夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5300 BLぽいのが好き
5320 男組
5321 東西のゲイ
日本の同性愛に関する伝統について、同性愛者を含め、二十一世紀の多くの日本人は無知らしい。だが、日本人はこの伝統に縛られている。その自覚がないだけだ。
<同性愛は古今東西を問わず、あらゆる文化圏や民族集団にみいだされるが、その位置づけは時代や地域によって大きく異なる。
ユダヤ―キリスト教的価値観のなかでは、生殖を伴わない性は罪悪としてとらえられ、同性愛もその中に含まれた。近代国家の出現により教会の権威が失墜するに従って、同性愛に対する宗教的嫌悪は世俗法に引き継がれ、同性愛者は死刑を含む過酷な処罰を受けた。
19世紀後半に同性愛の医学的研究が始まった。これは当時同性愛を刑法上の犯罪としていたドイツにおいて、同性愛者の精神鑑定が精神科医に委託されたことによる。フロイトによる精神分析学の確立により、同性愛はもっぱらその枠内で語られるようになった。フロイト自身は、同性愛は病気に分類されるものではないことを明言しているが、その後の分析家は同性愛を疾患としてとらえ、さまざまな病理モデルを提出した。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「同性愛」)>
「ユダヤ―キリスト教的価値観」と無縁だった日本には、〈男色〉という文化がある。
<日本では仏教渡来以後女犯を禁じられた僧院で始まったらしく、室町以後稚児(ちご)(喝食(かつしき))を愛する風が盛んとなり、戦国以降は尚武の気風から少年武士が男色の対象となった。江戸前期にも男色は流行し、若衆(わかしゅ)歌舞伎の発展に伴って陰間(かげま)も現れた。
(『百科事典マイペディア』「なんしょく【男色】」)>
「仏教渡来以後」は伝説だろう。ちなみに、「神社・寺院などの祭礼や法会に、天童に扮した稚児が練り歩くこと」(『広辞苑』「稚児行道」)というのがある。
日本男子は、基本的に同性愛者だ。男は男組から、なかなか、抜けられない。
<若者組の秩序は個人の能力や出自、財産などとは関係なく、ただ年齢と経験による序列をもって保持され、規律を破り、秩序を乱した者には制裁が加えられた。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「若者組」竹田旦)>
Sの「罪」は、「若者組の秩序」を乱したことかもしれない。
ちなみに、『トーマの心臓』(萩尾望都)などのいわゆるボーイズ・ラブものは、男色文化に属するのではなく、吉屋信子の少女小説などの変形だろう。
男色と女性蔑視は一体になっている。三輪明宏は許容されてきたが、相良直美は排除された。『ガラスの城』(わたなべまさこ)では、レズが姉妹愛に偽装されている。
5000 一も二もない『三四郎』
5300 BLぽいのが好き
5320 男組
5322 男性恐怖
西洋かぶれは〈LGBT差別者=ウヨク〉と誤解している。辞書などに記載されている程度の知識もなしに人権云々を口にするのは、臭いものに蓋と同じ。
<陰間茶屋は天保(てんぽう)の改革で消滅するが、男色の風はなくならず、明治の学生や軍隊、また占領軍の兵士や復員兵によって新たな展開を示し、ホモセクシャルとして今日では広く認知されつつある。
(『日本歴史大事典』「なんしょく【男色】」)鈴木章生)>
ゲイ差別を無知の所産のように言いたがる人は、男の男性恐怖について無知なのだ。
<エジプトの去勢奴隷たちは後宮(ハレム)の親衛隊士や、妻妾のオダリスク(閨房女)の奴隷として仕え、また王国貴族たちのベッドの性的奴隷となった。すなわちエクソレテとなった。鶏姦・フェラチオの奉仕者となり、つねに女装し、化粧までしていたという。
(福田和彦『世界性風俗じてん(上)』「古代エジプトの宦官たち」)>
「エクソレテ」は「男色の受動者のこと」(『世界性風俗じてん(上)』)だそうだ。
<オッパイの工事のあと、すぐに取りかかったのがタマ抜きでしてね。男と寝るとみんなすぐアソコに手を入れてきてチンチン握るとびっくり顔で、まだやってないのか、とちょっと残念そうにいうのですね。
(いその・えいたろう『性女伝』「性転換ニューハーフの女讃歌」)>
この「タマ抜き」体験者は女になりたかったわけではない。ただし、この人は、ゲイではなく、トランス・ジェンダーだったらしく、結果的には満足できたそうだ。後悔する人は少なくないようだ。
「受動者」でありたくない人はどうするのか。
<「性の多様性」という言葉とともに社会に認知され始めたLGBTですが、その言葉とは裏腹にゲイ・バイセクシュアル男性やゲイコミュニティにおいては、多様性が尊重されているとは残念ながら言えません。差別を恐れ本当の自分を隠し続け、ようやく辿(たど)り着いた本当の自分を出せる場所で当事者を待っていたのは、差別される者が自分より下を作って差別するという悲しい現実でした。
(牧園祐也『自分の性と向き合いはじめた、あなたへ』*)>
私が警戒しているのは、性別のみならず、あらゆる場面で「下」を作りたがる傾向の男どもだ。男は狼なのだ、女にとっても、男にとっても、子どもにとっても、SOS!
中国の不本意な「下」については、『さらば、わが愛/覇王別姫』(陳凱歌監督)参照。
*『「こころの科学」HUMAN MIND SPECIAL ISSUE 2017 LGBTのひろば』所収。
(付記)フリードリッヒ・カルル・フォルベルグ『西洋古典好色文学入門』「第二章 男色について」参照。
5000 一も二もない『三四郎』
5300 BLぽいのが好き
5320 男組
5323 『ヰタ・セクスアリス』
私が批判しているのは、ゲイではない。男組だ。
<児島は生(き)息子(むすこ)である。彼の性欲的生活は零(ゼロ)である。
古賀は不断酒を飲んでぐうぐう寝てしまう。しかし月に一度位荒(あれ)日(び)がある。そういう日には、己(おれ)は今夜は暴(あば)れるから、君はおとなしくして寝ろと云い置(ママ)いて、廊下を踏み鳴らして出て行く。誰かの部屋の外から声を掛けるのに、戸を閉めて寝ていると、拳骨(げんこつ)で戸を打ち破ることもある。下の級の安達という美少年の処なぞへ這入り込むのは、そういう晩であろう。
(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』)>
「生(き)息子(むすこ)」は〈生娘〉の対語。
主人公の金井は、古賀と児島とで「軟派」をいじめるために「三角同盟」(『ヰタ・セクスアリス』)を結ぶ。ゲイは、古賀だけ。私が批判している男組の一例がこの「三角同盟」だ。男組には異性愛者や性的無関心派などが含まれる。ゲイを含まないこともありそうだ。
安達は古賀にレイプされていた。彼は、同性愛者ではなかったようだ。
<奥山に小屋掛けをして興行している女の軽業師(かるわざし)があって、その情夫が安達の末路であったそうだ。
(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』)>
〈安達の自己責任〉みたいな口調だろう。
安達は、古賀にレイプされ続けた記憶を消したくて女色に耽り、消耗していったのではなかろうか。そうした想像が、作者にはまったくできないらしい。
語り手の金井は異性愛者だが、ゲイに甘い。金井らが「美少年」だったら、彼らも安達と同じ目に遭っていたのかもしれない。金井の反省が足りない。
<若衆はまた陰間(かげま)とともに、衆道における江戸初期からの呼び名である。男色関係で若衆は特に17、8歳までの弟分をさし、兄分の念者とは義理を重視する間柄であった。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「若衆 わかしゅう」稲垣史生)>
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟」(星野哲郎作詞・北原じゅん作曲『兄弟仁義』)と歌われる。義兄弟の場合、性行為は伴わないのだろう。だが、男女交際を罪悪視するのなら、男組の一種だ。
SとKは、義兄弟のような間柄だったのか。違う。Sは、ボッチであることを隠蔽するために、Kを利用していたのだ。Kはボッチに耐えようとしたが、堪えられなかった。男組以前だ。そういう怪しい関係の男たちが、Nの小説のほとんどに登場する。
(5320終)