夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」
5251 『オルノーコ』
広田らの「小集」(『三四郎』四)は、愛に関する無知を隠蔽するために親しむらしい。
<「その脚本の中に有名な句がある。Pity(ピチ)‘(ー)s(ズ) akin(アキン) to(ツー) love(ラッヴ)という句だが……」
(夏目漱石『三四郎』四)>
広田の発言。「そ」は「サザーンという人」(『三四郎』四)だ。「脚本」の題は『オルノーコ』という。広田は「有名な句」を翻訳できない。与次郎は、この「句」を「可哀想だた惚(ほ)れたって事よ」(『三四郎』四)と訳す。広田は「不可ん、不可ん、下劣の極(きょく)だ」(『三四郎』四)と評する。ところが、野々宮は、与次郎訳を「なるほど旨(うま)い訳だ」(『三四郎』四)と評する。なお、おかしなことに、三四郎は、これを「pity’s(ピチーズ) love(ラッヴ)」(『三四郎』六)と間違って記憶する。わけがわからない。
安達祐美の名台詞、「同情するなら金をくれ」(『家なき子』日本テレビ)ではどうか。
<「あの女は自分の金があるのかい」
(夏目漱石『三四郎』八)>
「自分の金がある」の隠蔽された意味は、〈性的に自立している〉だ。
この「有名な句」の和訳は「《ことわざ》かわいそうとは惚れたの始まり」(『ランダムハウス英和大辞典』「pity」)で決まりのはずだ。
<これは例の『三四郎』の“Pity‘s akin to love”……、何と訳しましたっけ、「可哀想だた惚れたって事よ」。
(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』における村上発言)
『『三四郎』の〈翻訳〉――不可能性の体験――』(佐々木亜希子)参照。
<ヴァイオラ お気の毒に存じます。
オリヴィア というのは恋への一歩ね。
ヴァイオラ いいえ、残念ながら違います。敵を気の毒に思うことすら、ままあることでございます。
(ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』第三幕第一場)>
〈三四郎は美禰子の「敵」だ〉という隠蔽された物語がある。この物語を合理的に表現しようとすると、〈三四郎は「敵」を恐れる〉と〈三四郎は「敵」に愛されたがる〉の二種に分裂してしまう。作者は物語の分裂を隠蔽することによって深遠に見せかけている。
作者の期待する訳は、〈同情は愛情に偽装した「厭味(いやみ)」(『三四郎』七)か〉などだろう。
被愛願望は防衛の一種だ。ただし、三四郎にその自覚はない。作者にもなかろう。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」
5252 「失われたる人の子」
美禰子にとって、三四郎は「敵」だったか。
<客と遊女が互いを呼ぶ称。
(『広辞苑』「敵」)>
美禰子と三四郎は、互いに〈自分を愛させよう〉と競り合っていた。ただし、三四郎にその自覚はなかったらしい。自覚していたら、次のように語られていたろう。
<女は顔を上げた。蒼白(あおしろ)き頬(ほお)の締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重(ひとえ)の底に、余れる何物かを蔵(かく)せるが如く、蔵(かく)せるものを見極( き)わめんとあせる男は悉(ことごと)く虜(とりこ)となる。男は眩(まばゆ)げに半ば口元を動かした。口の居住(いずまい)の崩るる時、この人の意志は既に相手の餌食(えじき)とならねばならぬ。下唇(したくちびる)のわざとらしく色めいて、然(しか)も判然(はっき)と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損(そこ)なう。
女は唯(ただ)隼(はやぶさ)の空を搏(う)つが如くちらと眸を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負は既に付いた。舌を腭(あご)頭(さき)に飛ばして、泡(あわ)吹く蟹(かに)と、烏鷺(うろ)を争うは策の尤も拙(つた)なきものである。風(ふう)励(れい)鼓行(ここう)して、已(や)むなく城下の誓(ちかい)をなさしむるは策の尤も凡なるものである。蜜(みつ)を含んで針を吹き、酒を強(し)いて毒を盛るは策の未(いま)だ至らざるものである。最上の戦(たたかい)には一語をも交うる事を許さぬ。拈(ねん)華(げ)の一拶(いっさつ)は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にして又不語である。只躊躇(ちゅうちょ)する事刹那(せつな)なるに、虚をうつ悪魔は、思う坪に迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間(ま)に引き上げる。下界万丈の鬼火に、腥(なまぐ)さき青(せい)燐(りん)を筆の穂に吹いて、会釈(えしゃく)もなく描き出(いだ)せる文字(もんじ)は、白髪(しらが)をたわしにして洗っても容易(たやす)くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑(わらい)を引き戻(もど)す訳には行くまい。
(夏目漱石『虞美人草』二)>
「女」は藤尾。「蒼白(あおしろ)き」原因は不明。「何物か」は被愛願望らしい。「蔵(かく)せるが如く」は〈「蔵(かく)せる」を仄めかす「が如く」〉の不当な略だ。さもなければ、「蔵せるものを見極(き)わめん」とするのは徒労になる。「あせる男は悉(ことごと)く」とあるが、次の文の「男」つまり小野以外に「あせる男」は登場しない。藤尾こそが〈「あせる」女〉だ。ただし、彼女は男漁りをしない。どうやって、小野という「男」一人に絞り込んだのか。母親の指示か。
「戦(たたかい)」とは、男女が互いに相手の愛を奪いあう競争だ。〈相手を愛さずに自分を愛させる〉という「戦(たたかい)」が近代的恋愛と誤解されていたらしい。「ここを去る八千里ならざるも」は〈「ここを去ること八千里」なるインド「ならざる」ここで「も」〉の略。
「虚をうつ」は〈「虚を」つく〉と〈不意を「うつ」〉の混交か。「悪魔」とは、藤尾のこと。「思う坪」の「坪」は〈壷〉が正しい。これは丁半博打の壺だ。「迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き」したら〈迷惑〉になりそう。「失われたる人の子」は〈lost child 〉の直訳らしいが、意味不明。「迷える(ストレイ)子( シープ)」(『三四郎』五)の前触れだろう。
語り手は、〈愛されるための「戦(たたかい)」〉に関する無知を美文によって隠蔽している。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」
5253 「露悪家」
美禰子は、結婚前にアバンチュールを楽しみたかったみたいだ。
<――昔の偽善家はね、何でも人に善く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害する為めに、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽(あく)までも善に違いないから、――そら、二位一体という様なことになる。
(夏目漱石『三四郎』七)>
語っているのは、広田。
「善く思われたい」は被愛願望。
「露悪家」は、広田が「即席に(ママ)作った言葉」(『三四郎』七)だ。広田は「露悪家」の具体例らしいのを何人か挙げているが、私には納得できない。静母子の「好意らしく見せる積り」(下十六)は「露悪」のことだろう。
「二位一体」は〈三位一体〉のもじりだろうが、意味不明。「その理解には教会によって相違がある」(『マイペディア』「三位一体」)とのこと。「そら」と促されても、無学な私には対応できない。広田は胡散臭いやつだ。〈表裏一体〉では駄目なのか。
困ったことに、「露悪」は〈偽悪〉と同じ意味のように誤解されている。
<悪いところをわざとさらけ出すこと。
*三四郎(1908)〈夏目漱石〉七「美事な形式を剥ぐと大抵は露悪(ロアク)になるのは知れ切ってゐる」
(『日本国語大辞典』「露悪」)>
大間違い。偽悪者とは、目立つために憎まれ口を叩くしかない能のないチンピラだ。「露悪」の「悪いところ」とは〈偽善〉だ。つまり、「露悪」とは〈偽善者ぶること〉だ。
私も即席で〈露善家〉という言葉を作ってみよう。
昔の偽悪家はね、何でも人に悪く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を擽るために、わざわざ偽悪をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽悪としか思われないように仕向けていく。相手は無論善い心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽悪を偽悪そのままで先方に通用させようとする正直な所が露善家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも悪に違いないから(以下、略)
広田が「露悪家」を嫌うのは、自分が露善家だからだ。露善家というのは、毒蝮三太夫、ビートたけし、綾小路きみまろあたりの鬱陶しい連中だ。冗談半分、本気も半分。
(5250終)