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夏目漱石を読むという虚栄「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」 2450

2021-04-13 18:06:37 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2450 継子いじめ
2451 『弱法師』
 
Kが「精神的に」云々の雑言を投げつけたかった本当の相手は、Sではなかったろう。語られるSはそのように推測していたはずだ。その相手は、日蓮の生まれた村にある「誕生寺(たんじょうじ)」(下三十)の「住持」(下三十)だ。Kは、自分が常日頃から考えていることを「住持」の口から聞きたかったのだが、期待外れに終わったので悔しがり、その悔しさをSと共有したがった。ところが、Sに無視されたので、八つ当たりをした。そうしたKの気分が察せられたので、SはKの雑言をまともに受け取ろうとはしなかった。ただし、もともと、Kが雑言を投げつけたかった相手は、彼の実父だ。彼は、「住持」に、実父のような人間を非難させたかった。そして、「住持」を〈理想的な父〉として敬愛したかった。
Sの空想するKは、〈理想的な父と邂逅する〉という夢を見ていたのだろう。この夢の物語は、〈Pは理想的な父と邂逅する〉というP文書の物語と相似だ。
 
<こは夢(ゆめ)かとて俊徳は、親(おや)ながら恥(は)づかしくて、あらぬかたに逃げければ、父は追ひ着き手を引きて、なにをか包(つつ)む難波寺(なにわでら)の、鐘(かね)の聲(こえ)も夜(よ)紛(まぎ)れに、明(あ)けぬ先(さき)にと誘(いさな)ひて、高安(たかやす)の里(さと)に帰りけり、高安(たかやす)の里(さと)に帰りけり。
(『弱(よろ)法師(ぼし)』)>
 
Kが実父を嫌うのは、実父が再婚したからだ。「住持」を実父の批判者として想定したのは、「住持」が日蓮宗徒だったからだろう。
 
<日本の仏教にあっては、鎌倉時代以後、愛欲を基本的に否定しようとするもの、愛欲を肯定しそのなかに生じる罪の意識や無常観をもとに阿弥陀仏の救済を求める浄土教、愛欲の生活にありながらも題目を称えることによって浄化されるとする日蓮仏教、の3つの傾向が生れた。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「愛欲」)>
 
Kは浄土教的愛欲を罪悪視したかった。なぜなら、彼は「真宗(しんしゅう)の坊さんの子」(下十九)でありながら「医者の所へ(ママ)養子に遣られた」(下十九)からだ。
ただし、「養子」は口実であり、実際には継母に唆された実父がKを厄介払いしたのだろう。Kは、実父を恨みつつも憐れみ、継母を憎んでいたのかもしれない。
両親に対する恨みや憎しみを、Sも抱いていた。〈親に虐待された子の物語〉を文脈として、KとSは「話を交換して」(下二十五)いた。ただし、「話を交換して」は意味不明。
Nの小説の主人公たちのほとんどが、少年期、親に疎まれている。あるいは、親を疎んでいる。さもなければ、親元から離れて暮している。ところが、Sだけは違う。〈両親はSを溺愛していた〉と誤読できる。ただし、溺愛も虐待の一種だろう。
Sを虐げたのは、両親ではなく、叔父一家ということになっている。『こころ』の作者は、親子関係に対する自分の実感を隠蔽するために、具体性の乏しい話を書いているようだ。KとSの育ちに、大きな違いはなかったろう。
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2450 継子いじめ
2452 母性喪失症候群
 
作者は、〈Kの物語〉を、可能な限り、隠蔽しようとしている。
 
<Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母(けいぼ)に育てられた結果とも見る事が出来るようです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十一)>
 
「母のない男」は〈「母の」慈愛を知ら「ない男」〉などの不当な略だろう。
「たしかに」の被修飾語が不明。「彼の性格の一面」という言葉は、その「面」が致命的なことを隠蔽している。語り手Sは、〈実母はKを愛した〉という虚偽の暗示をしている。
 
<性格としては、孤独、攻撃的、疑い深い、拒否的となる。不活発でおどおどしているが、自分を受入れてくれる人にはまつわりつく。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「母性喪失症候群」)>
 
こうした「性格」は、K限定のものではない。Sも、Pも、そして、Nの小説に登場する男たちのほとんど全員が、こうした「性格」の持ち主だ。Nの生い立ちが反映しているわけだが、『道草』以前の作者は母性喪失症候群を過小評価していたようだ
Sは一種の「母のない男」であり、静の母によって癒されたように錯覚していたらしい。彼女によってKが癒されれば、静の母の母性が証明されるか。ただし、真相は不明。
語り手Sは、〈Kは実母に育てられなかった〉という物語と〈Kは「継母(けいぼ)に育てられた」〉という物語を同じもののように語っている。無理だ。
Kが継母から受けた精神的な傷は、意外に深かったのかもしれない。
 
<裔一は小さい道徳家である。埴生と話をするには、僕は遣り放しで、少しも自分を拘束するようなことは無かったのだが、裔一と何か話していて、少しでも野卑な詞、猥褻(わいせつ)な詞などが出ようものなら、彼はむきになって怒(おこ)るのである。
(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』)>
 
Kも「小さい道徳家」だった。
 
<裔一の母親は継母である。ある時裔一と一しょに晴雪楼詩鈔を読んでいると、真間(まま)の手古奈(てこな)の事を詠じた詩があった。僕は、ふいと思い出して、「君のお母様は本当のでないそうだが、窘(いじ)めはしないか」と問うた。「いいや、窘めはしない」と云ったが、彼は母親の事を話すのを嫌うようであった。
(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』)>
 
「継母」は「僕」を性的にからかう。彼女は、裔一をも性的に混乱させていたろう。
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2450 継子いじめ
2453 『摂州合邦辻』
 
『こころ』の隠蔽された主題は継子いじめだ。
 
<「継子話」は継母のいじめの方法により2大別できる、一つは、不可能な課題を与えて継子を苦しめる話である。第二は、継子を殺害するか追い出すかする話である。いずれも継子の苦難は、継子を守護する生母の霊や神仏の霊力によって救われる。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「継子話」小島瓔禮)>
 
Kが養子に出されたのは、継母の策略によるものだったのかもしれない。語られるSは、そのように空想していたのではないか。
あらゆる継母が先妻の子に対して冷淡であるはずはない。〈実母=良い母〉かつ〈継母=悪い母〉というのは類型だ。実の子だからこそ厳しく接する母親はいる。『秋のソナタ』(ベルイマン監督)参照。
青年Sが空想し、語り手Sが隠蔽する〈Kの物語〉は、次のようなものと仮定できる。
 
継母に唆された実父は、「次男」(下十九)であることを口実に、Kを養子に出した。Kは、実父を愛欲に溺れた男とみなし、自分は違うタイプの男になろうと頑張った。理想の男になれたら実父を見返し、改心させ、実父に継母を罰させるつもりだった。
 
語り手Sは、青年Sの空想していた〈Kの物語〉の気分だけを漂わせている。
 
<河内国高安郡信吉長者の一子しんとく丸は継母の呪いによって癩(らい)となり、捨てられて乞食となるが、追ってきたいいなずけの乙姫と再会し、清水観音(清水寺)の利生によって元の身を取り戻すというのがその内容である。改作としてのちに有名な《摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)》が出た。
(『百科事典マイペディア』「しんとく丸」)>
 
 しんとく丸は『弱法師』の俊徳と同一人物。『身毒丸』(寺山修司)は現代の異本。
SとKが共有していた文脈は『しんとく丸』だったろう。静は乙姫だ。
 
<高安家の御家騒動を背景に、奥方玉手御前が、継子俊徳丸への邪恋を装って悪人の毒手から俊徳丸の命を守る苦衷と、玉手の父合邦の苦悩とを描く。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「摂州(せっしゅう)合邦(がっぽうが)辻(つじ)」)>
 
Sの空想するKは、〈継母の冷たさの裏には母性愛がある〉という夢を見ていた。玉手御前は静の母だ。Sは、彼女に〈良い母〉と〈悪い母〉の両面を見て、混乱した。
Sがこんな空想を好むのは、自分が母親から受けた精神的虐待の記憶をKの体験とすりかえるためだ。Sにとって、実母は継母のようによそよそしく感じられていたろう。
 
(2450終)
(2400終)
 

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