モロシになりそう。
~狭い
随分前から、〈狭〉という漢字が思い出せないでいた。
狭い場所が嫌いだからか。「三畳一間の小さな下宿」という歌なんか、嫌いだ。映画の『穴』や『大脱走』を見るのは苦しい。『ショーシャンクの空に』となると、もう、喘ぐほどなのだ。『クーリエ』なら、三畳より広そうだから、囚人に同情する余裕はある。
しかし、思い出せない理由は、閉所恐怖ではなさそうだ。
いや、違った。思い出せないのではない。思い出しはするのだ。ところが、納得できない。〈狭〉と〈狡〉と〈挟〉が頭の中でごっちゃになる。そのことに気づいて、ごっちゃになるわけを考えてみた。すると、すぐに思いついた。
〈せまい〉という意味と獣偏が合わないからだろう。
旁に問題はない。〈挟〉や〈峡〉や〈鋏〉という字を知っているからだ。旧字では、〈大〉の両側に〈人〉がある。「手をひろげて立つ人の両わきを左右から手ではさむさまにかたどり、はさむの意味を表す 」(『新漢語林』「夾」)という。〈頬〉は、〈頁〉つまり頭などを挟むんダッチューノ。
〈狭〉は「陜の俗字」(『新漢語林』「狭」)だってさ。
なあんだ。
でも、なぜ、阜偏が獣偏になったのだろう。里が犬になったのは、なぜだろう。草書のせいか。まあ、いいや。
とにかく、よく知らないで覚えていたことは、時が経つにつれて、どんどん、不確かになっていく。
私は誰? ここはどこ?
私のような誰かが、帰る家を忘れて、うろうろしている。数年前から、そんな夢をよく見るようになった。私or誰かの部屋は狭いようだ。そこに帰りたくないんだけど帰る所はそこしかないというようなことか。
獣の私が安穏に暮らせる里はない。なかった。
思い出した。
小学生の頃、しばしば、出窓の下の棺桶ほどの空間に入り込み、戸を閉めて、ちょっとだけ開いて光を入れ、しばらく、じっとして、苦しみながら安らいでいた。
以前、その出窓の上あたりに、天井から黄色の物体がぶら下がっていた。それは、生まれるべきではなかった誰かの胴体のようだった。
その黄色は、夜明けの太陽に照らされた天窓の磨りガラスの色だったのかもしれない。だったら、徹夜をしたのだろう。
(終)