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夏目漱石を読むという虚栄 5410

2021-10-24 23:23:18 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5410 「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」

5411 和製英語や学生言葉

 

美禰子は、三四郎に対して何事かを仄めかし続ける。私には意味不明。

 

<「迷える(ストレイ)子( シープ)――解って?」

(夏目漱石『三四郎』五)>

 

美禰子が三四郎に聞いてきた。

話し言葉である「迷える子」に「ストレイ シープ」と振ってある。ホーミーかね。主音声と副音声を同時に流すようなものだ。ホラー映画では悪魔が二種の声で語ることがある。本文は〈美禰子は魔女だ〉という表現か。不明。

 

<和製英語は明治(とくに後半)からみえ(オールバック、リヤカーなど)、大正から昭和初期に大量につくられ(モダンボーイ、バックシャン)第二次大戦後、さらに増えた(イメージアップ、コストダウン、ベッドタウン、アフターサービスなど)。これら造語の背景には造語し受容できる外国語教育の普及と英語をはじめとする外国語への憧憬(しょうけい)がある。

(『日本歴史大辞典』「和製英語」米川明彦)>

 

「ストレイ シープ」は、和製英語ではない。だが、これは「迷える子」の英訳でもない。だから、和製英語のようなものだろう。「ストレイ シープ」は「まよえる羊」(『日本国語大辞典』「まよえる羊」)と訳すのが普通だ。また、「迷える子」は〈迷ってしまった子〉などとまったく同じ意味ではなかろう。美禰子の魂胆は不明。

疑うべきは三四郎の耳だろう。作者の耳でもある。バイリンガル、トリリンガルの耳だ。ただし、母語を含め、何語にも自信がない人の耳だ。言語的故郷喪失者の耳。

三四郎は、〈「母」の「世界」〉の方言を用いない。内言ですら、用いない。その理由は不明。また、三四郎が東京語を習得しようとする様子もない。つまり、江戸っ子と親しもうとする様子がない。地方出身の学生は、活字としての、しかも非日常的な標準語によって、交流していたろう。ただし、彼は男色文化の「第二の世界」の学生言葉を使いこなすには至っていない。

ちなみに、広田はいい年をして学生言葉が抜けきらない軽薄才子だ。異性愛の「第三の世界」の言葉は、睦言以外になかったろう。「第三の世界」の敷居が高いのは「第三の世界」の言語を習得していないせいなのだが、三四郎はそのことに気づかない。作者はどうだろう。かなり怪しいのではないか。読者も怪しいわけだ。

結局、「ストレイ シープ」の意味は明らかにならない。意味ありげではあるが、確かな意味はないのだ。〈「ストレイ シープ」の物語〉の原典が共有できているのなら、二人の会話にも意味がありそうに思える。だが、その原典は不明なのだ。作者は、どんな原典を暗示しているのだろう。不明。何も暗示していない可能性がある。つまり、雰囲気だけ。

作者は何をしているのだろう。

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5410 「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」

5412 「一種の屈辱」

 

「ストレイ シープ」というカタカナ語は美禰子の自分語であり、他人には意味不明のものだ。「迷える子」も自分語だろう。二重の自分語になっているわけだ。

 

<美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸(ママ)した。その時三四郎はこの女にはとても叶(かな)わない様な気が何処かでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。

「迷子」

女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。三四郎は答えなかった。

「迷子の英訳を知っていらしって」

三四郎は知るとも、知らぬとも云い得ぬ程に、この問を予期していなかった。

「教えて上げましょうか」

「ええ」

「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」

三四郎はこう云(ママ)う場合になると挨拶に困る男である。

(夏目漱石『三四郎』五)>

 

この場面は『夢十夜』「第十夜」の反復。美禰子と三四郎は道に迷い、「大きな迷子」(『三四郎』五)になっている。この展開は、でき過ぎ。彼らが別個に企み、偶然に一致したようでもあり、作者の稚拙な企画のようでもある。

「叶(かな)わない様な気」の真意は、〈逃げ出したくても逃げ出せない「様な気」〉か。「何処かで」は意味不明。

「腹」の中身は、〈三四郎は美禰子と二人きりになりたかった〉という物語か。「一種の屈辱」は普通の意味の「屈辱」ではない。Nの小説に一貫する隠蔽された主題だろう。

二人は、実際、「迷子」になった。ただし、彼女がこのありふれた日本語で暗示しているのは〈「迷子」のような気分〉だろう。ところが、彼女は補足や説明を試みない。

「見たままで」は意味不明。

「答えなかった」は意味不明。答える必要があるのか。あるとすれば、前の文の「繰り返した」は〈答えを促すために「繰り返した」〉の不当な略か。

「知るとも、知らぬとも云い得ぬ程に」は意味不明。知っていたのか、知らなかったのか。「迷子の英訳」は〈ロスト・チャイルド〉だろう。「失われたる人の子」(『虞美人草』二)だ。しかし、日本語の「迷子」の場合、誰かが子を失ったのではなく、子が辿るべき道を失ったのだろう。

「問を予期して」は不可解。なぜ、「予期して」おかねばならないのか。

「教えて上げましょうか」の含意は、〈ロスト・チャイルドではありませんよ〉か。

「解って?」は、〈私の言いたいことがあなたに「解って」いますか「?」〉の略。

「こう云う場合」がどういう「場合」なのか、不明。三四郎は、〈よくわかりません〉と答えない。その理由がこの後にごちゃごちゃと書いてあるが、意味不明。

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5410 「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」

5413 「解らないようでもある」

 

定説では、美禰子が口にした、あるいは三四郎が耳にした「ストレイ シープ」の出典は『新約聖書』の「失われた羊の譬」とされる。

 

<『マタイによる福音書』18章12~14、『ルカによる福音書』15章3~7にあり、罪人に対する神の限りない愛を主題としたもので、神を羊飼いにたとえ、羊飼いは見失った1匹の羊のためには、他の99匹を野山に残して探しに行き、見出したときは迷わない99匹よりもその1匹のために喜ぶとしている。

(『ブリタニカ国際百科事典』「失われた羊の譬」)>

 

「罪人に対する神の限りない愛」と『三四郎』の関係は不明。美禰子は〈自分や三四郎が神によって救われる〉とでも信じていたのだろうか。

『リーダーズ英和辞典』の〈stray〉には「a stray sheep」について「迷える羊⦅Isa 53:6⦆」とある。ただし、『HOLLY BIBLE』の当該箇所に「a stray sheep」はない。

 

<わたしたちは羊(ひつじ)の群(む)れ

道(みち)を誤(あやま)り、それぞれの方角(ほうがく)に向(む)かって行(い)った。

そのわたしたちの罪(つみ)をすべて

  主(しゅ)は彼(かれ)に負(お)わせられた。

(『イザヤ書』第53章6節)>

 

美禰子と三四郎は「罪(つみ)」を犯したのだろう。ただし、どんな罪なのか、不明。

 

<迷える(ストレイ)子(シープ)という言葉は解った様でもある。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。

「私そんなに生意気に見えますか」

その調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れれば好いと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出てきた。晴れたのが恨めしい気がする。

(夏目漱石『三四郎』五)>

 

三四郎は何について「解った」ことにしているつもりだろう。

三四郎は何について「解らない」ことにしているつもりだろうか。

「女の意味」の「意味」の意味は〈意図〉と解釈して、わかったことにしておく。

「そんなに」の指すものは不明。

「心持」を忖度するから、まともな会話ができない。

読者にとって「霧」は晴れていない。作者は当てずっぽうで言葉を並べているのだろう。

(5410終)

 


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