備忘録 苦悶
学問が苦悶
我利勉 下痢便
です・ます デス・マスク
手弁当 食べんと
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1450 夏目宗徒
1451 読めない「人間の心」
『『こころ』の読めない部分』を書いていた頃、私には次の文が読めなかった。
<後姿だけで人間の心が読める筈はありません。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十八)>
「後姿」は少女静のものだ。「人間の心」が読めなくて困っているのは、青年Sだ。
Sの想像する静は、「後姿」によってSに謎をかけている。その謎の「心」つまり女心なら、Sにも想像できた。私にもできた。ほとんどの人にできるはずだ。それは〈あすなろ抱きする度胸ある?〉みたいものだ。ツンデレのツン。Sは、「あなたは余っ程度胸のない方ですね」(『三四郎』一)と言われたくなかった。伊東ゆかりが「いきなり肩を抱いてほしくて ふりむかないの」(有馬三恵子 作詞・鈴木淳 作曲『あの人の足音』)と歌っている。「御嬢さんの態度になると、知ってわざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか」(下三十四)と悩んだ。「わざと遣る」のは「技巧」(下三十四)で、「技巧(アート)なら戦争だ」(『彼岸過迄』「須永の話」三十一)という展開になるのを避けたかった。ただし、須永と違って、Sは〈信実のない「技巧」か〉とまでは疑わなかった。だから、女心とは別の「人間の心」を仮定したわけだ。
<然し私は誘(おび)き寄せられるのが厭(いや)でした。他(ひと)の手に載るのは何よりも業腹(ごうはら)でした。叔父に欺(だ)まされた私は、これから先どんな事があっても、人には欺まされまいと決心したのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>
Sの警戒心は、「金に対して」(下十二)だけでなく、「愛に対して」(下十二)も働き始めていた。〈静はプロポーズをされたくて男に「技巧」を用いるのか〉という疑問を、Sは抱いたわけだ。静がSを愛していたとしても、Sは「技巧」を許せない。だから、「もう一人男が入(い)り込まなければならない事」(下十八)になる。「もう一人男」はKだ。Sは〈「嫉妬(しっと)」(下三十四)か、「技巧」か〉という不合理な二者択一問題を拵え、〈「嫉妬(しっと)」だから「技巧」ではない〉と自己欺瞞ずるために、Kを引き入れた。
<つまり、先生は実はお(ママ)嬢さんの気持ちを後ろ(ママ)姿から読み取ったにもかかわらず、その「読み取った」という一言を書かなかったのです。だから、読者はあたかも先生が「見当が付」かなかったまま、この場面を終えたかのような印象を持ってしまうのです。そのことを含めて、この語り方を見破れるのは、先に言った「文学的想像力」を持った読者だけだと言うことができます。漱石は読者を信じていたのです。
(石原千秋『理想の教室 『こころ』大人になれなかった先生』)>
意味不明の「文学的想像力」が自慢の連中を、私は私の読者として想定しない。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1450 夏目宗徒
1452 読めない『Kの手記』
Sの自殺の動機は不明なのだが、あえて言えば、絶望に対する危惧だ。ただし、『こころ』の作者がこの危惧を文芸的に表現しているのではない。Nがこの危惧を人々に伝染させようと企んだだけだ。危惧を主題とする物語はない。物語のない危惧は〈不安〉と言うべきだが、『こころ』の作者が不安を描いているわけではない。
<しかし、先生のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしい、もっと早く死ぬべきだったのに、なぜいままで生きていたのだろうという意味の言葉だった。
漱石がここでKに乗り移っているとしか思えないのは、Kの無意識にいたるまでを全身で知っているとしか思えないからです。Kならこうするに決まっている。決まっているそのことが、作者が決めるというよりも登場人物のKのほうからやってくる。むろんそれは読者にも分かる。だから、たとえば『Kの手記』といった小説が、漱石でなくともいくらでも書ける、そういうふうになっているということです。
(三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』)>
「漱石がここで」三浦に「乗り移っているとしか思えないのは」漱石の「無意識にいたるまでを」自分は「全身で知っていると」三浦が思っていると「しか思えないから」だ。
こうした妄想を抱く人々が夏目宗徒だ。彼らは手前味噌の夏目宗を信じている。そして、Nの小説を聖典のように読む。そのとき、彼らは自分とNを混同する。かわいそうなKに乗り移る自分と、Kに乗り移るかわいそうなNを混同するわけだ。
「漱石が」は〈「漱石」の霊魂「が」〉などが適当。〈K〉は〈金之助〉の「頭文字(かしらもんじ)」だから、「むろん」KはNの分身だ。小説家が自分の心情を登場人物に仮託するのは、ありふれたことだろう。ところが、宗徒は神秘的なことが起きているように錯覚する。Nが〈KはNの分身だ〉という事実を隠蔽しているからだ。「むろん」三浦に隠蔽の事実は知れない。彼は、Nの魂胆を「全身で知って」しまい、隠蔽された事柄を隠蔽されたまま感知し、そして、自分の感知した事柄を、やはり隠蔽したまま語る。口寄せのようなものだ。
「Kならこうするに決まっている」と作者が思うのは、普通のことだ。普通でないのは語り手Sだ。彼はかつての自分が「痛切に感じた」理由を隠蔽している。〈「そェのことが」~「Kのほうからやってくる」〉は日本語になっていない。「それ」は、どれ?
「だから」は無理。「いくらでも書ける」という気になってしまうのが夏目宗徒の、いわば症状。実際には、『Kの手記』を読んだような気に「なっている」だけのことだ。
『Kの手記』は読めない。それは「もっと早く」に起きた出来事から成るはずだ。物語を隠蔽したまま、その気分だけを伝達すること。これがNの企図だった。それは「一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話」(『吾輩は猫である』十一)のような奇談であり、Nが思い出したくない体験だろう。作者はそれを想像したくなかった。だから、Kを死なせ、Sを死なせた。口封じのためだ。P文書が再開しないのも、そのためだ。
Nは自分の記憶を自ら隠蔽するために、同種の記憶の持ち主を作品の中で黙らせた。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1400 ありもしない「意味」を捧げて
1450 夏目宗徒
1453 読めない聖典
『こころ』は夏目宗の聖典だ。
<夏目漱石自身が装幀した『(「)心(こゝろ)』という書物(初版本)を、テクストとして読むためには、私たち読者は、まず「心」という漢字(視覚文字)が大書されている箱から、書物をとり出し、異なる書体で「心」と書かれた表紙、そして扉を開き、「上―先生と私」の最初の言葉と出会うのである。固い箱の中に閉ざされた「心」を、テクストとして再生させるためには、私たちは、それを自らの行為、読むという行為によって開き、各頁の上にふってある「こゝろ」と出会うために、一つ一つの言葉を、自らの「こころ」の中に、血液のように流しはじめねばならない。
(小森陽一『『こころ』を生成する心臓(ハート)』*)>
「テクスト」は、ナウかった文芸用語のふり。真意は〈聖典〉だろう。
小森はPに擬態し、SとNを混同している。「血のなかに先生の命が流れている」という意味不明のPの言葉や、「その血をあなたの顔に浴びせかけよう」という意味不明のSの言葉などを弄って、作品の解説をしたつもりになっている。楽な商売だ。
<私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕(つら)まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立(ママ)ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>
「或生きたもの」って、結局、何だったのだろう。Sが予想する「もの」とPが予想する「もの」は、同じだろうか。あるいは、違っていてもいいのだろうか。Sが〈違っていてもいい〉と考えていたとしても、その「もの」がどんなだか知れないことには、〈違う〉とさえ言えまい。Pは、その「もの」を「捕(つら)まえ」たのだろうか。それはどんな「もの」だろう。また、読者は、Pと同じ「もの」を「捕(つら)まえ」ることができるのだろうか。あるいは、違う「もの」でも構わないのだろうか。小森は、Pまたは読者と同じ「もの」を「捕まえ」たのだろうか。Pとは違うが、読者とは同じか。しかし、〈みんな違って、みんな素敵〉なら、「受け入れる事の出来ない人」は皆無だろう。
ちなみに、この解説では、〈Sの死後、Pと静は「家族の領土の一員には決してなることのない、自由な人と人との組み合わせを生きること」になる〉という異本が提示されている。意味不明なので、〈貧乏なPは美魔女でセレブの静のセフレになる〉といったママ活を想像して怒った人がいたようだ。私の異本では、『坊っちゃん』が原典になる。〈P=「五分刈り」/静=清〉だ。ただし、〈「五分刈り」と清は結婚した〉という異本もあるようで、この場合、「五分刈り」は父の妾だったかもしれない清を娶ったことになる。親子丼。この異本を利用すると、〈Pは養母の静を娶るために養父のSを脅迫して自殺させた〉という話になりそうだ。ただし、脅迫したのが無意識なら、このPに罪悪感はなかろう。
*『こころ』ちくま文庫所収。
(1450終)