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『夏目漱石を読むという虚栄』 7220・7230

2024-08-28 23:03:57 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7220 〈わかったつもり〉と〈わかるふり〉

7221 三代目

 

知識人は思想家ではない。普通人なのに、普通人以上のように自他を欺瞞する人だ。

 

<売家と唐様で書く三代目(『広辞苑』「三代目」)>

 

知識人とは「三代目」のことだ。商人としても書家としても成功していない人だ。彼は、一から出直すことができない。中途半端な知識や技芸などを捨て去ることができない。

 

<竜吉は、インテルゲンチヤはその階級的中間性の故に、結局中ぶらりんで、農村と工場からの健康な足音に対しては没落することしか出来ないものであり、あるいはその運動に合流して行ったところで、やっぱりそこには、どこか膚合(はだあい)の決して合わないところがあり、またその知識の故に、ブルジョワ文化に対しては強いなり、淡いなり、またはこっそりと、未練と色気を抱き勝(が)ちであり、――そして、ひっくるめていって、インテルゲンチヤはそういう事を、あまりに強く、たびたび、意識するために「自己催眠」的に、俺は駄目だ、とし、結局何ごとも出来ないし、しない事になるのを、彼は知っていた。

(小林多喜二『一九二八・三・一五』五)>

 

知識人は、活動家ではない。学者や芸術家や宗教家などでもない。庶民ですらない。

 

<インテリゲンツィヤの概念を、知識人という概念と混同してはならない。インテリゲンツィヤに属する人々は、単なる思想に対する関心以上の何物かが彼らを団結させていると考えていた。自らを人生に対する特定の態度、いわば福音の普及に専念している献身的な集団、世俗的な聖職者身分と解していた。

(バーリン『ロシア・インテリゲンツィヤの誕生』)>

 

「混同してはならない」と言われても、実際には判別しがたい。知識人は裏表のある「矛盾な人間」(下一)だからだ。イソップの蝙蝠。

 

<そして鬨の声を耳にし、味方の倒れる姿を目にするや、そばの者たちに、気がはやって剣をとり忘れたわ、と言いながら、陣屋へかけつけるのだ。そうして、供の者を外へ出し、敵のありかを見張らせておいて、剣を枕の下に隠し、その上で、いかにもそれを探している素振りをして、長々と時をかせぐ。また、味方の一人が負傷して運ばれてくるのを、陣屋の中から目にとめると、駆け寄って、しっかりせよとはげまし、抱きかかえながら運びこむ。さて、その負傷者の手当をし、傷口を洗い、そばにつきっ切りで傷から蠅を追いはらい、敵と戦わずにすみさえするものなら、どんなことでもやってのける。

(テオブラストス『人さまざま』「25臆病」)>

 

「敵」を恐れるSは、KやPを、虚栄のために利用した。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7220 〈わかったつもり〉と〈わかるふり〉

7222 誤解と虚偽

 

知識人は、〈わかったつもり〉と〈わかるふり〉を混同する。

 

<誤解? なるほど人間には誤解というものがある。そして、もしそれが敬(つつ)しみに敬(つつ)しんだ上での誤解であるならば、許されてもいい。しかし、万一にも、自分を誇示(こじ)したい念が急なために生じた誤解であるとすると、それはもはや誤解ではなくて虚偽(きょぎ)だ。自分自身に対する不信だ。生命の真(しん)の願いを自(みずか)らくらますものだ。そしてそれが人間をして無知(むち)ならしめる最大の原因だ。

(下村湖人『論語物語』「大廟に入りて」)>

 

私は意味不明の言説を批判している。ただし、批判は手段でしかない。目的は、意味不明の言説に確かな意味があるように振舞う人々すなわち知識人を排除することだ。

 

<マルクス主義とヒトラー主義には、すくなくともひとつ共通点がある。それは世界史全体を、ひとつの視点で説明しようとすることである。「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と共産主義宣言はいう。そしてこれに答えるかのようにヒトラーはいう。「すべての世界史的歴史的現象は、人種の自己保存本能の発揚にほかならない」

マルクスにせよヒトラーにせよ、このようなフレーズには強烈な暗示力がある。読んだ者はとつぜん光がさしたように目が覚める。迷いがふっきれ、重荷が軽くなる。悟りがひらけて物事がわかったような、心地よい気分に包まれる。そしてかくも素晴らしいフレーズを受け入れない者たちにたいして、えもいえぬ怒りといらだちがこみあげてきて、つい激越な憤懣をぶちまけてしまう。「これがわからないやつはばかだ!」愚かな優越感と情け容赦のない冷酷さ、マルクス主義心酔者にもヒトラー主義信奉者にも共通して見られる感情の高まりである。

(セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』「第4章 誤謬」)>

 

Kは「これがわからないやつはばかだ!」に似た傲慢な台詞を放った。〔2100「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」〕参照。

「ひとつの視点で説明しようとすること」は、普通人にはできない。「視点」はいくつでも想定できるからだ。「ひとつの視点」に固執すまいとすると、今度は複数の「世界史」が空想される。複数の物語の主人公になっても、知識人のままの自分は「ひとつの視点で説明しようとすること」に固執する。だから、世界の綯い交ぜができない。つまり、どの物語の主役にもなれない。「何をやってもうまくいかない時は、神様がくれた休暇だと思って、あせらない」(『ロンバケ』3)と、思考停止をすることさえできない。

夏目宗徒は〈『こころ』がわからないやつは向上心のない馬鹿だ〉といった態度を示す。彼らは〈世界の綯い交ぜに成功できないのは誠実さの証しだ〉と仄めかすらしい。〈世界の綯い交ぜに失敗するのが近代人だ〉と勘違いしているのかもしれない。妄想と疎外をごっちゃにしているのかもしれない。よくわからない。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7220 〈わかったつもり〉と〈わかるふり〉

7223 ハンプティー・ダンプティ

 

KもSも知識人だった。だから、しくじった。何の不思議もない。Pも、やがてしくじりそうだ。Sの「遺書」を他山の石とすることができれば別だろう。けれども、「自分の人格を磨くのに役立つ他人のよくない言行や出来事」(『広辞苑』「他山の石」)は、たとえばSのどのような「言行」なのか。不明。

<ハンプティ・ダンプティはトルコ人みたいに足を組んで、高い塀の上にこしかけていてね。あんなせまい幅のところに、よくもバランスがとれると思ったほどだ。目は真正面を見つめたままで、アリスにはてんで知らんふりだし、これはてっきり縫いぐるみかもしれないと思ったね。

「それにしても、タマゴそっくり!」アリスは思わず声をあげて、両手をさしのべてうけとめようとした。ほんとにいまにも落っこちそうに見えたんだ。

「頭にくるよ、まったく」ハンプティ・ダンプティがしばらくして、ようやくいいだした。「タマゴだなんていわれちゃあね――まったく」目はあいかわらずそっぽをむいたままだ。

「タマゴみたいって申し上げただけです」アリスはことば丁寧に、「タマゴって、とってもきれいなのがあるでしょ」と、ほめことばのつもりだったことにしようとする。

「ひとによっちゃ、あかんぼよりわからんちんなやつがいるからなあ!」とあいかわらずハンプティ・ダンプティはそっぽを向いたままだ。

アリスはどう答えたものかわからない。これじゃまるで会話になってないわ、こっちのいうことには全然こたえてくれないんだもの、と思ってね。まったく、さいごのせりふなんて、どうみたって立木にむかっていわれたとしか思えない。

(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』「6 ハンプティ・ダンプティ」)>

 

この「塀」は、「書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心」(下二十五)の「城壁」と同じだ。ただし、「立て籠って」いたら、まだましだったろう。実際には、Kはその上に「こしかけて」Sに説教を垂れていた。Sには、Kの「この漠然とした言葉が尊(たっと)く響いた」(下十九)のだそうだ。目糞に笑われそうな鼻糞が目糞のふりをする。

 

<「でも、〈名誉〉と〈こてんぱんに言いまかす〉ってのと、意味がちがうでしょ」アリスは口をとがらせる。

「ぼくがことばを使うときは、だよ」ハンプティ・ダンプティはいかにもひとをばかにした口調で、「そのことばは、ぴったりぼくのいいたかったことを意味することになるんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』「6 ハンプティ・ダンプティ」)>

 

Sも、「私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います」(下三十一)などとほざく。〔1211 「意味は、普通のとは少し違います」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1210 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

(7220終)

 

 

 

『夏目漱石を読むという虚栄』

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7230 支離滅裂の江藤淳

7231 悪文家

 

夏目宗徒の作文だよ。

 

<いくらそれが「先生」の言葉だとはいえ、明治末年の東京に、こういういいまわしで会話をする人間が現実に存在したとは思われない。「先生」の語り口はほとんど翻訳調といってもよいほど生硬で、かつ奇妙に否定的な押し付けがましさに充ち充ちているからである。

おそらく漱石は、あの抽象化された叙述体の必然の結果として、「先生」にこのような語り方を許しているのである。「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」(十三)とか、「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」(二十八)というような、定言命令風の「先生」の言葉は、読者を有無をいわさずに引っ張って行(ママ)くためのさわりであり、それがいかに不自然に聞えても作者は少しも意に介してはいない。

いずれにしても「先生」は、そこに一切が呑み込まれて行(ママ)くブラック・ホールのような喪失感の淵源である。そこにいたる道筋は、『彼岸過迄』や『行人』で既に試みた隠蔽と開示の手法によって、しかし、ここではじめて試みられている叙述体でたどることにする。

(江藤淳『漱石とその時代(第五部)』「7 『心』と「先生の遺書」)>

 

「それ」は、「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」(上十四)で終わるSの「覚悟」(上十四)表明を指す。「だとはいえ」は不可解。「明治の末年の東京」が何? 当時の、演説ではない話し言葉を、江藤は知っているのか。「会話」は成立していない。「思われない」という理由は不明。「語り口」は不適当。「奇妙に」も、「否定的な」も、「押し付けがましさ」も、意味不明。「充ち充ちて」とSの「充(み)ちた」は同種か。「からである」は空振りである。

「あの」は「自分も相手も知っている事柄」(『広辞苑』「あの」)という虚偽の暗示。「抽象化された叙述体の必然の結果」も、「許して」も、意味不明。「のである」は「おそらく」に対応しない。「定言命令風」は意味不明。「さわり」はありふれた誤用だろう。「最も興味を引く部分」(『広辞苑』「さわり」)とは違うようだ。「それ」の指すものは不明。「聞えて」いるのはPのはずだから、「聞えても作者は」の「作者」は「先生」でなければならない。江藤は、実在した「漱石」と、実在しない「作者」と、「遺書」の語り手Sと、『こころ』という作品の内部の世界に生きていたSを混同しているようだ。

「いずれにしても」は、ありふれたごまかし。「そこ」の指すものは不明。「ブラック・ホールのような喪失感」も、〈「呑み込まれて行く」~「喪失感」〉も、「喪失感の淵源」も、〈「先生は」~「淵源である」〉も、意味不明。箸にも棒にもかからない悪文だ。「そこに」以下は無視。この後、江藤の作文は支離滅裂になる。文法的にさえ成り立たない。

昭和や平成の日本では、こういう悪文家どもが「現実に存在した」のだ。しかも、多数。令和はどうかな。

 

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7230 支離滅裂の江藤淳

7232 「定言命令風」

 

先の江藤が指摘した「定言命令風」について考える。〔1250 自己完結的〕参照。

 

<つまり鵜呑(うのみ)といってもよし、また機械的の知識といってもよし、到底わが所有とも血とも肉ともいわれない、よそよそしいものを我物顔に喋舌(しゃべ)って歩くのです。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

文豪伝説の信者は、『こころ』に関する「定説などを「鵜呑(うのみ)」にして「我物顔に喋舌(しゃべ)って歩く」のだが、夏目宗徒は違う。「よそよそしいもの」でないように仕立て直した「定言命令風」の文言を「我物顔に喋舌(しゃべ)って歩く」のだ。N式「自己本位」(N『私の個人主義』)の継承らしい。〔5553 「他(ひと)本位」対「自己本位」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 5550 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

江藤の文体は「自己本位」の所産であり、「定言命令風」なのではないか。

 

<当時台頭した大江健三郎(おおえけんざぶろう)らの戦後世代の文学を補完する批評活動として評価された。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「江藤淳」金子昌夫)>

 

大江健三郎の作品を、私はほとんど読んでいない。意味不明だからだ。「補完する」は意味不明。

 

<後者は、被抑圧の卑小感に悩む少年が、天皇制への帰属感によって自己解放を遂げようとする姿を性的な高揚感と重ねて描き出して話題をよんだ。その結果、右翼団体からの脅迫を受けたため、この小説はいまも大江のどの作品集にも収録されていない。

((『日本大百科事典(ニッポニカ)』「大江健三郎」松本鶴雄)>

 

「後者」の題名は『政治少年死す』だそうだ。「卑小感」は意味不明。「帰属感によって自己解放を遂げよう」は意味不明。「補完する」の真意は〈「脅迫」を煽る〉か。

 

<当時私は私の作物をわるく評したものさえ、自分の担任している文芸欄へ(ママ)載せたくらいですから、彼らのいわゆる同人なるものが、一度に雪嶺さんに対する評語が気に入らないからといって怒ったのを、驚ろ(ママ)きもしたし、また変にも感じました。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

この反駁は筋違いだが、他に引用に適当な部分が見当たらなかった。

〈大江×江藤〉の構図は〈N×三宅雪嶺〉の構図に似ている。江藤が三宅の役を演じているわけだ。乱暴な総括だが、こうした対比が当たらずとも遠からずだとしよう。さて、どうしてこのような矛盾めいた現象が生じるのだろう。「定言命令風」の文言に接して「高揚感」を抱く人にとって、社会的立場の違いなどは決定的な問題にならないからか。

 

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7230 支離滅裂の江藤淳

7233 定言命法

 

江藤の「定言命令風」について調べる。

 

<仮言的命令すなわち条件つきの命令が「汝もし幸福を得んとすればかく行為すべし」というふうに、ある目的を達するための手段としてある行為を命令するのに対して、端的に「何々すべし」となす、人間一般に無条件にあてはまる命令をいう。

(『哲学事典』「定言的命令」)>

 

この程度では、わかったつもりになれない。

 

<カントの唱えた道徳的命法。意志を無条件的に規定する道徳法則。条件つきの仮言的命法と異なり、行為そのものを価値ある目的として絶対的・無条件的に命令すること。「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ」が有名な型式。例えば「汝殺すなかれ」。

(『広辞苑』「定言命法」)>

 

かなり以前、テレビである少年が〈なぜ、人を殺してはいけないのか?〉と発問したところ、スタジオにいた知識人たちの誰一人として彼を納得させることができなかった。このことがきっかけで何人かが本を書いたようだ。私は読んでいない。

「有名な型式」について、次のように説明されている。

 

<道徳的行為とは、自由(これは決して知ることはできない)の名においてではなく、自由の結果として、この原理を肯定する行為であるということを、カントははっきり弁護したのだ。

(クリストファー・ウォント『FOR  BEGINNERSシリーズ86 カント』)>

 

もう無理。

 

<僕は今、何よりも実践理性を、竹沢先生の所謂『生きた智慧となつてゐる思想』をほしく思ふんです。

(長與善郎『竹沢先生と云ふ人』「竹沢先生の人生観」二)>

 

「真面目に人生から教訓を受けたいのです」(上三十一)というPの台詞に似たこの文を書いたのは「カントに傾倒してゐる若い真摯(しんし)な学徒」(前同)だ。

竹沢は「慌しいトルストイアンや社会主義の連中から「有閑階級のお道楽哲学」とか、「人生を骨董のつもりでいぢくつてゐるお茶人」とか、「苟(いやしく)も思想家と云ふ名に値しない回避」とか云ふやうな誹謗(ひぼう)をうけた事」(同前)がある。

ここで確認しておきたいのは、〈「お茶人」≠「思想家」〉ということだ。

(7230終)

 


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