夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5240 綯い交ぜ
5241 「世界を掻(か)き混ぜて」
「三つの世界」は未来の物語の「世界」だ。〈「母」の「世界」〉さえ未来のシェルターだ。
<三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互に比較してみた。次にこの三つの世界を掻(か)き混ぜて、その中から一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問に委(ゆだ)ねるに越した事はない。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「掻(か)き混ぜて」はいけない。「三つの世界」の物語を、それぞれ、構想すべきだ。
<江戸歌舞伎で、顔見世狂言に上演すべき世界⑧を定める儀式。
(『広辞苑』「世界定め」)>
三四郎は〈自分の物語〉を語るための世界定めに失敗した。
<二つ以上の在来の筋(世界)をまぜ合わせて、一編の脚本に仕立てること。
(『日本国語大辞典』「綯交(ないまぜ)」)>
綯い交ぜの例。
<入間家の姉娘花子は剃髪して清玄尼となるが、妹の桜姫と吉田家の松若との仲を嫉妬し、破戒する。後に惣太に殺され、その亡霊が若松と同じ姿で現われ、双面(ふたおもて)を演じる。通称「女清玄」。
(『日本国語大辞典』「隅(すみ)田川(だがわ)花(はなの)御所(ごしょ)染(ぞめ)」)>
『隅田川花御所染』の第一の「世界」は〈清玄桜姫物〉だ。
<清水(きよみず)寺の清玄が桜姫に恋し、堕落して寺を追われ、ついに桜姫のしもべに殺されるが、執念がなお姫につきまとうという筋を取り入れたもの。
(『日本国語大辞典』「清(せい)玄(げん)桜(さくら)姫(ひめ)」)>
『隅田川花御所染』の第二の「世界」は〈加賀美山〉だ。
<お家横領を企てる大杉源蔵の一味の局岩藤は、密書を中老尾上に拾われたのでこれを草履で打つ。尾上はくやしさの余り自害し、その下女お初が岩藤を討つという筋。
(『日本国語大辞典』「加賀見山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)」)>
『近世戯曲史序説』(諏訪春雄)参照。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5240 綯い交ぜ
5242 『ゴドーを待ちながら』
『ロンバケ』は『コンペティション』(オリアンスキー監督)と『結婚しない女』(マザースキー監督)の綯い交ぜだ。『セントエルモス・ファイアー』(シュマッカー監督)も考えられるが、これは『ふぞろいの林檎たち』(TBS)や『男女7人夏物語』(TBS)の原典だろうから、『ロンバケ』の直接の原典ではなかろう。とにかく、『ロンバケ』には少なくとも三種の物語の世界があって、それらが一つに統合されていく。
三四郎の「三つの世界」は統合されない。三四郎が「彽徊(ていかい)家(か)」(『三四郎』四)で〈自分の物語〉の「主人公」になれないのは、複数の「世界」の綯い交ぜに成功しないからだ。初心だからではない。彼の〈自分の物語〉は、いわゆるタブラ・ラサの状態、白紙なのではない。逆だ。「三つの世界」という物語の断片がぐじゃぐじゃになっている。ごみ屋敷。
<ただこうすると広い第三の世界を眇(びょう)たる一個の細君で代表させる事になる。美しい女性(にょしょう)は沢山ある。美しい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――苟(いやしく)も人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完(まった)からしむる為に、なるべく多くの美しい女性(にょしょう)に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。
(夏目漱石『三四郎』四)>
「こう」は「結果」の内容。「広い」は不可解。「眇たる」は意味不明。「代表させる」が意味不明なので、「事になる」かどうか、不明。
「翻訳」は意味不明。しかも、その結果が「いろいろ」とあるのなら、推量もできない。「沢山」でも「いろいろ」とは限らない。多数と多種は違う。
広田流「翻訳」の仕方が不可解なのだ。
「人格上の言葉」は意味不明。「感化」は意味不明。「個性を完(まった)から」は意味不明。「接触し」の具体例が不明。
「知って」は意味不明。性行為の暗示なら、「接触し」も性的な行為か。「甘んずる」は、満足なのか、諦めるのか。「自己の発達」は意味不明。
<伝統的作劇法を完全に無視して、サーカスや寄席(よせ)の道化(どうけ)芝居に近い体裁のもとに、何かを待ち続ける現代の人間の条件をみごとにとらえた作品。
(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「ゴドーを待ちながら」)>
三四郎のように複数の可能性に対して受身だと、「彽徊(ていかい)家(か)」になる。「道化(どうけ)」を演じるつもりはなくても、笑いものにされる。
「ゴドー」は正体不明だ。三四郎の待ち続ける「あの女」も正体不明だ。そのことに作者は気づいていない。作者が近代的「作劇法」を意図的に破壊しているわけではない。ちなみに、これのパクリの『待ち伏せ』(稲垣浩監督)にはわざとらしい結末があって、滑稽。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5240 綯い交ぜ
5243 「彼女(かのおんな)の夫(ハズバンド)たる唯一の資格」
三四郎は、「三つの世界」を統合することができない。だが、実際には、作者が〈三四郎の物語〉の創作に失敗している。作者は、自分の無力を作中人物の未熟に偽装している。
Ⅰa 「母」は三四郎を愛する。
Ⅱa 広田は三四郎を尊ぶ。
Ⅲa 美禰子は三四郎を愛する。
〈a群〉の統合は極めて困難だ。これらの物語の主語が全部違うからだ。しかも、〈Ⅰa〉は虚偽だろう。〈Ⅱa〉は期待だ。広田が三四郎を贔屓している様子はない。肝心要の〈Ⅲa〉は、三四郎の妄想である疑いが濃い。美禰子はお花と同様、正体不明なのだ。
<美禰子(みねこ)に愛せられるという事実その物が、彼女(かのおんな)の夫(ハズバンド)たる唯一の資格の様な気がしていた。
(夏目漱石『三四郎』九)>
〈Ⅲa〉は虚偽の〈Ⅰa〉の異本だ。「美禰子(みねこ)」を「母」に、そして「夫(ハズバンド)」を〈息子〉に置き換えると、マザコンの物語になる。つまり、「美禰子(みねこ)に愛せられる」は、〈理想の「母」に愛されるように「美禰子(みねこ)に愛せられる」〉の不当な略だ。
Ⅰb 三四郎は、自分が「母」に愛されていると信じたら、「母」を愛する。
Ⅱb 三四郎は、自分が広田に尊ばれていると信じたら、広田を尊ぶ。
Ⅲb 三四郎は、自分が美禰子に愛されていると信じたら、美禰子を愛する。
〈b群〉の主語は同じだから、統合は困難ではなさそうだ。三種の三四郎が「唯一」の〈自分の物語〉に含まれるのであれば、統合はいくらか容易になりそうだ。
では、次の場合、統合は容易か。
Ⅰc 太郎は「母」からもらった特殊な黍団子を持っている。
Ⅱc 太郎は男性専用の由緒ありげな鉞を持っている。
Ⅲc 太郎は「美しい女性(にょしょう)」からもらった不思議な玉手箱を持っている。
「三つの世界」がそれぞれ単純のようでも、〈c群〉の物語の原典を想起してしまうと、統合は困難になる。三人の太郎は、どのような場面で出会っても、三人のままだ。彼らが同一人物なら、太郎は三種のアイテムを所持している。〈竜宮城とは鬼が島の異名で、酒呑童子は乙姫をさらってきた〉というような、かなり無理な話になる。
無理な玉手箱に相当するのが「ヴァイオリン」(『三四郎』九)だ。これは寒月の物語に由来するエロチックな道具だ。
(5240終)