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夏目漱石を読むという虚栄 3130

2021-05-14 23:21:52 | ジョーク
   夏目漱石を読むという虚栄  
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3130 「直感」とか「直覚」とか
3131 「近づき難(がた)い不思議」
 
 『こころ』に出てくる気障な文句の多くは、意味不明であるがゆえに、読者には価値があるように思われるらしい。たとえば、「先生」に明確な意味はない。だが、そのせいで、読者はSという正体不明の男が有難い人物のように思い込まされてしまう。こうした効果は、文芸的なものではない。呪術的なものだ。
 
<神秘性を高めるため意味不明の文句が使用されることも多い。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「呪文」)>

 
Nの残した文章には多くの意味不明の文言が含まれている。そのことを、夏目宗徒は知っている。知っているのにNを崇める。いや、知っているからこそ崇めるのだ。
 
<私は最初から先生には近づき難(がた)い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、何処かに強く働ら(ママ)いた。こういう感じを先生に対して有(も)っていたものは、多くの人のうちで或(あるい)は私だけかも知(ママ)れない。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」六)>
 
「近づき難(がた)い不思議」は不思議。〈「不思議」に近づく〉はわからない。だから、「近づき難(がた)い」は、もっとわからない。〈「先生には」~「不思議がある」〉も不思議。「あるように思っていた」は、〈「あるよう」だと「思っていた」〉と〈「ある」と「思っていた」「ように」思う〉の混交だろう。語り手Pは、語られるPのぼんやりした印象と、語りの時点におけるぼんやりした記憶を、語り手Pはごっちゃにしているわけだ。ぼんやりした印象だけでPがSに近づくのはおかしい。はっきりとした思い込みがあったから近づいたはずなのだ。その思い込みの具合などが、語りの時点では薄れてしまっているのだろう。
「それでいて」の「それ」の指す言葉がない。「どうしても」は唐突。「近づかなければいられない」は〈「近づかなければ」なら「ない」〉と〈「近づか」ないでは「いられない」〉の混交。つまり、義務と欲求の混交。語り手Pは、語られるPの精神的混乱をこの言葉によって反復しているらしい。語り手Pは、〈PはSに近づきたかった〉という物語を封印している。「強く働いた」というのに、働いた先が「何処か」わからないのは変。「働いた」は〈「働いた」のだろう〉が正しいのだろう。語られるPは、ある部位を「強く」意識していた。しかし、語り手Pには、その部位が「何処か」思い出せないらしい。嘘としか思えない。
ちなみに、Sも「廻らなければいられなくなった」(下四十九)というふうに語る。これも、〈「廻らなければ」なら「なくなった」〉と〈「廻らな」いでは「いられなくなった」〉の混交だ。作者は、義務と欲求の仕分けができないらしい。作者は、数々の意味不明の文言によって自身の精神的混乱を露呈している。
「こういう感じ」には、〈どういう「感じ」か、もう、わかったよね〉といった押し付けがましい感じがあるよね。「多くの人」は、〈「多く」ない「人」〉の誤記か。だって、Sは「孤独な人間」だろう。「私だけ」という限定の根拠は不明。
 
 
 
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3130 「直感」とか「直覚」とか
3132 「馬鹿気ている」
 
「多くの人のうちで或(あるい)は私だけかもしれない」の続き。
 
<然(しか)しその私だけにはこの直感が後(のち)になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいと云われても、馬鹿(ばか)気(げ)ていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくも又嬉(うれ)しく思っている。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」六)>
 
「直感」は、意味不明の〈「近づき難(がた)い不思議があるよう」で「どうしても近づかなければいられないという感じ」〉の言い換え。こういう「感じ」を「直感」と呼べるのは、それが「事実の上に証拠立てられた」とわかった後だろう。つまり、〈「こういう感じが」「直感」だったことは「事実の上に証拠立てられた」〉と語るべきだ。ただし、「事実の上に証拠立てられた」も意味不明。「事実」は「遺書」の内容だろうが、〈語り手Sは真実のみを述べている〉という「証拠」は皆無だ。誰に「云われ」たり「笑われ」たりするのだろう。Qではなかろう。Pの「兄」か。P文書はPとQの架空対談であり、その観客が別にいる。それは「兄」のようなタイプの俗物だ。実在しない彼がGだ。PはGを説得できそうにないので、自分とQが通じ合っている様子をGに見せつけ、先手を打ってGの攻撃を封じようとしている。「それ」は、〈「先生には近づき難(がた)い不思議がある」こと〉だろうか。「見越した」は意味不明。『日本国語大辞典』の「見越す」の項にこの文から引用してある。その意味は「先のなりゆきをおしはかる。将来を見とおす」というものだ。しかし、「「見越す」は、将来起こることを予測する意で、多くは、その立てた予測に対して、あらかじめなんらかの対策を取る場合に用いられる」(『類語例解辞典』〔察する〕)ということだから、『日本国語大辞典』は間違っている。この辞典は、「それ」を〈「この直感が後(のち)になって」「証拠立てられ」ること〉と解釈したのだろう。しかし、そのように解釈すると、「それを見越した自分の直覚」は〈「この直感が後(のち)になって証拠立てられ」るという将来を見通した「自分の直覚」〉ということになり、ナンセンス。そうでないのなら、「直感」と「直覚」は別の意味だ。同義語だとすると、違う言葉を使ったPの魂胆が怪しくなる。怪しいということにしよう。「見越した」の真意は〈見抜いた〉だろう。語り手Pは、〈青年PはSに「不思議がある」ことを「直感」によって察知した〉という虚偽を語ろうとしたが、虚偽という自覚があるものだから、しどろもどろになっているのだろう。「頼もしく」は真相を隠蔽するためで、意味不明。
「遺書」はSとPの架空対談であり、その観客はRだ。ところが、不合理なことに、RはQと重なるようだ。SはP文書の出現を予知しており、「遺書」をQのために書いたみたいだ。さもなければ、作者は、自分の企画とPやSの希望を混同しているのだろう。
語り手Pは〈語られるPはSの美質を察知した〉といった虚偽を聞き手Qに信じさせようとしたが、うまくいかなかった。QはGと区別できないからだ。そこでSが登壇し、Pの暗示した虚偽を真実として保証した。すると、虚偽を真実として信じるQと信じないGが分離する。Pを信じるQはSをも信じるRに変わる。一方、どちらのことも信じないGは排除される。排除されたくないQは、P的になり、G的でなくなる。あなたなら、どうする? 
 
 
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3130 「直感」とか「直覚」とか
3133 論より証拠
 
Pの感知した「不思議」の一部は「或強烈な恋愛事件」だろう。だが、この「恋愛事件」は、『こころ』が終わってもなお「不思議」のままだ。だから、Pの「直感」あるいは「直覚」がどのように機能したことになるのか、私にはわからない。
ところで、「直覚」という言葉は、普段、見ない。
 
<「直観」はドイツ哲学から一般化したとされ、「英独仏和哲学字彙」(一九一二)では、英語Intuitionには「直覚」だけをあてているが、ドイツ語Anschauungでは、「直観」を第一に挙げ、複合語ではすべて「直観」を用いている。
(『日本国語大辞典』「直観」)>
 
〈直観〉と言えば、「例えばベルクソン」(『広辞苑』「直観主義」)だろう。
 
<普通、ベルクソンの哲学は科学および知性を厳しく批判した哲学だとされる。しかしながら、そのような見方に真向うから反撃したのがベルクソン自身であった。じっさい、彼の哲学は科学の検閲に服し、科学を前進させることのできる哲学であり、彼のいう知性は科学的知性として直観とならんで実在意識をうることができる能力であった。そうして、ベルクソンが空虚な認識だとして終始一貫反対したのは、言葉を認識の手段とする考え方であった。したがって、ベルクソンの言語批判は直ちに科学批判・知性批判ではないのである。より詳しく言えば、言葉による認識が果たして真の意味の知性のなすところかどうかが問題なのである。そうなら、そこには当然、言葉と科学、言葉を用いる通常の知性と科学的知性との区別が問題になるのでなければならない。
(池辺義教『ベルクソンの哲学』)>
 
Pも、『こころ』の作者も、読者も、こんなややこしい議論を喜ばないはずだ。
 
<これに反して、成員間の相違が比較的小さい日本は、言挙げ(フィクション)よりも互いに共有する事実(ファクト)にもとづく一体感に頼ることが可能な文明でした。ここでは「論より証拠」が決め手で、理屈や言説はむしろ無駄なものとして排除される傾向が強かったのです。しばしば耳にする「理屈としてはそうだが、でも事実は違う」といった表現は、一般に外国では矛盾(むじゅん)と受け止められてしまいます。このことはフランス語で”Vous avez raison.”(理屈、道理はあなたにある)が、「あなたの言う通りだ、あなたは正しい」となることと対照的です。
(鈴木孝夫『英語はいらない?!』)>
 
「これ」は〈欧米や中国などの社会〉のこと。日本人だって、〈無理が通れば道理は引っ込む〉と愚痴る。〈論より証拠〉は、言うまでもなく、逆説だ。〈証拠のない論〉は疑わしいが、〈論のない証拠〉なんて無意味だ。
 
(3130終)
 
 
 
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