書評
『吉行エイスケ 作品と世界』(国書刊行会)
監修 吉行和子
所謂オールド・メディアが不評なのは、なぜか。偽善的だからだろう。真相を隠蔽しているように思われてならない。
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一、今日の人権意識に照して不適当と思われる語句・表現については、時代的背景をかんがみ、また文学作品の原文を尊重する立場からそのままとした。
(『吉行エイスケ 作品と世界』「初出一覧」)
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「語句・表現」を隠すのは検閲だ。つまり、思想統制だ。オールド・メディア関係者は、思想統制の恐ろしさを忘れてしまったらしい。
先日、アメリカ合衆国の大統領がFで始まる四文字の語を口にしたそうだ。簡単に推測できそうなのに、隠してどうなるものか。むしろ、Fで始まり、Kで終わるらしいそれを、きちんと報道すべきだ。その方が、彼の人品が明らかになってよろしい。日本では、FとKの間にUCが挟まる語は放送禁止ではなかろう。しかし、日本でも放送しない。きれいごとで済ませたいのか。甘いね。
〈黒人は醜い〉という悪口を知っていなければ、〈Black is beautiful〉の真意は納得できない。〈部落〉と言えなければ、岡林の『手紙』は歌えない。『座頭市』シリーズでは、一時期、「めくら」にピーが入っていた。市は、若い女に「おめくらさん」と呼ばれると、「でへへ」と鼻の下を伸ばす。ヤクザに「どめくら」と呼ばれると、かっとなって切り殺す。こうした違いを知るべきなのだ。『べらぼう』では「めしい」という言葉が用いられていた。まだまだか。
ある盲人が、〈盲人が殺人鬼の映画なんて不愉快だ〉と主張した。被害者ファーストの風潮に馴染むと、ABCD包囲陣も疑えなくなる。
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①調べあらためること。特に、出版物・映画などの内容を公権力が審査し、不適当と認めるときはその発表などを禁止する行為をいい、日本国憲法はこれを禁止。
②[心]自我、とくに超自我の機能の一つ。快楽原則に従って無意識の欲求を解放しようとするイドがそのままの形では出現しないように、超自我による社会的規範と自我の防衛機制とを通じて、抑圧したり、変形して放出させたりすること。精神分析の用語。
(『広辞苑』「検閲」)
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「戦争を始めたのは俺達の共同の敵である××主義の野心なのだ」(『港の売笑婦に関わる二つの挿話』)の伏字は、公権力による検閲の結果だろう。作者の「表現」ではなさそうだ。この文の少し後に「卍字模様の踊る肢体が、軍国主義の靴音と、酔泥れた踵の音と合してジャズを構成した」(同前)とある。先の伏字が「軍国」なら、この語が禁句なのではなく、この語を含む「表現」が「不適当」と見なされたのだろう。なお、「卍」がハーケン・クロイツなら、〈逆さ卍〉が適当だ。
「素人とゝゝゝ」(『李鄭のトリック』)の繰り返し記号は自粛に見せかけた皮肉だろうが、この三文字の語を私は推測できない。「瞬間の享楽がゝゝだ」(同前)は〈ダダ〉かな。
「金持ちの白痴(シュール・レアリスト)の画いた人工的な眉毛」(『阿片工場』)の「白痴」は「人権意識に照して不適当と思われる語句」だろうが、これは文学的「表現」だ。〈白痴美〉などと同じく、冗談めいている。
この語は、本来、差別的なものではない。
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言語の習得が不完全で、日常生活のすべてに介助を必要とする。
(『明鏡国語辞典』「白痴」)
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ドストエフスキーの『白痴』の主人公は、こうした意味での白痴ではない。
『夏目漱石を読むという虚栄』〔2441 不合理な二者択一〕で指摘した「本当の馬鹿」が〈白痴〉の同義語とは考えられない。ただし、どういう意味か、私には想像できない。「気が狂ったと思われても」という部分を考慮すれば、〈狂人〉という意味に近いのかもしれない。しかし、Sが精神を病んでいる様子はない。『夏目漱石を読むという虚栄』〔2500 明示できない精神〕参照。
『こころ』の作者は、自粛しているのではない。作品内部における真相を隠蔽しているのだ。だから、読者に「馬鹿」の真意は推測できない。作者は読者を翻弄している。真相を隠蔽したまま、〈「馬鹿」の物語〉の雰囲気だけを伝達しようと頑張っている。
夏目の文章は伏字だらけだ。いや、ある語句を隠すために別の語句を用いている。そうやって、自分の「弱点」を隠している。『夏目漱石を読むという虚栄』[1133 痩せ我慢〕と〔6122 バベルの塔〕参照。
自分を善人や賢人に見せかけて、他人を欺くばかりか、自分で自分の演技に酔い痴れるようになったら、「馬鹿」だ。
嘘っぽい馬鹿げた「表現」に慣れてしまうと、思考力が衰える。そして、「××主義」を疑うことができなくなる。一億総白痴化が進行する。極論すれば、夏目は大東亜戦争を準備したことになる。
『いろはきいろ』(GOTOミットソン)では、「馬鹿」について記さなかった。難癖を付けられたくなかったからだ。だから、「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」という有名な台詞にも触れなかった。『夏目漱石を読むという虚栄』〔2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」〕参照。
今年は新しい戦前と呼ばれている。悪いのは政治家だけではない。曲り形にも民主主義を標榜する国家の国民ならば××××××せよ。
(終)