ヒルネボウ

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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 29 映画は死んだ

2022-01-06 15:11:56 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

             29 映画は死んだ

Scene1 暗闇に銃声が響き渡る

黒地に白抜きで「おしまい」という意味らしい文字。

短い間。

暗闇に一発、あるいは二発の銃声が響き渡る。そして、愛が終わる。そんな映画を観た。そんな夢を見たか。そんな映画を撮りたかったのかもしれない、死んでしまう前に。

何はともあれ、今、私達に与えられているのは、この言葉だけだ。

 「おしまい」

映画なのに、言葉だけか。ああ、それと、荒い息遣いの記憶。記憶としての音響。断末魔の喘ぎのようでもあり、法悦の呻きのようでもある。もしかしたら、その声は映画から聞こえてくるのではないのかもしれない。私達の誰かと誰かが、映画とは無関係の欲情に駆られ、暗闇に紛れて白昼の路上ではできないことをしでかしているのかもしれない。もしかしたら暗闇そのものが欲望を掻き立てるのかもしれない「おしまい」という意味。それこそが欲情を煽るのかもしれない。どんな物語であれ、終るのは素晴らしいよ、人生と同様に。

私達の誰かが欲情を抑えるようで、実は醸成するために囁く。

 「銃声の響く前は写真だった。何も動かない。自動車が止まっている。鳥が空に浮いている。水が、あの有名な噴水が鍾乳石のように突っ立っている。だのに、通行人の誰一人として振り向かない。映画なのにさ、動かないんだよ。何もかもが死んだみたいに動かない。橋の上の広い歩道に二人の人物が投げ出される。二人の体は半ば宙に浮いている。手前の人間の左腕は水平に伸びている。掌を下にして。掌からコインが落ちるところだ。でも、そのコインは手品のコインなので、消えてしまうのだろう。コインは手品のように消えてゆく運命の象徴なんだな。右腕は、脱臼したみたいに奇妙な形に曲がったままで、ギブスに、見えないギブスに固定されている。その先で、これもまた見えないロープを掴み損ねたように、緩やかに広がる手が、まるで肩から切り離されたみたいに伸びている。のんびり。指先から数センチのところに何か浮いているな。拳銃か。遠い空で早くも獲物を見つけ出した猛禽の影なのかもしれない。片足は胸より高く跳ね上がっているが、もう一方の足はすでに着地している。黒と白のコンビの革靴の踵だけで一個の人体が支えられている。向こうの人体は、人体のように見えない。それは雑に丸めた紙切れみたいだ。反故の原稿用紙みたい。大きめの服が空気を孕み、微妙な陰影を作り出す。長い髪が曲線を描いて舞い上がり、それは画面の一部に誤って付けられた傷のようにも見える。それだけかって? 違うな。また、写真だ。すでに横たわる人物に、紙屑だった人体が膝で寄りかかり、両手を打ち付けられたように腕を広げて横たわる男の頭部を抱きかかえようとしていた。その女も、ああ、女なんだな、やがて死ぬさ。で、倒れている男は、あっ、あれは、俺だ」

 一発、あるいは二発の銃声。

Scene2 人間の定義

 「俺は何者だ」

 カメラ目線の男の顔の一部。どこがいいかな。眉のあたりが緊張している。カメラが引くと、それは鏡の中の顔だったことがわかる。鏡の隅に女が見えている。女は俯いていて、顔は髪に隠れている。「トビ」と女は呼びかける。「その名前で俺を呼ぶな、ウリ」と男は応じる。以上で私達に対する名乗りが終わったことを示すように、ウリの髪が後ろに送られる。だが、顔はまだ拝めない。女は、いつからか横を向いている。視線の先に何があるのか、私達には知りようがない。誰かがタバコのような物を銜え、その先に、大きな器具で点火する。カメラは一気に吐き出された大量の煙を追う。天井。薄汚れている。地図のようだ。掌島の地図か。さてと、煙が吐き出される前に言いたいことを言ってしまおうと、トビは口を動かすのだが、声は出ない。二人の間には、不自然に切迫した印象の何かが引っ掛かっている。それは壁掛けかもしれない。織物に移された迷路か。

 「俺は人間なのか、それとも」

 「人間だよ」少し噎せながら、女は被せるように答える。「どうしようもないほど人間なのさ」

 「人間って何だ」

 「何だって、何?」

 「意味だよ」

 「意味って?」

 「定義」

 「知らない、そんなの。糞喰らえだよ」

「異星人じゃないってことかな」

「異星人に会ったこと、あるの?」

男は生返事をし、化粧台の引き出しを開ける。下から上へ。慣れた手つき。上へ行くにつれ、手の動きは速まり、荒っぽくなる。

「そこにはないよ」

男には女の声が聞こえないのだろうか。だとしたら、なぜか。女の声だからか。

「そんなところにはないよ、あんたのお宝はさ」

太く作ったこの声が聞こえないはずはない。しかし、男は応えない。男の肩が上下する。鏡のほうをちらりと見る。そこにウリは映っていない。

「あんたのお宝」という声には皮肉な調子が伴っていた。しかし、どんな皮肉なのか、私たちには伝わらない。男には伝わったろうか。

「俺は誰なんだ。俺が誰だから、こんなふうに惨めに死んでいかなきゃならないんだ」

「まだ死ぬとは決まってないさ」

「どっちみち、いつか死ぬ」

女は顎をしゃくる。横様にカメラが動く。ひどい手振れだ。やつらは私達に不快な酔いをもたらそうと企むのか。安っぽく飾り付けられた小箱が不必要に大きく映し出される。その上に、ぞっとするほど巨大な男の手が被さる。時間は数秒前に戻り、小箱に飛びつく男を私達は見る。その動きは、すぐそばに競争者がいる人のそれを思わせるが、そんなやつはいない。

 男には、いつも見えないライバルが傍らにいる。そのライバルに負けたとき、男は死ぬ。そういうこと? 笑える。どういうこと? 

 町のどこかで、今、私達の知らない男が死んだ。泣く人はいない。二人の菜っ葉服が頭と尻尾、じゃなくて、下半身の方に立ち、まだ生きているかのような死骸を見下ろしている。それはごみのように扱われる。いや、ごみよりも始末が悪い。もっと始末が悪いのは、生きている男だ。そこのあんただよ、そう、あんた。

 安っぽい棺桶のような箱の中に、男は探していたものを発見する。彼は何を探していたのか。この問題にカメラは解答を与えない。解答なら、私達がすでに出してしまっているからだ。

 「行くの?」

 女の声を背に受けて、男の手はドアノブに載ったまま、硬直する。

 「どこ、行くの」

 「欲しいものがあるんだ」

 「欲しいものはないんだね、ここには」

 男は、わざとらしく振り返り、ドアに背をべたりと貼り付け、部屋の中に視線を遊ばせる。この部屋の空間を丸ごと抱き抱えなければならないのだができないでいるとでも言いたげに、腕はしばらく無用に開かれていた。卑怯なトビ、あまりにも。

女はタバコの火を揉み消す。ぐいぐい、ぐぐっ。灰皿の山の何本かが外に落ちる。紛い物のレースの敷物が汚れたぞ。誰が浄めるのか。

男は下品な微笑を浮かべている。

 「外にはやつらがいるかも」

女は男を見ずに言う。

 「平気さ。いつもと違う道を行くんだ」

 これから起きるかもしれない、さまざまな出来事を、彼は一瞬に体験してしまったかのようだ。疲労感が彼の全身を覆う。未来への焦りを過去への怒りで解消しようとして、男は口を開く。

 「一つだけ、聞いていいか」

 女は肯いと取られても仕方がないと思いながらも、首を落とす。乾いた床に透明な雫が一滴落ちた。ポタリという音が異様に増幅され、私たちの耳を聾する。くだらない演出だ。ふざけやがって。

 「なぜ、俺を裏切った」

 女は、モゾモゾと口を動かす。聞こえない。男は待っている。男が女を待つのは、このときが最後だろう。

 「あんたが言ったからさ、あたしを信じるって」

 女の冷えきった足の裏が雫の痕跡を擦って広げる。そして、静かに停止する、愛おしむように。

 「いつもと違う道って、何さ」と女が呟くのは、男が部屋を出て行き、もう二度と戻ってこないとわかってからだ。

 古いラジオが古い歌を流す。

  俺達は異星人

  そうさ 俺達は

 俺達のままなのさ 何万年生きようと

 堅く茹でた卵が決して孵らないように

 俺達も変わらない

キュルル。大き過ぎる雑音。ジャジャジャー。

Scene3 古い写真

 「小僧、こいつを知ってるか」

 一枚の写真が大写しになる。そこには私達にはお馴染みの人物の顔が写っている。しかし、注意深くなければそのことに気づかない。写真が汚れているからだ。写真とは汚れているものだ。汚れていない写真があるとしたら、そこに写っているやつの心が汚れているのだ。

 写真を差し出され、近過ぎて却ってよく見えないという演技のために背筋を伸ばし、隠しておきたかった恐れを表出してしまう小さな痩せこけた肉体。ジャイロは目だけを動かして斜めに見上げる。仕立てのいい縞のスーツ。金具のごついベルト。前をはだけたコート。血の色のサングラス。鍔広の帽子。それからはみ出した、中途半端に長い髪。その先を捻っている指。ぎらぎら光る指輪。それには本物とも贋物とも判断できない、大きな赤い石が付いている。やつらの仲間だ。元殺し屋。

やつら。この町を創り出した男達。やつらが何もない空間に時間を誘致し、この退廃の町を創り出した。この町から世界は広がった。映画も。この映画も、やつらの仕業なのだ。

 縞服の男を、ジャイロはゼブラと名付ける。やつらのことは獣の名で呼んでやる。

ゼブラは、面倒くさそうに横を向きながら、写真をヒラヒラさせていた。あたりを見回し、フンと鼻を鳴らす。そして、一呼吸置き、首をユラユラさせ、子供の頭をひっぱたく。ビシャ! 小気味いいな。

 「小僧じゃなきゃ、お嬢ちゃんかい」

 この小僧、あるいはお嬢ちゃんが写真の男を知っていることは、明らかだ。それは彼あるいは彼女の真一文字に結んだ唇を見れば、誰にだってわかる。わかられてしまったと観念し、ジャイロは重たげに自分の腕を持ち上げる。本当に重たいのだ。それは、人間の腕ではなく、人間の汚辱という鉛でできた棒切れだからだ。

子供は嘘をつくものだと、ゼブラは信じている。にもかかわらず、彼は子供に尋ねる。なぜそうしてしまうのか。彼は子供に嘘をつかせたいのだ。嘘をつく子供を目の当たりにしたい。なぜか。その問題になると、もう、彼には解けない。解けないどころか、思いつきもしない。彼は子供に嘘をつかせる。そして、苛立つ。この不愉快な遊びを止められない。閑人。

「あっち」

 子供を信じないゼブラは、子供に騙されたふりをすることに決める。そんなとき、彼の良心が、この世界に良心が残っているとしての話だが、アイスクリームのトッピングほどには安らぐものだと、彼は、決して自分では認めはしないけれど、確かに感じている。鉛の棒に自分の頬を寄せるようにした。唇の片端を痛いほど引き揚げ、息を吸って吐く。深呼吸は、どうやら彼の癖らしい。スコープから世界を覗き続けて生きた狙撃者の悪癖。

 カメラは町の一角を映し出す。明るい大通りのあちこちに原住民たちの抉ったような暗い横穴がいくつか開いていて、その一つから写真の男が出てくる。ジャイロは自分の示した方向に彼が現われて、驚く。いつもと違う道を来たのだ。

 トビは自分が発見されたことに気づかず、町を出るための鉄橋へと向かうらしい。ゼブラの肉体が、彼の意志とは無関係に、機械のように反応した。

 ジャイロは、これから起こることを見たくなかった。だから、空を見上げた。煤煙で薄暗い空が映し出される前に、カメラはウリの部屋の窓を通過する。窓枠は額縁になり、古典的様式で描かれたウリの肖像画が架かっている。青ざめた顔。しかし、それはすぐに消え、まるで声のない叫びを上げる口のように、黒く開かれた窓が残る。

ジャイロは立てて坐った脚を抱き寄せ、膝に頬を寄せた。聞こえないはずの悲鳴が、耳の奥でいつまでも響いていた。

Scene4 ロッキング・チェア

 「居眠り姫」は、自分が悲鳴を聞いたと思い、はっとして胸元をかき合わせた。このごろはあまり聞こえない耳だから、夢だったのかもしれない。それとも映画か。しかし、外階段をガタガタと駆け上る音が続いたので、悲鳴は本物だと確信した。階段の揺れは彼女の部屋にも伝わるほどだった。

 小さく舌打ちして、「若い人たちのやることときたら」と独り言を始めるが、その後をどう続けるつもりだったか。思い出そうとするうち、またもやロッキング・チェアの動きが止まる。

 夢の中に、上の部屋のウリが現われる。ウリは叫んでいた。「逃げて。やつらよ」

「姫」はウリになっていた。そして、トビを抱き締めていた。「姫」は彼を見かけるたび、「このろくでなしが」と呟いていたが、しかし、本当に嫌いなのではないことぐらい彼にはわかっているはずだと、勝手に信じていた。

廊下で擦れ違った後、部屋に戻ると、彼女は記憶の中のトビを抱き締め、諭すように繰り返すのだった。

「逃げておいで、この胸に」

夢から醒めても、呟く。

この映画が終わっても。

Scene5 お伽噺

ジャイロというのは〈半殺し〉という意味だ。そんなふうに、この界隈では何となく思われている。「いや、ジャイロは膝小僧のことだ」と元奴隷は語る。膝を抱いて路上に坐りこむジャイロの姿が、しばしば見かけられた。「あれは母親の胸が恋しいのだよ」というのは、元医者のホームレスの解釈。しかし、あらゆる解釈がそうであるように、この解釈も間違っている。

以上、インタヴューでした。同時録音なので、聞き取り難かったことをお詫びします。

「ジャイロ」

誰かに呼ばれたような気がして目を開く。しかし、膝から頬を上げようとはしない。ジャイロと呼ばれて即座に反応すれば苦しい目に会うと決まっているからだ。

ジャイロをジャイロと呼んだ最初の人間は母親だった。彼女はジャイロの父親が付けた名前を使うまいとした。彼女は去って行った男を憎むのが怖かったので、彼の付けた名前を憎むことにした。その名前は、父からジャイロに与えられたもののすべてだった。父は、子に、「久遠に生きよ」と命じ、あたかもその代償であるかのように自分の命を縮めたのだった。ジャイロは、そんなふうに信じたかった。その一方で、生きていれば、自分が生きてさえいれば、いつか父親に探し出されるものだと思ってもいた。その思いがいつか思い込みに代わることを願って、ジャイロは路上に座り込む。膝を抱えて坐ることは、ジャイロが独力で編み出した祈りの儀式なのだが、それは神を信じているつもりの人々がそうとは知らずに犯す瀆神に似ていた。

一度だけ、ジャイロは父親の消息について母親に尋ねたことがあった。

「お伽噺が聞きたいのかい?」

ほんの少しだけためらい、慌てて頷いた。本当は嘘で、嘘が本当。母親の話は大抵そうなのだ。

その「お伽噺」は、幼いジャイロには難しすぎた。父親は遠い星からやってきて、また遠い星に帰っていった。理解できたのは、あるいは理解できたような気がしたのは、その程度だ。

父の星のことを、トビが知っていた。ジャイロは、彼がその星について語り始めるのを待って、彼の顔をまじまじと見詰めることがあった。そんなとき、トビは照れくさそうに肩を竦ませ、ポケットに手を入れて掴んだ物を、それが何かを確かめもせずに、気前よく投げてくれた。

今、ジャイロの前でゼブラがポケットの中をまさぐっている。そこから重くて堅いものが出てくるのだろう。固唾を呑んだ。次の瞬間、突きつけられるものがあるはずで、それは何度か目にしたことのあるものに似ているはずだ。普通、やつらはそれを上着のポケットからではなく、ズボンのポケットから取り出す。

 それを見たくなかったので、拾った弁当をときどき一緒に食べている犬を引き寄せ、その軽さに驚く演技に意識を集中させた。あなたが何百万人もの餓死者の存在を知って溜息をつくときのようにね。

いつものことだが、犬は死にかけていた。人間の子供はその目を指で閉じさせようとして、しかし、できないとわかると、自分の瞼に指を当てた。ギュッと目に力を入れて耐える。目尻に皺が数本走る。急に何十歳も年を取ったように見えた。自分でも、何十年も生きたような気がしていることだろう。このまま眠りこみ、何十年かがあっという間に過ぎ去るといいのだが。私達の共通の願いだ。

 やがて犬は解放されるのだが、何から解放されるのかはさておき、その前に、ジャイロは女の悲鳴を聞くことになる。続いて、銃声を聞く。一発、あるいは二発。

 「おしまい」

 場内は明るくなり、私達は、かつて観たことのある、もっと面白い映画の話を始める。

さっきの映画の中で流れていた古い歌の一節を、一節だけを執拗に口ずさんでいた声が途切れ、妙に明るい、張り切った調子になる。

「やつらは、いつ思い知るのだろう。そして……」

あなたは理由のわからない吐き気に襲われて化粧室に駆け込む。そこにいても、銃声が聞こえる。ウリからジャイロに変身する途中で「居眠り姫」が目を覚ます。映画は、いつ終わったのだろう。銃声はいくつ聞こえた? 一発、あるいは二発。午後のお茶の角砂糖はいくつ? 

「そして……、映画は、いつ死ぬのだろう」

「死んでるよ、とっくに」

Scene6 アルプス

アルプスの峰を、異星人の裏声が渡る。

ウオーラーラーター。

立ち上がる子供達。

百万人の子供達。百万人のお母さんたち、拍手! 

寓意。

「自分の弱さに泥んではいけない」と説教する人々は、晩ご飯抜きですよ。

Scene7 踊り呆ける

地下室でも、客は、客としての作法を弁えているべきだ。ところが、今日の客ときたら、兎を床に叩きつけ、笑いながら踏みつけるのだった。

「こうです。私は、こうされてきたんです。こうやって、踏みつけにされました、何度も、何度も」笑いに噎せながら、客は続ける。「おかしいことね」

私は死んだ兎に向って手を差し伸べる。でも、届かない。指が震える。震わす。見えるか、この指の震え。

客は急にしおらしくなり、兎を拾い上げ、車椅子の私にふわりと投げかけた。太腿に感じるその軽さに、私は怯えようとした。

「いくら何でも、これはあんまり」

小動物を抱きしめる。まるで生きている猫を絞め殺すみたいに、ぎゅっと。猫の死に堪えられない私を殺すようなつもりで猫を殺す私を演じる私の姿を、私は客に示す。あざとい。

客は、のしかからんばかりに私に接近し、応えることになる。

「表現の自由ですよ」

目はまだ笑っているはずだ。

「でも、限度というものが」

一度伏せた目を、私は上げようとしている。

「そうです。その限度というものが、私を踏みつけにしてきたんです。限度とか、定義とか……」

「キラリナとか?」

客は、夢見るような風情の美しい横顔を見せた。その向こうの窓の外で何かが揺れ動く。それが何かを確かめる余裕は、二人にはないはずだ。

「でも、罪も何もないものの命を奪ってまで」

客は、また笑い出した。今度の笑いは、前の笑いとは違う。紅茶の中で角砂糖が溶けながら崩れるときのような笑いだ。すべての疑いが無用のものだったことを知ったときのような笑い。古い瘡蓋が剥がれるときのような。

「それはネンネコですよ」

「だから、何?」

「命はありません」

「命がないって?」

「ええ」

「でも、あなたが勝手にそう決めただけですよね」

笑い。泣き笑い? 押し殺された憤激?

「ネンネコは動物ではありません。もちろん、植物でもない。そのことは確かです。私が人間ではないのと同じぐらい確かです。ご存知なんでしょう?」

「まさか。あなたは人間です。あなたが自分をどんなふうに感じるとしても、私たちはあなたを」

「人間とは思っていませんよね」

死んだ兎、あるいはネンネコの毛を摘まんで捻り、時間を稼ぐ。客は私の意図を知ってネンネコを片付けた。ネンネコの形をした闇が椅子の下で鳴く。

「人間でなければ、何なの」

投げやりな口調を選んだつもりだが、実際には違ってしまう。

「ご存知なんでしょう?」

反射的に頷いている私。すぐに打ち消す。

「定義によります」

「笑えないな」

「いえ、あなたが何を言わせたがっているのか、わかります。でも、私達は、やはり、あなたを、人間」

「思っていませんよね」

客は続けようとした。客が次に何を言うのか、私にはわかっていて、それを言わせまいとした。客は息遣いで抗った。しかし、無駄だと悟り、頭を抱えて部屋の隅に後退する。二枚の壁に挟まれ、苦しそうだ。

「私だけよ」

聞いているのだろうか。

「私だけで十分」

聞いているようだ。

「あなたは違うのよ」

やはり聞こえていた。客は私に背を向け、壁の間に入り込もうとするかのように肩を寄せ、身を細くし、そして、含み声で言った。

「あなただけですって?」

私は勝利を予感し、沈黙で応えた。

「私が何者なのか、結局、言ってくれないんですね」

客は苦しげに振り向き、部屋の中央に向かい、テーブルの上のグラスを手にして、私に突き出した。私は受け取ろうとした。客は制した。私の目はグラスの中の液体に向けられた。液体は、微細な気泡を含んでいた。それは数秒前に生じたものらしい。気泡の数は徐々に増え、そして一個一個が大きくなり、やがて液体は煮えたぎった。その半ばほどが吹き零れ、手品は終わる。客はなおも無表情で私を見下ろしていた。

「奇跡なら」と私は言った。「私にも起こせます」

車椅子の肘掛けを両手で握り締め、力をこめて立ち上がる。それから、床の上で何度かジャンプして見せる。

「それがネンネコ踊り?」

聞かれても答えられない。椅子に戻ってしばらく喘いでいた。毛髪の油を含んだ汗が額を這う気味の悪さ。客が差し出したグラスに残る液体を、疑いつつ飲み干す。

まだ口が利けないでいる私のために、客が間を埋めてくれようとする。

「ちょっと驚きました。いえ、あなたの犠牲的精神にね」

私は慎ましく目を閉じ、頬を紅潮させる。

「わかりました。私は人間ですね」

「そうですよ。言うまでもないことです」

客は手を差し出す。私は握る。温かいものが流れ込む一瞬。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

客が立ち去り、私はまた独りにされる。

だから、私はネンネコを呼ぶ。ネンネコは生きているときの声で応え、私の膝に乗る。

「ありがとう」

君達、地球の生き物の犠牲的精神には頭が下がるわ。

雲が切れて日が差す。異星人の歌声。

「おしまい」

ねえ。あの字、何て読むの? 字なんでしょう? 

(終)


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