夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3550 「義務」と「権利」
3551 「個人主義の淋しさ」
Nの考え方は、しばしば、混乱した。誤った前提から出発し、袋小路に入る。普通の人なら、前提を疑うものだ。しかし、Nは疑わない。むしろ、袋小路を思想の深さか何かに見せかけようと頑張る。軽薄才子のスタイルだ。そのことに気づかない人々も軽薄才子だ。
袋小路とは、たとえば、「そこが個人主義の淋しさです」(『私の個人主義』)といった宣言の「そこ」だ。この袋小路に入ることになった前提は、次のような戯言だ。
<元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私のいう事を静粛に聴いて頂だ(ママ)く権利を保留する以上、私の方でも貴方方を静粛にさせるだけの説を述べなければ済まないはずだと思います。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
「義務」と「権力」の対比は不可解。次の文では「権利」が出てくる。「権利」の本来の意味は「権力と利益」(『日本国語大辞典』「権利」)だ。近代日本語の「権利」は転用語で、“right”の訳語だ。「権力」を英訳すれば“power”だろう。“right”には〈正義〉という意味があるが、“power”にはない。そのことを、Nは軽視していないか。
「保留」は〈保有〉の間違いだろうが、〈行使〉が適当。「はず」は「義務」か。
〈権利〉と〈義務〉は一対一対応しない。〈自然権〉に対応する義務があるか。
「義務」についても同様。
<「孤立義務(=旧憲法下の、権利と対立しない、納税義務・兵役義務の類)」
(『類語例解辞典』515-20【対立(たいりつ)/鼎立(ていりつ)/確執(かくしつ)】)>
Nは、誤った俗説を前提としたため、袋小路に入った。二種の「権利」の意味の混同がしくじりの原因かもしれない。こうした混同は「明治の精神」の淵源かもしれない。
<ふつう、人Aが人Bに権利をもてば、BはAに義務をもつことを意味する。だが、この関係はつねに成立ちはしない。
(『現代哲学事典』「権利と義務」杖下隆英)>
Nは、講演会における講師と聴衆という特殊な関係を、人間関係の全般に適用しようと企み、混乱してしまった。会場の出入りが自由であれば、つまり、聴衆に退場の「権利」があれば、講師が「済まない」と思う「義務」や何かは生じないない「はず」なのだ。
彼は、不平等な関係を「元来」として設定してしまった。上下関係以外の人間関係、いわゆる自由で対等な人間関係について、誤った印象を抱いている。自他を自分の偏見や謬見の枠に閉じ込めてから、その枠内にいる自分に厳しくし、他人に優しくしてやっても、他人は喜ぶまい。その程度のことさえ、Nには想像できない。夏目宗徒にも想像できない。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3550 「義務」と「権利」
3552 「追窮する勇気」
「権利」という言葉は、『こころ』においてブラックボックスのように使われている。
<然しこれはただ思い出した序(ついで)に書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただ其所にどうでも可(よ)くない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければ御嬢さんの室(へや)で、突然男の声が聞こえるのです。その声が又私の客と違って、頗(すこ)ぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らない程、私の神経に一種の昂奮(こうふん)を与えるのです。私は坐(すわ)っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それとも唯(ただ)の知り合いなのだろうかとまず考えて見(ママ)るのです。坐っていてそんな事の知れよう筈(はず)がありません。そうかと云って、起(た)って行って障子を開けて見る訳には猶行(ママ)きません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。御嬢さんや奥さんの返事は、又極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮する勇気を有(も)っていなかったのです。権利は無論有(も)っていなかったのでしょう。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>
「これ」は、この少し後にも出ている「私の客」のこと。「これ」は、「どうでも構わない点」ではない。「実は」「これ」のせいで「どうでも可(よ)くない事」が起きたのだ。
「茶の間」には静の母がいるのだろう。「室(へや)で」は〈「室(へや)」から〉が適当。「男の声」は幻聴だ。語り手Sは真相を隠蔽している。作者は隠蔽工作に加担している。だから、読者も加担せざるを得ない。
「客と」は〈「客」の声「と」〉の不当な略。「男」は「私の客と違って」いた。「私の客」は実在したが、「男」は実在しなかったのだ。「頗(すこ)ぶる低いの」は幻聴だからだろう。
「何を話しているのか」想像できたはずだ。だから、落ち付かなかった。
「分からなければ分らない程」は意味不明。「一種の昂奮(こうふん)」は意味不明。「昂奮(こうふん)を与える」は意味不明。「与える」の主語はDだろう。
「変にいらいら」は意味不明。
「障子を開け」なくても、「障子」に近づくだけでも、言葉が聞こえたかもしれない。なぜ、近づかなかったのか。〈「男」は実在しない〉と知っていたからだ。
〈「私の神経は」~「私を苦しめます」〉は意味不明。
「御嬢さんや奥さんの返事」の実例が、私には想像できない。
「権利」を得る方法はなかったのか。「権利」が意味不明だから、「いなかったのでしょう」と結んでしまったのだろう。
「勇気」がなかったのは、「権利」がなかったからだ。「権利」のない「勇気」は蛮勇だ。Sが蛮勇をふるって静母子を拷問したとしよう。そのとき、彼女たちは何を語ったろう。
Sの「権利」に対応する静母子の「義務」があるとすれば、それはどんなことか。不明。「義務」の内容が不明だから、Sに「権利」がなかったのかもしれない。
青年Sと静母子は「権利」の意味を共有できたろうか。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3550 「義務」と「権利」
3553 『権利のための闘争』
大東亜戦争中のスローガンで「権利は捨てても義務は捨てるな」というのがあったそうだ。
<ただもう一つ御注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見(ママ)える事です。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
「御注意」が必要になったのは、「一体国家というものが危うくなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もいない」と、無根拠に言い切ってしまったからだ。
<この謬説と対立する私の説はこうである。人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である。――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから。
――
権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。
自己の生存を主張することは、生きとし生けるものの最高の法則である。この法則は、あらゆる生きものの自己保存本能として示されている。しかし、人間にとっては、肉体的な生存ばかりでなく、倫理的なるものとして生存することも重要であり、そのための条件の一つが権利を主張することなのである。
(ルドルフ・フォン・イェーリング『権利のための闘争』)>
「この謬説」は「国家の安否を考えないものはいない」といった類の意見だ。
<しかしわれわれ国家社会主義者はまだ先に進まなければならない。つまり、もし領土拡張ができぬとすればある大民族が没落せねばならぬように思われる場合、領土に対する権利は義務と変りうる。
(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』「第14章 東方調整か東方政策か」)>
私は、イェーリングとヒトラーを比べ、私の読者に選択を迫っているのではない。
「笑談」としてさえ「意義」のない「思想」は邪魔なのだ。
<そうです。笑ってください。あなたには笑う義務がおありだということも真実です。だって、美しい歯をお持ちだもの。
(モーリス・ルブラン+JET『コミック怪盗紳士アルセーヌ・ルパン 八点鐘』「ジャン・ルイの場合」)>
みんなも笑ってる?
(3550終)
(3500終)
(3000終)
(第一部終)