点で彼女とSの利害は一致し、静とSの婚約が成立する。ただし、SあるいはKに対する静の思いは不明。静とSの婚約を知った後、KはSを辱めるために自殺する。「不満の意思表示としての無念腹」(千葉徳爾『切腹の話』)の変形だ。ただし、Sが無念腹的動機を推量したわけではない。作者が文芸的に暗示しているのでもない。ところが、日本人なら、何となく察せられることだ。罪は贖えても、死者を相手に恥を雪ぐことはできない。Sの自殺の動機も、何者かに対する無念腹だ。

Kの死後、静とSは結婚する。やがて、二人の結婚にまつわる真相を知る母が死ぬ。

暇そうなSに暇なPが寄りつき、ティーチャーズ・ペットになる。〈P〉は〈pet〉の頭文字。Sは誰かにオルタ―・ファクトの「自叙伝」を聞いてもらいたいと願っていたので、Pを都合のいい生徒として教育する。教育が終わり、「適当の時機」(上三十一)が来たので、「遺書」を書いた。この「時機」は、乃木の死と直接の関係はない。

推理小説なら、〈Kは子供のころからSを「馬鹿」(上三十)と呼んでいた。静はKを「馬鹿」と呼ぶ。Kは静を強姦する。SはKを殺し、自殺に見せかける。学生探偵Pは挙動不審のSの「過去を訐(あば)いて」(上三十一)みたくなる。SはPを欺くために不備な「遺書」を記し、自殺に見せかけて隠れる〉となる。『アクロイド殺人事件』(クリスティ)参照。

(1340終)

 


夏目漱石を読むという虚栄 1330

2021-02-07 21:55:28 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1330 「下 先生と遺書」のあらすじ

1331 自殺の動機は不明

 

「遺書」の間違ったあらすじが専門の事典に載っている。

 

<先生は新潟の素封家の一人息子で、二〇歳で両親を一度に失い、叔父が財産を管理していたが、信頼していた叔父に遺産を詐取されてしまった。

(『日本近代文学大事典』「夏目漱石」瀬沼茂樹)>

 

「先生」に鉤がない。「二〇歳で」は間違い。「両親を亡(な)くしたのは、まだ私の二十歳(はたち)にならない時分」(下三)だ。「ならない」は方言か。「一度に」も間違い。時間差がある。「詐取」の証拠は皆無。被害妄想かもしれないのだ。

この後、Sは二度と故郷に帰らない。両親の墓参りさえしない。変だろう。

 

<しかし下宿の娘に対する愛で、親友のKと争い、これを裏切り、死にいたらしめた。

(『日本近代文学大事典』「夏目漱石」瀬沼茂樹)>

 

「しかし」は無視。「下宿の娘」は〈「下宿の」女主人の「娘」〉の略で、静のこと。静の母は「未亡人(びぼうじん)」(下十)だった。〈「愛で」~「争い」〉は意味不明。二人が静を奪いあうわけはない。なぜなら、Kは〈Sは静を愛する〉という物語をSから聞かされていなかったからだ。しかも、〈静とKは愛しあう〉という物語は、まだ始まってもいなかった。「これ」はKか。「裏切り」は意味不明。「死にいたらしめた」なんて、とんでもない。「Kは正(まさ)しく失恋のために死んだもの」(下五十三)ですらない。「Kが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果」(下五十三)というのが真相のようだが、「私のように」がどのようにだか不明で、しかも、「結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑が(ママ)い出しました」(下五十三)と続くから、Kの自殺の動機は確定していないことになる。

 

<先生は娘と結婚し、遺産でつつましい生活をつづけながら、罪の意識にさいなまれていた。

(『日本近代文学大事典』「夏目漱石」瀬沼茂樹)>

 

「娘」は〈静の母の「娘」〉だ。Sは静母子と暮らす。マスオさんだ。妻方居住婚。「遺産で」は舌足らず。「遺産」と「つつましい」は無関係。金の話なら、〈つましい〉が適当。「つつましい」はつつまし過ぎる表現。〈引きこもりがちな〉などが適当。「ながら」は機能していない。機能させたければ、〈「罪の意識にさいなまれ」「ながら」「つつましい生活を続けて」「いた」〉が適当。「罪の意識」があるのなら、「罪滅(つみほろぼ)し」(下五十四)を続けながら生きていけない理由が不明。Sの語る「私の罪」(下五十二)の物語は空っぽ。Pの語る「一人の罪人(ざいにん)」(上三十一)も意味不明だ。

『こころ』は意味不明だから、あらすじは作り話になりがちだ。その作り話が日本語としてなっていない。惨め。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1330 「下 先生と遺書」のあらすじ

1332 詐取は被害妄想

 

Sの叔父による財産詐取事件は、怪しい。被害妄想みたいだ。

 

<ここでしかしほぼ確実にいえることは、叔父が自分を欺いていると疑うようになった彼の心の動き自体は病的であったであろうということである。というのは彼は叔父の態度の変化にある日「俄然として」「何の予感も準備もなく、不意に」気付いている。彼は叔父の態度が変化したのは、自分が変化したためであるとは考えなかった。彼は自分のことは全く棚に上げた。だからこそ叔父の態度が(ママ)「不図変に思い出した」のである。このようにふと周囲の様子が変わったということは、よく分裂病の患者が病の初期に述べることである。恐らく彼の場合もそれに似たことが起こっていたのではなかろうか。このように考えることが正しいとすると、彼が叔父に欺かれたという話は一種の妄想体験であったということになるのである。

(土居健郎『漱石の心的世界』)>

 

不図系の言葉は、他にもいろいろ出てくる。

 

<土居さんの解釈は『こゝろ』という作品から想定される事実とは合致するけれども、漱石という小説家が『こゝろ』をこのように書いたという事実とは合致しないのです。或いは同じことですが、読者が作品に読み取るものと合致しない――というのは、作者は、殊に漱石のようなすぐれた作者は、常に自分が書いていることと、読者が読み取るものの両方を意識しながら、筆を進めて行くからです。すぐれた作家では、彼が書こうとしているものと、読者の読むものは一つなのです。これがうまく行っているのが傑作なのです。

(大岡昇平『小説家夏目漱石』)>

 

「還元的一致」(N『文芸の哲学的基礎』)みたいなことを、大岡はへたくそに述べている。しどろもどろ。「還元的一致」も意味不明だが、大岡の「合致」はもっとひどい。

「作品から想定される事実」は意味不明。「という小説家」は意味不明。「このように書いたという事実」は意味不明。二つの「合致」の実態は不明。ひどい悪文だ。

「同じ」かどうか、私にはわからない。「読者が作品に読み取るもの」は意味不明。〈N=「すぐれた作者」〉という前提を、私は信じていない。「常に」は力み過ぎ。「自分が書いていること」と、自分の想像する「読者が読み取るものの両方を意識しながら、筆を進めて行く」のは、ごく普通の気配りだ。小説家の仕事に限らない。ただし、小説などの場合、この「読者」は、実在する誰彼ではない。書き手が想定するところの架空の読み手だ。

「書こうとしているもの」は、「このように書いたという事実」と同じか。「彼が書こうとしているもの」つまり〈「彼」がまだ書いていない「もの」〉が、どうして、「読者が読むもの」と並べられるのか。妄想としてさえ無意味だ。

「これ」の指す言葉がない。「うまく行っている」という証拠がどうやって得られようか。「うまく行っている」という印象は大岡の自己暗示によるものでしかない。錯覚。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1330 「下 先生と遺書」のあらすじ

1333 三角関係はなかった

 

 ほとんどの人が〈「遺書」では三角関係が描かれている〉と誤読するらしい。

 

<下宿先の娘をめぐって親友の「K」と三角関係になった「先生」は、親友を出し抜いて先に求婚し恋人を得るが、親友が自殺したために終始罪悪感に苦しみ続け、明治天皇の死に次ぐ乃木大将殉死事件を機に、ついに自殺するという内容。

(『日本歴史大事典』「こゝろ」佐藤泉)>

 

「三角関係」は意味不明。一人の女を二人の男が同時に好きになっただけで〈三角関係〉という言葉を使っていいのなら、ストーカーは大喜びだろう。

『冬のソナタ』(韓国KBSテレビ)の場合、ユジンとミニョンとサンヒョクの関係は〈三角関係〉と呼べる。ユジンはサンヒョクと婚約しているのに、ミニョンと愛しあうようになったからだ。しかし、高校時代のユジンとチュンサンとサンヒョクは三角関係になっていない。この頃のユジンは、サンヒョクを幼馴染としか思っていなかったからだ。なお、チュンサンは、恋愛感情とは別の理由でサンヒョクを敵視していた。

『こころ』と似たような設定の『友情』(武者小路実篤)でも、杉子と大宮と野島の間で三角関係は成り立っていない。大宮に対する杉子の恋心は一度もぶれたことがないからだ。

『坊っちゃん』の場合、「マドンナ」の気持ちがまったく描かれていないので、三角関係について考えることはできない。『こころ』でも同様だ。少女静の気持ちはまったく描かれていない。このことに気づかない人は、小説を読む能力が悲惨なほど不足しているばかりか、言葉による一般の情報を処理する能力が決定的に不足しているはずだ。

そもそも、〈明治の普通の少女が恋をする〉などということは、ありそうにない。静は普通の少女ではなかったのかもしれないが、そんなふうには語られていない。

「出し抜いて」は誤読。立場を反対にして考えてみよう。KがSを「出し抜いて先に求婚し」ていたら、どうなっていたろう。〈Kは「恋人を得る」〉という展開になったのか。いや、こんな問題は無意味だ。「恋人を得る」という言葉が意味不明だからだ。Sは、静と自分の関係について「最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈(はず)」と語った。静とKが結婚していたら静は不幸になっていた「筈(はず)」だ。だったら、SがKを排除したことは正しい。

「罪悪感」は意味不明。近頃の〈炭水化物を食べると罪悪感に襲われる〉のそれと同じで、自傷の罪が原因か。「人間の罪というもの」(下五十四)という言葉は出てくるが、言葉だけ。「終始罪悪感に苦しみ続け」の「終始」と「続け」は重複。「乃木大将殉死事件」が「機」になったのなら、乃木も死に値する罪を犯したのだろうか。いや、そういうことが問題なのではないのだ。乃木の自殺とSの自殺に共通する動機は「罪悪感」ではない。彼らが「罪悪感」を抱いていたとしても、「苦しみ続け」た理由は別にある。それは「明治の精神」に関わる何かだ。羞恥心だろう。

「遺書」はSとPの架空対談であり、その聴衆がいる。彼らを、Sは「外の人」(下五十六)や「他(ひと)」(下五十六)と呼んでいる。彼らを〈R〉と書く。Qの次だからだが、〈reader〉の頭文字ということにしておく。Rは二十歳前後の男で、朝日新聞の購読者だろう。

 

(1330終)

 

 

 


夏目漱石を読むという虚栄 1320

2021-02-01 20:52:56 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1320 「中 両親と私」のあらすじ

1321 「本当の父」

 

「上」において、語り手Pは、彼の聞き手に対して、Sをうまく紹介できなかった。語り手PがSに対する青年Pの関心その他を隠蔽しているからだ。

語り手Pにとって都合のいい聞き手を〈Q〉と書く。Pの次だからだが、〈questioner〉の頭文字ということにしておく。Qは作中に登場しない。だが、仮想の語りの場である「此所(ここ)」(上一)にいるのは確かだ。P文書は、PとQの架空対談だ。この対談の聴衆を〈G〉と書く。〈gallery〉の頭文字。Pは、自分とQの馴れあいをGに見せつけて楽しんでいる。Gの原型はPの「兄」(上二十二)だろう。「中」では、語り手Pの代理として、過去の語られるPが「兄」と対決してみせる。こうした展開は、勿論、不合理だ。

 

<かつて遊興のために往来(ゆきき)をした覚(おぼえ)のない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、何時か私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷(ひやや)か過ぎるから、私は胸と云い直したい。肉のなかに先生の力が喰い込んでいると云っても、血のなかに先生の命が流れていると云っても、その時の私には少しも誇張ではないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生は又いうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな真理でも発見したかの如(ごと)くに驚ろ(ママ)いた。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」二十三)>

 

ものすごい悪文。

「かつて」は〈一度も〉と解釈する。「遊興」の具体例は不明だが、どうでもいいのか。「往来(ゆきき)」は後出の「交際」の同義語だろう。このあたりの話に中身のないのを隠蔽するために、言葉を取り換えているのだろう。「覚(おぼえ)のない」のはPだ。「覚(おぼえ)のない」には〈実際にはあったかもしれない〉という含意があるが、これは無視すべきなのだろう。「出る親しみ」は意味不明。「歓楽の交際」がないから、それから「出る親しみ」はなく、よって「親しみ以上」は無意味。「頭に影響」は意味不明。

「ただ」は変。〈「頭というのは」~「冷(ひやや)か」〉というのは意味不明で、だから、「冷(ひやや)か過ぎる」は、もっとわからない。「云い直したい」は変。言い直すぐらいなら書き直せばよかろう。言い直すこと自体に何らかの意味合いがあり、それを聞き手Qは読み取らねばならないらしい。Qが何かを読み取ったことにして、PはGをいたぶっているのだろう。

「肉のなか」も、「力が喰い込んで」も、「血のなか」も、「先生の命」も、「命が流れて」も、意味不明。誰に向って「云っても」だろう。「その時の」ではなく、今の「私」つまり語り手Pは、どう思うのか。「思われた」は不可解。〈「少し」は「誇張」だろう〉と、「その時」か、語りの現時点か、どちらかで、PのDが囁く。「誇張」どころか、意味不明。

〈「事実を」~「眼の前に並べて見て」〉は意味不明。「事実」というカードがあるのか。カードは、並べ方次第でその意味が違ってくるものだ。

「大きな真理」と「明白な事実」は裏腹の関係にある。「発見したかの如(ごと)くに」だから発見していないわけだ。Pが「発見した」のは、〈SはPの「本当の父」だ〉という物語だ。この場合の「本当」は、「あるべき姿であること」(『広辞苑』「本当」)といった意味。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1320 「中 両親と私」のあらすじ

1322 「立場」

 

Pは、S夫妻の疑似的「貰(もらい)ッ子(こ)」(上八)になった。そのせいで、実父に対して親孝行の真似事ができるようになる。おかしな話だろう。

 

<折角(せっかく)丹精した息子が、自分の居なくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考(ママ)を有(も)っている御前から見たら、高が大学を卒業した位で、結構だ結構だと云われるのは余り面白くもないだろう。然(しか)しおれの方から見て御覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業は御前に取(ママ)ってより、このおれに取って結構なんだ。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」一)>

 

Pの「父」がPに語っている。

「息子」はPのこと。「自分」は「父」自身。「居なくなった」は〈死んだ〉だ。Pの卒業を喜び過ぎる父に、Pは不満。「大きな考」がないから、「結構」と言われて面映ゆかったらしい。父は「そりゃ卒業は結構に違いないが、おれの云うのはもう少し意味があるんだ」(中一)と前置きし、「結構」という言葉に彼がこめた「意味」を説明した。なお、この「意味」について、「父は話したくなさそうであった」(中一)という。その理由は不明。

「父」の「立場」は、「その人が置かれている地位や状況。また、その人の面目」(『広辞苑』「立場」②)のことらしい。この「立場」は受身的だ。「観点」(『広辞苑』「立場」③)といった意味の〈立場〉なら、自分で決められる。自分で決められないような「立場」から発せられた言葉の「意味」は、本音とは限らない。だが、このときのPは、真似事で「父」の「立場」を尊重してやることによって、親子の疎隔を自他に対して隠蔽したようだ。

 

<漱石は、明治という時代の展開に従って徐々に強まっていく、江戸時代とは異なった抑圧のシステムを見つめながら、その正体を「立場」として鋭く抉りだした、というように解釈するべきかもしれません。

しかし同時に漱石には、「立場」に拘束されることに嫌悪感を覚えながらも、それを守らねばならぬという義務感をも覚え、いつまでも果てることのない悩みの中で胃潰瘍になる、という側面があったようにも思います。もしそうだとすれば、それは現代日本人のあり方の、典型であり先駆であるようにも見えます。彼の作品がこれほどまで広く長く読まれ続けている理由は、あるいはこのあたりにあるのかもしれません。

(安冨歩『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理 欺瞞の言語』)>

 

「鋭く抉りだした」みたいなのは、文豪伝説。

「義務感」が「嫌悪感」に直結するとは思えない。「いつまでも果てることのない悩み」は、自分の立場③が原因ではなく、与えられた立場②が原因で生じるのだろう。つまり、立場②に「拘束されること」を拒否できないから「悩み」が生じる。拒否できないのは、独自の立場③を確立できていないからだろう。つまり、基本的に無責任だからだろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1320 「中 両親と私」のあらすじ

1323 看取りと読み取り

 

「中」に、Sは登場しない。Pとの手紙などのやりとりが少しあるだけだ。

 

<「私」が手紙を読むころ「先生」は死んでいる、という意味の言葉が目を射た。心臓が一瞬にして凍りついたような気がした。慌(あわ)てて、「先生」の安否を探るため手紙を繰(く)ったが、手掛かりを見つける余裕もなかった。そして上京を決断する。「私」は父の最期を見(ママ)取るよりも、「先生」の最期を確かめることを選んだ。

(角川書店編『漱石の「こころ」』)>

 

Pの「父」は、「乃木(のぎ)大将の死んだ時」(中十二)から、死を夢見るようになる。

 

<父は時々囈(うわ)語(ごと)を云う様になった。

「乃木大将に済まない。実に面目(めんぼく)次第がない。いえ私もすぐ御(お)後(あと)から」

こんな言葉をひょいひょい出した。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十六)>

 

Sの「遺書」は、一種の「囈(うわ)語(ごと)」だろう。

 

<これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他(ほか)の人と比べたら、或は多少落ち付いていやしないかと思っているのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三)>

 

「これ」がどれだか、不明。「この長い手紙」は変。「手紙」は始まったばかりだ。〈地位〉には、「社会や集団において、目標、規範、価値基準などによって、一定の形に配列されている人々の位置のこと」(『ブリタニカ』「地位」)といった意味がある。そんな「地位」に誰がSを置いたのだろう。「他(ほか)の人」の具体例は不明だが、作中で探せばPの「父」しか見つからない。勿論、SはPの「父」の「地位」や「立場」など、ほとんど知らない。

〈「父」を看取ること〉と〈「父」の意を汲み取ること〉と〈「遺書」から「生きた教訓」を読み取ること〉を同質とみなせば、Pは親不孝ではないことになる。Pが「父」を見捨てるのは、「父」の希望だったのかもしれない。孟母断機の故事が連想される。

 

<父ははっきり「有難う」と云った。父の精神は存外朦朧(もうろう)としていなかった。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十八)>

 

「有難う」は、Pの耳に〈おれの「精神」を受け継いでくれて「有難う」〉と聞こえたのかもしれない。

「存外」ではないが、「朦朧(もうろう)として」いたのだ。そのせいで本音が漏れたらしい。語り手Pあるいは作者は、そうした夢想あるいは虚偽を暗示しているのかもしれない。

(1320終)