ヒルネボウ

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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 14 断片の裏面

2021-04-17 09:51:33 | 小説
   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
          14 断片の裏面
 
男は女からビラを貰った。貰ってやった。配る少女の横顔に惹かれ、ふらりと近付いたら、押し返すようにビラを渡された。
ビラの裏で指と指が触れた。でも、自分を見てはくれない。目を合わせようとしたら、数センチ、後ずさりされた。逃げたのだ。次に貰ってくれそうな人を物色するふりをして逃げた。
十歩ばかり歩いて、「これ、何?」とでも言いたげにビラを両手で胸の前に持って男は振り返った。ほんの一秒。少女は背を向けている。男は空を見ず、足元も見ず、ビラを見てから、見るふりをしてから歩き去った。少女は少し遅れて横目で男の後ろ姿を追った。だから、ビラを欲しそうにしていた人を見逃した。
通りを隔てた露店で、子を抱いた若い女が二人を見ていた。彼女は物語の始まりを予感した。しかし、無駄だとわかり、すぐに忘れようとした。そのために、人形のように泣かない子をあやしながら、あやすふりをしながら商品を並べ替えた。微かな溜息。その後、元に戻す。無駄だった。無駄なことでも、何もしないよりはましだ。
飽き飽きだ。生きるのに飽きた。男は頭の中で繰返す。もう、飽き飽きだ。
待ち合わせの店には、意外に早く着いた。開店前だ。ドアを軽く叩いてみたら、中から睨まれた。怯え半分、怒り四半分、残りの四半分は悲しみか。そこらを歩いて時間を潰そうと思ったが、店の人はドアを開けてくれた。そんなつもりはなかったと言いわけをしようとしたが、無駄だった。どうぞ。あ、はい。いいんですか。無言。あなたはドアを叩き続ける男の出てくる小説を読んだことはありますか。無言。ドアを叩き続ける男の映画でもいいですが。どうするんです。入りますか。入ります。ご注文は五分後にお願いします。五分ですね。無言。私は観たことがないんですよ、ドアを叩き続ける男の映画なんか。無言。小説も読んでいません。無言。
男は案内されたのとは別の席に座った。その隣。わざとだ。そして、考え始めた。いや、考えるふりを始めた。このままだと、他の客をじろじろと見てしまいそうで弱った。ただし、幸いなことに、他の客はいない。
重そうな花瓶の横に、分厚い辞典のような箱が立ててある。箱のような本か。箱だけで、中身はないのかもしれない。少し斜めになっていて、今にも倒れそう。倒れても大事ない。倒れるなら、倒れろ、さっさと。
男がイライラ光線を発すると、他の客はぎくりとして目を逸らすものだ。だが、今のところ、誰もいない。いるのは、ウエイトレスだけ。
ウエイトレスは幼いころから男どものイライラ光線には慣れっこで、白い手袋をした両手で銀色の盆を盾に使って跳ね返す。それが、戻ってくることはめったになく、他の客を照らすことも、まず、なくて、壁を焦がす程度で終わればほっとすることだろうが、そんなこともまずなかった。
イライラ、ピーッ! 跳ね返る音は、ジャジャ。ピー。ジャジャ。ジャ。ピピピッ。
そんな滑稽かつ悲惨な場面を目の当たりにしたくないから、男は自分の席を選ぶのだった。選ばれるのは、窓際だとか、柱の間だとか、額縁のないモダン・アートの横だとか、そういった場所ではなくて、特徴のない場所だ。特徴のない場所が好みだった。
窓は嵌め殺し。ガラスを叩いて、出してくれと叫んでも無駄なようにできている。窓外の街並みは、ありふれている。自動車道路を隔てた向かいの店も、看板も、その下を急ぎ足で歩く人も、その人の上着の裾がひらひらするのも、その前を走り去る小型車も、雨が降らないせいか、元気のなさそうな街路樹も、みんな、ありふれている。雨なんか、降っても降らなくても、ありふれている。店内の観葉植物だって、その種類も、葉も、照りも、ありふれている。テーブルがわずかにがたつくのだって、ありふれている。落ち着かないのも、ありふれたことだ。
伯母たちを連れて、利かん気そうな少女が入ってきた。浮いた足をぶらぶらさせるために、椅子に坐った。
イライラ、ピーッ! ジャ。
男は、両手をポケットに突っ込んだ。癖だ。小学校に上がったときからの癖。困ると、そうする。何に困っていいのか、わからなくて困ると、そうする。手を出しなさい。叱られると笑う。えへへっ。叱られなくても笑う。えへへっ。笑うために、ポケットがある。
空っぽのはずのポケットの中で、何かに触った。不気味。それがさっき貰ったビラだということに気づいたのは、取り出してテーブルに置いて皺を伸ばそうとしたときだった。
イライラ、ピーッ! ジャ。ピッ。
男はビラを千切って混ぜてから並べ直す。ジグソー・パズルの要領。火星探検から両足を失くしただけで無事に帰還した宇宙飛行士が自慢げに語ったことだ。暇で死にそうなときはパズルをするに限る、と。没頭すると、腹の立つのを忘れられる。時の経つのを、だったか。チラシに対して悪意は、ええっと、ないこともない。あった。そう、あるのだ。
ビラを貰ったことは思い出したが、ポケットに入れたことは思い出せない。捨てた覚えもないが、捨てられたビラが風に吹かれて戻ってポケットに入り込む様子を思い描くことはできた。ひらひら。するり。
いつだったか、そんな意外な体験をしたような気がする。場所はオーストラリアだ。砂漠の真ん中の岩壁を攀じ登り、もう少しで天辺だと思ったら、猿がぬっと顔を出した。男は驚いたが、猿はもっと驚いた。人間を、しかも男を見たことがなかったからだ。猿は飛び上がり、そのまま落下して潰れた。何が嫌だって、猿の潰れたのを見るぐらい、嫌なことはない。落下したのは、猿ではなかったのかもしれない。人間だったのかもしれない。猿に似た人間? 人間に似た猿? 人間にも猿にも似た異星人? 
自作のパズルは簡単だった。簡単すぎた。すいすい。簡単なのは、良いことだ。揺らぐ自信を立て直す効果がある。だが、簡単すぎるのは、どうか。
おや。最後の一枚がない。中央に嵌まるはずのピースがない。あることはあるが、うまく収まらない。縁は合っているのに絵柄が合わない。裏返して見たが、やはり、絵柄は合わない。今度は縁も合わない。風に乗って戻ってきたのは、この断片だったか。その断片のかさかさの縁をなぞる。罪を償うような感じ。失敗は成功の元。失敗を楽しむような感じ。
ちっぽけな自尊心が爛れた。腐りそうだ。
この一枚はこのままにして、他の断片を裏返したらどうか。一度に裏返すことはできない。一枚、一枚。その場合、右端が左端に来る。しかし、上が下に来るわけではない。
できそうでできないパズルを、ウエイトレスがちらちら見ている。制服が合わないらしく、肩のあたりを弄りながら、救いを求めるようにたった一人の客を見る。彼女に見られていることに男は気づかない。気付きたくないのか。言ってくれたら、足りないピースを探してあげるのに。丁寧に頼んでくれたら、他のことだってしてあげるのに。他のことって? あら、いやだ。
男は街路樹を見ている。街路樹の向こうに共同住宅があり、窓がある。いくつもの窓があって、屋根裏部屋があって、寝台があって、長患いの少女が寝ている。寝台の側に椀が置いてある。湯気は立っていない。彼女の父親は牢屋にいる。革命家と間違われた。本当は哲学者なのよね。そんな嘘を母親が少女に語る。性別不明の乳飲み子が欠伸をする。終わりのない話の途中で、母親は乳飲み子を抱え上げ、稼ぎに出る。その女が、ビラ配りの少女を見ていたのだ。
どこからともなく、歌声が流れてくる。歌声は通りを越え、川を越え、そして、雲のかけらが散る大空を巡り、四つ角に落ちてくる。ビラ配りの少女が歌っているのか。露天商には、少女の背中しか見えない。疎らに色褪せた革の上着。ビラを配り終えて、彼女は立ち去るところらしい。短いスカーフ。斜めに被ったハンチングから垂れ下がる一本の三つ編み。横縞の靴下は左右の色が違う。
彼女が店に入ってくる。この店には哲学者が集まると聞いたからだ。
男は自分が哲学者だったことを思い出す。そして、地下室の揺椅子から離れようとしない老女の顔を思い出す。高い窓から歩行者の脚が見え、その背景に空が見えた。薄暗い部屋にミイラのような老女は似合った。生きているのか、いないのか。尋ねても応じない彼女に向かって、大空を飛ぶことと真の自由との微妙な差異、あるいは深い溝について、すなわち、まだないことともうないことの合併症のような変事について、長々と講釈を垂れた。もう生きていないというよりはまだ生まれていないという感じの女を眺めながら飲んだお茶の味は思い出せる。味? いや、匂い。一方、講釈の内容がどうだったか、思い出せない。勝ち誇った笑みが張り付いたまま息絶えたような、死に化粧のための薄紙が乾ききって皺だらけになったような、ぞっとするほど醜い顔の中で、瞳だけは輝いて見えた。だが、動かない。その目が瞬時でもこちらを向いてくれたら、その眼差しが「許す」と告げているようだったら、別の日に別の誰かに同じ講釈をする気概が持てたかもしれない。哲学者でいられたかもしれない。もっと優れた講釈だってできそうではないか。
ウエイトレスは、無実の容疑者のように身じろぎひとつしない。彫像のようになれたらと願わないでもない。どんな彫像が素敵かしら。何を手にしよう。盾か。旗か。鈴が鳴り、反射的に動いた。ただ動いた。何をすればいいのか、まだ不慣れなので、咄嗟には思い付かない。だが、動いた。
男は、鈴の音を聞いて身構えた。待っていた人が来たようだ。誰を待っていたのだろう。何時と約束していたっけ。この店だったか。
ピー。ジャ。
ジャ? ジャ……。ジャン……。いや、ジャニス。そうだ。ジャニス。多分。
ジャニスらしい少女が、ウエイトレスに案内されて、入口近くの席に就いた。ウエイトレスを見上げるその横顔に、見覚えがある。だが、いつ、どこで会ったのか、思い出せない。つい最近だったようで、ずっと昔だったような気もする。欠けていたピースが見つかったような気がした。ビラを集め、手の中で丸めた。
「林檎風味の紅茶」をジャニスらしい少女は注文した。男が飲んでいるのも、それだ。偶然の一致か。運命か。わざと、だな。だろう。
男はいやに太く見える自分の指を訝しみ、それで断片が摘めるものか、試すように一枚を剥がした。すると、その端を女の指が撫でに来た。
ジャ。
顔は上げないで、男は名を呼ぼうとしたが、唇が震えるばかりだ。視野が暗み、前の椅子に座った人物の顔が見えない。服には、何となくだが、見覚えがある。
「時間がないの」と女は言う。飴でもしゃぶっているようで、彼女らしくない声だ。でも、彼女の声って、どんなだったろう。
「そうだね」と男は深い考えもなく応じた。
「何を見ているの」
問われて気づいた。自分は窓の外を向いていたのだ。正面に戻そうとしたが、戻らない。苦笑で誤魔化す。なぜ、この女はここにいるのだろう。理由が必要だろうか。理由を尋ねようとしたら、首が捻じれて、横になった。何かを不思議がっているように思われそうだ。
彼女は黙って、ゆっくりと立ち上がった。
ジャ。
男は去って行く人を呼び戻そうとした。同時に、首を元に戻そうとした。そして、どちらもできなかった。鈴の音がして、ドアの閉まる音がして、首が直った。店内から、一人だけ、誰かがいなくなっているはずだ。それは誰か。
だが、客たちの誰にも見覚えがない。ウエイトレスがいないので、男は大目に小銭を置いて、通りに走り出た。右、左、正面。人々は逃げ惑っている。どこへ逃げたらいいのか、わからないようだ。地響きがする。戦車が来るのだろう。いつかと同じように、やがて世界が終わるのだろう。
「忘れたの? 映画を観るのよ、これから、私たち」
「映画だろうか」
「現実でないことは確かね」
「女優の名は?」
「何度言えばわかるの。時間がないのよ」
彼女はジャニスじゃない。でも、いいんだ。その方が却っていいような気がする。男は腕を貸そうと、もたげた。それに手袋をした手が載る。階段を下りよう。
空を爆音が渡る。低空飛行。偵察機か。誰かを探しているのか。そして、その誰かを見つけたのか。翼が揺れる。
女が空に手を振る。ゆっくりと、黒板消しで黒板の文字を消すときのような仕草。何が消されたのか。
彼女の名を、私は知らない。
(終)
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