夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2211 「世間を憚(はば)かる遠慮」
『こころ』の冒頭の三文は、二種の物語を、同時に、しかも、不十分に暗示している。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取(ママ)って自然だからである。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
第三文は、前の二文の混乱を受け継ぐ。作者はついに墓穴を掘る。
Ⅰ 「私(わたくし)は」ある人に呼び掛けるとき、「その人を」名前などで呼ばず、「常に」ただ「先生と」だけ「呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にする。「その方が私に取って自然だからである」(「先生」と書くのはP的「自然」だ)
Ⅱ 「私(わたくし)は」ある人について語るとき、「その人」のこと「を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にして、「本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮」のためだ。(「本名」を書かないのはP的「遠慮」だ)
形式的には「これ」は〈「本名は打ち明けない」ということ〉だけを指すはずだ。語り手PはSの「本名」を暴露しない理由として「遠慮」を排除しているのにすぎない。Pは、〈「遠慮」または「自然」〉という見せかけの二者択一によって真相を隠蔽している。
「というよりも」だから、「遠慮」は排除されていない。「私に取(と)って自然」はナンセンス。「自然」の真意は〈癖〉だろう。Nは〈nature〉と〈nurture〉を混同していたか。
<物事の考え方、感じ方の、その人独自の傾向から、からだの特殊な、また、無意識にでる動きまでを含んでいう。
(『日本国語大辞典』「癖」)>
Sの前では、青年Pの口から「先生」という言葉が「無意識に出る」ことはあったろう。だが、Sのいない「此所(ここ)」でなら、意識的になれるはずだ。
<自然はよく妙な失策をやりますよ。
(ドニ・ディドロ『ラモーの甥』)>
Pの「自然」が「口癖」のことなら、ややこしいことになる。
喫煙はストレスの解消になるが、禁煙もストレスの原因になる。語られるPはSに向かって「先生」と呼ぶことによって「淋(さび)しい気」を「常に」晴らしていたようだ。一方、Sがいないとき、「先生」と呟かないと、唇に「淋しい気」が生じるのかもしれない。そして、その違いに語り手Pは気づいていないのかもしれない。作者も。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2212 「筆を執っても心持は同じ事」
『こころ』の第一段落を丸ごと引用する。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取(ママ)って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云(い)いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所(よそ)々々しい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
「私に取って自然」は不自然だ。「口癖」が止められないのなら、心の病気だ。止めたくないのなら、その理由をもっと誰にでもわかるように説明すべきだ。
<クライスラーの自然の本性には、自分を滅亡させようとする嵐のような瞬間と闘って勝利をおさめるやいなや、異常なもの、神秘めいたもののもつ緊張そのものがかれの心情に心地よい作用を及ぼすという点がみうけられた。
(E・T・A・ホフマン『牡猫ムルの人生観』)>
「記憶を呼び起す」なんてことが実際にできるのなら、知識問題は満点だろう。
Sの生前から、青年Pは〈「先生」伝説〉の語り部になっていた。だから、「筆を執っても心持は同じ事」というわけだ。
「頭文字(かしらもじ)」は「余所(よそ)々々しい」ものか。〈JFK〉は、よそよそしいか。〈MM〉は、〈BB〉は、〈CC〉は? 「K」はよそよそしいのかもしれない。
〈えへん。よろしいかな。今からある人の話をしよう。その人はもう死んでいる。生前、その人のことを、私は「先生」と呼んでいた。その人は、「先生」と呼ばれるのにふさわしいキャリアを積んだ人ではなかったが、私は彼を呼ぶとき、あえて「先生」という言葉を用いていた。「先生」という言葉に、私は特別の思いを込めていたのだ。その思いは、その人に伝わっていたはずだ。私の口から出る「先生」という言葉の真意を知るのは、私とその人だけだった。私は、特別な思いを込めて、その人に「先生」と呼びかけていたが、そうした思い込みが許される人間は私しかいなかった。その頃の私は、自分がその人にとって特別な人間であることを暗示するために、その人のことを他の誰かに話すときでさえ、常に「先生」という言葉を用いていた。私が優れた人間であることを認めてくれたのはその人だけだったから、私が優れた人間であることを認めてくれたその人は、多くの人にとっても「先生」であってくれなくてはならなかったのだ。語り手に成り上がった今も、私は私の聞き手に対して同じ策を弄している。おお、私は何と賢いのだろう。どうだ! 拍手をなさい、ぱちばちと、世間の馬鹿どもよ。(呵々大笑)〉
本文が意味不明だから、異本は簡単に作れる。もっと続けようか? 読みたくないよね。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2213「呼び起すごとに」
「私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云(い)いたくなる」という文に続いて「筆を執っても心持は同じ事である」という文を読むと、ウッとなる。
Ⅰa Pは、Sのことを思い出すたびに、P自身の「記憶」の世界の住人であるSに向かって「先生」と呼び掛ける。
Ⅱ Pは、Sのことを誰かに語るとき、「先生」という呼称を用いる。
この二つの行為について「心持は同じ事」とするのは、解せない。
読者が確かに知りうるのは、Ⅱのみだ。したがって、Ⅱを主軸にしてⅠaを改定しなければ、本文には意味がない。〈「云(い)い」∽「筆を執って」〉だろう。つまり、「云(い)いたくなる」というその相手は、S以外の誰かだったわけだ。たとえば、Pの「両親」や「兄」だろう。「友達」は含まれなかったのかもしれない。
Ⅰb Pは、Sのことを思い出すたびに、誰かにSの話をしたくなって、そして、する。その場合、「先生」という呼称を用い、「本名」は用いない。
本文は、Ⅰbを表現しているのではない。〈Ⅰa→Ⅰb〉という展開を総括しているのでもない。ⅠaはⅠbに含まれるのだ。〈「先生」の物語〉という曖昧模糊とした物語が先にあり、Pは「先生」役としてSを「見付出した」のだった。自分が語り手に成り上がるためだ。
「呼び起す」が怪しい。
<忘れていたことを思い出させる。また、ある感情を生じさせる。
「一枚の写真が古い記憶を―」「妙なる調べが感動を―」
(『明鏡国語辞典』「呼び起こす」)>
「一枚の写真」は〈「一枚の写真」を見たこと〉などの略だろう。
本文の場合、「一枚の写真」に相当する言葉が欠落している。「私」は、「云(い)いたくなる」の主語だが、「呼び起す」の主語ではない。「呼び起す」の主語は、不明なのだ。
<三四郎は急に気を易(か)えて、別の世界の事を思出した。
(夏目漱石『三四郎』一)>
「思出した」は、〈思い出がよみがえった〉か、〈思い始めた〉か、わからない。つまり、〈「急に気」が「易(か)」わったせいで、「別の世界の事」がよみがえった〉という話なのか、〈「気を易え」るために、「別の世界の事を」「急に」思い始めた〉という話なのか、わからない。「急に」があるせいで、本文は意味不明になっている。「急に」がなければ、〈思い始めた〉が適当だろう。「世界」は三四郎の自分語。「急に」は不図系の言葉。
(2210終)