ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1420

2021-02-13 17:37:36 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1421 何四天王を紹介しよう

 

Nの小説だけが私に理解できないのではない。ある種の日本の小説が理解できない。

『ドラえもんの小学校の勉強おもしろ攻略 必ず身につく学習法』(浜学園)に、「日本の名作」として、『坊っちゃん』、『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)、『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治)、『走れメロス』の四作が紹介されている。これらの作者が創作によって何をしているつもりなのか、私には推量できない。以下、これら四作の作家を〈何四天王〉と呼ぶ。

彼らは、〈自分の物語〉を隠蔽したまま、その異本のような作品をものし、その雰囲気のみを伝達しようと頑張っている。彼らが頑張れば頑張るほど、作品の表面的な意味はわかりにくくなる。ただし、同種の〈自分の物語〉を演じる人々は有難がるらしい。

私が批判したいのは、何四天王とその亜流の作品だ。作家の人生観などとは無関係。

芥川の『蜘蛛の糸』を読んだ小学生が〈お釈迦様は意地悪だ〉と書いてきたそうだ。仏の顔は一度きりか。三度目があれば、亡者だって学習しよう。必死の上昇志向で下を見ず、極楽へ亡者の大移動。釈迦が地獄に落とされる。そんなパロディーを読んだ。〈地獄で仏〉の語源か。衣食足って礼節を知った元亡者が仏心を起し、地獄に糸を垂らしてやると釈迦は上りだすが……。実話かな。『羅生門』では、泥棒から泥棒する理屈が理屈になっていない。『薮の中』は薮の中。『蜜柑』は未完。『ガリヴァー旅行記』(スウィフト)からかっぱらったのが『河童』だ。『ライネケ狐』(ゲーテ)ではない。「巧緻で洗練された文体」(『日本史事典』「芥川龍之介」)というのは伝説。作品ごとに変化する「文体」は「ゴム印」(『玄鶴山房』)のようなもので、パクッたが亜流之介。『歯車』は『夢奇譚』(シュニッツラー)からか。これは『アイズ・ワイド・シャット』(キューブリック監督)の原作だが、映画は失敗だ。

宮沢の『セロ弾きのゴーシュ』のゴーシュは動物たちと仲直りをしないのか。『雨ニモマケズ』は、一億総かつかつ社会の正当化にもってこい。『よだかの星』ってさ、〈ブスは死ななきゃ治らない〉って話だよね。『みにくいアヒルの子』(アンデルセン)と『人魚姫』(アンデルセン)の読みにくい綯い交ぜ。『グスコーブドリの伝説』は環境破壊の美化。「なめとこ山の熊」たちは絶滅だな。『銀河鉄道の夜』のジョバンニは、素敵なパパのいるカンパネルラが妬ましくて死なせた。隠された主題はBLだ。元彼への呪詛。ミーハー逃亡者を個人攻撃したい人には『宮澤賢治殺人事件』(吉田司)がお奨め。

太宰はダサいおっさん。『ヴィヨンの妻』は羊頭狗肉。『富嶽百景』や『女生徒』や『津軽』などの見え透いた嘘には舌打ちしながらも苦笑してしまったが、『人間失格』には白けるばかり。太宰ファン込みで、グッドバイだよ。

比較のための比較をしてみよう。

 

夏目漱石『明暗』×有島武郎『或る女』

芥川龍之介『地獄変』×菊池寛『藤十郎の恋』

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』×武井武雄『ラムラム王』

太宰治『人間失格』×三島由紀夫『仮面の告白』

 

軍配は対抗馬に上がる。ただし、推奨しているのではない。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1422 太宰治

 

何四天王の作品は、作家論に収束するような作家ファーストの読み方がされてきた。

 

<私が一番びっくりしたのは、中学生が書いた太宰治の『人間失格』の読書感想文です。それは、「だから私も主人公のように頑張ろうと思います」と結んでありました。本当にこの本を読んだのでしょうか? どう考えても違うと思います。

これでは国際競争力がつくわけもありません。

(有元秀文『文部科学省は解体せよ』)>

 

いや、この「中学生」は「本当にこの本を読んだ」のだろう。そして、〈「主人公のように頑張ろう」と書かないと、先生に叱られる〉と「本当に」思ったのだろう。

 

<葉蔵は人間の生活の営みが理解できず、逆に互いに欺き合って少しも傷つかずに生きている人間を恐怖する。道化によってかろうじて人間と交わっている葉蔵は、世間とは個人のことだとわかりかけて少し自信をもつが、疑いを知らぬ純心(ママ)な妻が犯されて決定的な打撃を受け、ついに人間失格者となる。太宰自身の体験を大胆にデフォルメして使いながら世俗への反感を表出し、大人の世界の入口でためらう年齢の若者を魅了した。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「人間失格」鳥居邦朗)>

 

ほとんど、意味不明。太宰ファンこそ「少しも傷つかずに生きて」いたくて仲間内で「欺き合って」いるのだろう。彼らは「世俗」の中核をなす。

 

<「あの人のお父さんが悪いのですよ」

 何気なさそうに、そう言った。

(太宰治『人間失格』「あとがき」)>

 

「あの人」は葉蔵。「お父さん」のどこがどう「悪い」のか、不明。

「言った」とされるのは「美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの固い感じのひと」(『人間失格』「あとがき」)だ。彼女は女装した作者、つまり作者の代弁者だ。この「手記」が「お父さん」にとって無効だったから、彼女が登場したわけだ。「何気なさそうに」だから、何らかの「気」があるらしいが、「気」が知れない。

葉蔵の〈自分の物語〉の原典は、『ルカによる福音書』の「「放蕩(ほうとう)息子(むすこ)」のたとえ」だ。語り手の葉蔵は、これを和風に「デフォルメして」使っている。『人間失格』は、〈父親のせいで息子が駄目になった〉という話ではない。〈「あの人」が「人間失格」になってやったのに、愛してやらない「お父さんが悪いのですよ」〉という話だ。葉蔵は、父親を恐れるあまり、父親に愛されようと企み、混乱してしまった。滑稽なことに、作者はそのことを知らない。

葉蔵は他人の悪口を書きまくる。強気の人なら、面と向って非難するものだ。弱気の人なら、仲間内で陰口をきくものだ。彼はどちらでもない。だから、「人間失格」なのだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1423 芥川龍之介

 

太宰は芥川に憧れた。その芥川は、パクリ屋であり、彼の苦悩もパクリだ。

『蜘蛛の糸』は不合理。この原典は、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)に出ている「一本の葱(ねぎ)」とされる。類似の民話はヨーロッパに数あるようだ。何が原典であれ、葱に摑まることはできる。一方、蜘蛛の糸のように細いものに摑まるのは不可能だろう。作家に独創性が足りないのは、欠点ではない。重要なのは、原典より出来が良いかどうかだ。キリスト教の神が人を試みに会わせるのは納得できる。だが、『蜘蛛の糸』で主人公を試すのは釈迦だ。違和感がある。また、「一本の葱(ねぎ)」が原典だとすれば、この主人公は「意地の悪いお婆(ばあ)さん」だが、芥川はこれを男に変えてしまった。怪しい操作だ。

芥川は処女作の『鼻』がNに褒められて、デビューしたそうだ。Nは、原典を読んでいなかったのだろう。原典は説話だが、これはただの笑い話であり、弄る必要のないものだ。〈偉い坊さんでもドジを踏むよ〉ということで、笑える。一方、『鼻』の主人公は、ちっとも偉くない。虚栄心が強いばかりか、彼を導く善知識にも出会えない。偽坊主みたいだから、彼に同情できない。勿論、作品に感動しもしない。作者は何をしているのだろう。

『杜子春』の主人公が「仙人」になりたがる動機は薄弱だ。動機が弱いから、結局、失敗した。ただし、そこまでは、いいとしよう。驚くべきことに、彼が失敗することを「老人」は期待していたようなのだ。「老人」は、何がしてみたかったのだろう。

 

<六朝時代末の杜子春が家財を使い果して道士からしばしば金を与えられ、その恩返しに山中に入って仙薬を練る手伝いをする。そのためにさまざまな試練にあうが、最後に女に生れ変わり、自分の産んだ子が頭を石にたたきつけられるのを見て禁じられていた声を立て、ついに仙人になれずに終わった物語。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「杜子春伝」)>

 

原典の「道士」が杜子春を引き込む目的は明白だ。また、子春がしくじる理由も明白だ。原典の主題は〈主人公である母は子を愛する〉だが、芥川版は〈母は主人公である子を愛する〉というものだ。つまり、芥川版の主題は被愛妄想だ。

芥川の子春は幻の母を本物と思い込み、修行にしくじり、普通の人になろうとする。しかし、彼が怠けものに戻らない保証はなかろう。なぜなら、慈母は彼の妄想の産物だからだ。そうでないのなら、〈子春は死んだ母を救うために努力する〉といった物語が必要だ。

 

<ふ〰〰っ だめだ すっかり忘れてる どうすればいいんだ 

むしろこのまま一緒に死んだ方が あの子は幸福かな? 

(花輪和一『天水 完全版』)>

 

「忘れてる」のは「あの子」だ。「一緒に」は〈母と誤認した化け物と「一緒に」〉の略。

『白』(芥川)の主人公は友を見捨てる。原典と思われる『星の童子』(ワイルド)の主人公は母を見捨てる。芥川は、原典の記憶を自分の頭の中から消去したかったのだろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1424 宮沢賢治

 

何四天王に共通するのは、理屈っぽいが意味不明の言葉と負け惜しみの強さだ。

 

負け惜しみが強く、自分の誤りに屁理屈(へりくつ)をこねて言い逃れることのたとえ。 漱石枕流(そうせきちんりゅう)。

<語源「石に枕し流れに漱ぐ(=俗世間を離れて山林などで自由に暮らす。枕石漱流)」というべきところを逆に言ってからかわれた晋の孫楚(そんそ)が、「流れに枕するのは耳を洗うためで、石に漱ぐのは歯を磨くためである」とすかさず言い返したという『晋書』の故事に基づく。

(『明鏡国語辞典』「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す」)>

 

孫楚は、かくれんぼがしたかったらしい。本当に俗世を厭うたのではなく、また、エコ派だったのでもなく、見いだされるために隠れた。隠者ハッタリ君だ。その取り巻きは信者ウッカリさんで、そのリーダーを気取るのが宗徒ウットリ先生。

 

<都人(とじん)よ 来(きた)ってわれらに交(まじわ)れ 世界よ 他意(たい)なきわれらを容(い)れよ 

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)>

 

田舎で浮いていたKYが都会に出てみたが、やはり「都人(とじん)」と「交(まじわ)れ」なくて仲間に「容れ」てもらえなかったので、帰省してロマンチストを気取り、「都人(とじん)」に注目されようと企む。うまくいって上京できたのが『ポラーノの広場』のキューストだ。

「世界」は〈父〉の美称だろう。勧誘なら、「われらを容(い)れよ」は〈「われら」はきみら「を容(い)れ」てやる「よ」〉などでないと意味がない。「他意(たい)」はあるのさ。〈都会では埋没するから、とりあえず地方で目立って父に褒められよう〉という魂胆だ。

 

<裕福な質屋の長男に生まれ、盛岡高等農林に学んだ。在学中から日蓮宗の熱烈な信者となり、真宗信者の父母にも改宗を迫ったが拒絶され、1921年(大正10)上京して自活。布教に従事し、童話の創作にも励んだが、妹トシの病気により帰郷。

(『山川 日本史小辞典』「宮沢賢治」)>

 

「日蓮宗」は当時の流行。「父母」を操りたくて、宮沢は「熱烈な信者」を装ったのだろう。Kも、似たり寄ったりのことを企んでいたはずだ。

ちなみに、『オッぺルと象』は、〈オッペルが資本家で、「白象」は労働者の象徴〉というふうに誤読できる。だが、オッペルは父親で、「白象」は息子だろう。『オッペルと象』の隠蔽された主題は、〈父親と息子の葛藤〉なのだ。この父親は、息子のために良かれと思って教育を施しているのだが、息子は自分が家畜扱いされているように思いたがる。息子は、父殺しの罪を回避するために、Dの力を借りる。他の象は、労働者の象徴ではなく、自由人の象徴だ。したがって、労使関係の主題は適用できない。

(1420終)


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