腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
3 サイキサイクル ①
パンクしたからだよ。近かったし、偶然ね。
ハワイのチョコ、あんなもん、うまいかね。届けろって、ヨーコさんちに。うるさいんだよ、ばばあ。いいから、行けって。日曜だろ。暇だろ?
行ったら上ってけって言う。断ったよ、でも、上がってけって、まだ言うから、上った。で、チョコ、食べてけって。いえ。コーヒーが出た。アイス。喉、乾いてたから飲んだ。妙に甘かった。眠くなった。チョコは、結局、食べなかったと思う。
ヨーコさん、独身でね、三十過ぎてるけど。ばばあの後輩なんだって。高校のじゃなくて。何だか、わからない。聞くと怒る。
ああ、ハワイだ。ああ、懐かしいなあ。ヨーコさんは、チョコを口に入れ、顔を顰めた。うまくなさそう。わざとか。そして、微笑。ありがとう。僕、別に。へえ、君、自分のこと、僕って言うんだ。
パンクした自転車を押して歩きながら考えた。
ヨーコさん、会うなり、くだらないことを言った。しばらく見ないうちに大きくなったね。この前、こんなだったのに。親指と人差し指を五センチぐらい、開いて見せた。笑えってか。笑ったら、どうなってたろう。爪の色が赤かった。変な赤。それを笑ったと勘違いされたか。なわけないか。でもないか。考えたくない。
何にも考えたくないなんて考えながら歩いてたら、知らないうちにサイキんちの近くに来てた。
しまった。
ウドンコが言ったんだよ、行けって。行ってこい。ちょっと見てこい。ああ、理由なんか、聞かなくていいぞ。どうして学校に来ないんだなんて、絶対、言っちゃ駄目だからな。人を傷つける言葉だからな。おや? なぜ自分がって顔してるな。知りたいか。知りたいって顔してるな。じゃあ、教えてやろう。サイキは、ユーの一つ前だからだよ、何がって、出席番号。何で出席番号がって思ったけど、聞きたそうな顔をすると面倒になりそうだから、顔を見られないように机を見た。落書がしてある。青い色。
UDONKO
FOOL
OBJECT
略してUFOだけど、objectがよくわからない。だから、笑いたいのに思いきって笑えない。喉に何かが詰まった感じ。無理して笑ったら、どうなってたろう。おしまいだろうな。何が? 何となく、そう、おしまいって感じ。
よし。ウドンコが勝ち誇ったようにびしっと物差しで教壇を叩き、教室を見渡した。きっとみんなも俯いていたろう。誰だって行きたかない。本当はウドンコが行くべきなんだ、担任なんだから。
坂道を上って一息ついて顔を上げたら、大きな看板が見えた。
サイキサイクル
ありゃりゃ、見ちゃったよ。見えなきゃよかったのに。見えなきゃ、見つかりませんでしたって、言いわけできた。でも、見えたんだから、しょうがない。嘘のつけないタイプだもんな。クラスでは、そういうタイプでやってきた。今更変えられない。
ああ、そうだ。パンクしてんだ。出席番号が次だから遊びに来ましたなんて、通用しないよな、普通。
背筋をぴんと伸ばす!
カーチ先生に何度言われても、サイキは俯いたままだった。それじゃ、身長、測れないでしょう。ねえ、君? こっちを向いた。「はい」と答えたら、サイキに聞かれてしまう。後ろのサカゲにも聞かれる。だから、口だけ「はい」の形を作ってカーチ先生に見せようとしたら、カーチ先生はサイキの背をぐいぐい押すのに忙しかった。ちょっとひどいかもしれない。でも、お仕事だもんな、保健の先生の。
笑い声がした。誰が笑ってるんだろう、こんな場面で。サイキだ。よっぽどくすぐったいか。そのときが最初かな。最初で最後、サイキの笑い声を聞いたのは。
近所じゃないか。ウドンコが少し声を荒げた。僕が何をしたってんだ。殴ってきやがった。実は殴るふり。よけたら、笑いやがる。おれは暴力教師じゃないぞ。いつものギャグだが、たまに当たることもある。よけようと思えばよけられそうだ。でも、よけたら、おしまいだろう。何がって、よくわからないけど、とにかく、おしまい。
近所ったって、それは直線距離で、地図の上のこと。テリトリーじゃない。口にしない不満が聞こえたみたいで、ウドンコが襟首を掴んだ。眼鏡が外れて落ちた。金縁。床の上の眼鏡を眺めていたら、「拾え」だと。びくっ。拾おうとしたら、コーダさんが拾ってすっと渡してくれた。その前から、あいつは彼女を見ていたらしい。受け取って、大丈夫か、確かめてやがる。その間、安らいだ。逆にコーダさんはおどおど。そして、僕をちらっと見た。責めているのか、僕を? ああ、恋が終わった。背中を見た瞬間に始まった恋。純白のブラウスをくっきりと盛り上げて、ほのかに透けて見えていたブラジャーの線。
恐怖に竦むコーダ姫の背中に腕を回して抱え、怪獣ウドンゴラスの前から颯爽と飛び去った僕は、急降下。キーン。
「夫婦喧嘩でもしたのお?」
サキハラが笑いながら声を上げた。救ってくれようとしたか。サキハラは、ばれない程度に髪を染めている。ばれない程度だから、本当はばれているのに、ほっとかれている。母親が市会議員だからか。
ウドンコは妙に嬉しそうに、「ひゃっ、ひゃっ」と笑った。救われたのは、あいつか。
「テリトリーなんて言ったら、火に油を注ぐ結果になったろうな」というのがタカタの説。あだ名は気象予報士。「ウドンコ、英語、駄目なんだよ」
ダイミョウジによると、「おまえ、あんとき、笑ったろう。だからだよ」とのこと。笑ってない。いや、「あんとき」って、どんとき。
笑ってもいないのに笑ったように見えるから、僕はヨーコさんにからかわれたのかもしれない。イソガケみたいな下等動物にも蹴られるのだろう。わけもなく蹴ってくる。
ウドンコは、眼鏡を掛けながら、廊下に首を出し、「こらあ、何やってんだ!」と叫んだ。廊下には誰もいないはずだ。「こらこら」と、わざとらしい。出て行った。照れ隠しだな。サキハラが怖いらしい。あれで涙脆くて、たまに甘い話をするもんだから、一部の女子は「わりといい人」なんて言い合ってやがる。自分のことを「わりといい人」に見せかけるためだ。女は嘘つきだらけ。
ウドンコは辻褄の合わない甘い話をする。自己陶酔。げえっ、だよ。大統領になったら、真っ先にあいつをギロチンにかけてやる。ギロチンにかけたいやつらは、他にもいる。二番目はノオボセ。三番目はリリー。いや、あいつはガス室送りだな。喉をかきむしれ。音大は出たけれど歌手になれなかった。最期の歌を笑って聞いてやる。誰でも彼でも、教師は片っ端から死刑!
学校という学校に爆弾を落とす。バッコーン、ガッコーン、ボッコーン。
廊下の突き当たりに、何人か、ぼさっと立ってるみたいだ。そして、やつらは、殴られそうだ。しかし、そんなやつらはいない。だから、誰も殴られない。
サイキサイクルの看板が段々大きくなる。こっちは動かないで、向こうから近付いて来るみたいだ。どうしよう。どうしよう。どうしよう。引き付けられているみたいだ。行かないと、殴られる。さっさと行って帰ればいいんだけど、上がれって言われるかもしれない。
学校という名の牢屋。授業という名の拷問。教師は調教師。生徒は猿。僕は猿。僕は猿。僕は猿。猿でいたくない。けど、人間になりたくもない。キーン。ボッコン。ダダダダ。ダダダダ。くそ。二十五歳まで我慢しろと誰かが書いていた。死ぬのは二十五歳の誕生日の朝にしろ。それまで、どうにかして生きてみろ。くそ。あと何年だ? 計算できない。キキキー。計算しようとすると、歯をむき出して威嚇する猿の顔が浮かぶ。ダダダダ。誰でもいいから、猿でもいいから、殺したい。自分でもいい。くそ。くそ。くそばばあ。
キーン。
空から鋭い音が降ってきた。飛行機の姿は見えない。
「ああ。いらっしゃい」
水色のつなぎのおっさんがぬっと立ち上がった。屈んで自転車のペダルを弄ってたらしい。あいつの親爺か。
「僕」と言いかけて笑われそうな気がした。「パンク」
「どこで?」
何で、そんなこと、聞くかな。
「あのお、サイキ君」
「えっ?」
「同じくクラス」
「ああ。お友達?」
「はい」と言ってしまえば簡単なんだろうけど、言いづらい。作り笑いをした。すると、おっさん、満面に笑み。そのにこにこに、どう応じればいいのか。でも、迷う必要はなかった。
「おおい。お友達だよ」
店の奥に向かって叫んでいる。
「おおい」
声が少し小さくなる。
カツン、コツン。コンクリの床に当たる下駄か何かの音。それが近付いて来る。下駄じゃなかった。つっかけ。大きな男が現われた。作業着の上を脱いで、腰に袖を巻いて結んでいる。
「何だ、おまえ」
僕はまた笑っているのだろうか。作り笑いが張り付いてしまったのかもしれない。だったら、危ない。巨体は明るみに出ている。首から上は、よく見えない。そこから声が降る。
「誰の手先だ」
「はっ。あの、えっと、コンドウ先生が」
「何?」
「いえ、その、たまたま、パンク」
顔が出て来た。丸顔で愛嬌がある。福助みたいだ。あいつの兄貴か。
「お客さんですか。どうぞ」
声のトーンが上がった。腰が低くなった。親爺と兄貴に両側から支えられるようにして店内に入った。
「パンクって、どこで?」
兄貴が同じことを聞く。
ギシ、ギシ。軋む音がした。暗さに目が馴れてきた。階段を誰かが下りてくる。長くも短くもない、よれよれのスカートの裾が揺れる。その下から、艶のない、太めの足が出ている。本人は急いでいるつもりだろうが、のろい。ギシ、ギシ。母親か。手すりを撫でながら、すっすっと下がる手。それが止まるたび、細い手すりがちょっとだけ撓む。昼寝でもしていたか、だるそうな目。病気かもしれない。階段を下りて、のそのそ。こっちへやってくるかと思ったが、来ない。前掛けを掴んで揉んでいる。
「あんたかい。あんたじゃないよね。違うよね」
誰に言っているのか、わからない。男二人は、聞こえないふりをしている。親爺が僕の自転車を移動させた。兄貴は天井を見ながら、「眠いんだよ」と呟く。
「上」
おばさんの手が階段の方を向いている。
「上にいるから」
視線が合わない。簡易椅子を引き寄せている。嫌な擦過音。よっこらしょっと。それから、どさっと音をたてて坐った。
「あっち」
面倒臭そうに言う。後ろを差した手を肩に載せ、首を回す。
「あっち」と、僕は復唱した。動かなければならない。ここから出たいけど、きっかけがない。「あっち」へ行くしかないか。
おばさんが顔を上げ、「お茶でも飲んでくかい」と言った。やっぱりよそを向いたまま。
「いえ」やっと答えた。
「お茶と言えばお菓子だよな」と、兄貴が笑った。誰のことを笑っているのだろう。僕はつられて笑いそうになった。こらえた。
「今度」とだけ言って店を出ようとしたら、誰かが入って来て、ぶつかりそうなった。気圧みたいなもので僕は押し返される。間が空くと、その人は僕を見て、「おっ」と言った。知り合いに会ったときみたいだ。でも、知り合いじゃない。ところが、僕の名を口にした。えっ、誰? 聞きたそうに見上げたが、その人はずんずん歩いて行って、親爺と話し始めた。空耳?
キーン。
見えない所で、兄貴が何かを削っているらしい。ぞっとするほど、嫌な音だ。その音から逃げるように、階段へ向かった。すると、足元に黒ずんだ布がさっと投げ出された。毒茸みたい。兄貴が、いつの間にか戻っていて、その布を投げたらしい。ヤンキー坐りで薄笑い。いよいよ福助だ。その油を吸った布を避けることができず、跳び超えた。何か悪いことでもしでかしたみたいな気分。かすかな後悔。
階段の下で靴を脱ごうとしたら、おばさんが「そのまま、そのまま」と声を掛けた。「そのまま」と口だけ動かしておばさんを見たが、もうこっちを向いていない。諦めて、何かを諦めて、僕は階段を上り始めた。
(続く)