ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 5130

2021-09-24 15:05:35 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5130 物語のない「世界」

5131 「異性の味方」

 

引用を続ける。ただし、話は、突如、変わる。

 

<――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰返している。

三四郎が動く東京の真中に閉じ込められて、一人で鬱(ふさ)ぎ込んでいるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取った最初のものである。

(夏目漱石『三四郎』二)>

 

「動く東京」は意味不明。何によって「閉じ込められて」いるのか。「閉じ込められて」いるのは「一人」か。あるいは、「鬱(ふさ)ぎ込んでいる」のが「一人」か。「いるうちに」は怪しい。「国元の母から手紙が来た」という展開は、唐突。〈三四郎が「不安」になって「母」に手紙を書いたら、その返信が届いた〉といった展開が普通だろう。作者は「東京の真中」と「国元」の比較が必要になった理由を意図的に隠蔽しているはずだ。

 

<要するに自分がもし現実世界と接触しているならば、今のところ母より外にないのだろう。その母は古い人で古い田舎に居(お)る。その外には汽車の中で乗合した女がいる。あれは現実世界の稲妻である。接触したと云うには、あまりに短くってかつあまりに鋭過ぎた。――三四郎は母の云い付け通り野々宮宗八を尋ねる事にした。

(夏目漱石『三四郎』二)>

 

「もし」は「現実世界」の有様を隠蔽するための小細工。「現実の世界」が、「現実世界」に戻った。作者は、かなり無理をしている。「今のところ」はおかしい。〈「接触しているならば」~「母より外にないのだろう」〉は日本語になっていない。

 

<女とは京都からの相乗である。乗った時から三四郎の眼に着いた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、段々京大阪へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時の間にか故郷を遠退(とおの)く様な憐(あわ)れを感じていた。それでこの女が車室に這入(はい)って来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。この女の色は実際九州色であった。

三輪(みわ)田(た)の御(お)光(みつ)さんと同じ色である。国を立つ間際までは、お(ママ)光さんは、うるさい女であった。傍(そば)を離れるのが大いに難有(ありがた)かった。けれども、こうして見(ママ)ると、お光さんの様なのも決して悪くはない。

(夏目漱石『三四郎』一)>

「異性の味方」の原型は「母」だ。

「九州色」は無理な冗談。

御光(おみつ)は、Sの従妹や『彼岸過迄』の千代子の前身だろう。彼女たちは「母」のダミーであり、「母」こそが「うるさい女」なのだろう。

御光(おみつ)という名が『新版歌祭文』(近松半二ほか)からなら、美禰子と三四郎が駆け落ちする展開もありえたか。

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5130 物語のない「世界」

5132 「母」と「花」

 

私が常識だと思っていることと、語り手が常識だと思っていることは、違うらしい。

 

<元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云(ママ)うものは、ああ落付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行ってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云われた時には、喫驚(びっくり)した。二十三年の弱点が露見した様な心持であった。親でもああ旨(うま)く言い中(あ)てるものではない。……

(夏目漱石『三四郎』一)>

 

「あの女」に三四郎は「花」(『三四郎』一)と命名する。「花」は「遊女をもさす」(『日本国語大辞典』「はな」)から、ネタバレみたいだが、よくわからない。

〈「あんな女」でも娼婦ではない〉という表現は見当たらない。また、〈三四郎は娼婦という職業婦人を知らない〉という表現も見当たらない。〈三四郎は、売春という仕事を知ってはいたが、お花が娼婦だと夢にも思わなかった〉という表現も見当たらない。〈そのくらい、三四郎は初心だった〉という表現も見当たらない。作者は何をしているのだろう。

「無邪気」という言葉は、静に対しても用いられる。

「行ける所まで」は、〈性行為の諸段階を「行ける所まで」〉の略だが、空しい。

この「恐ろしい」は夏目語だろう。美人局だったら、恐ろしい。性病に罹るのは恐ろしい。ストーカーも恐ろしい。〈恥をかかされて「恐ろしい」〉の略らしいが、恥をかくのを普通は「恐ろしい」と言わない。〈据え膳食わぬは男の恥〉みたいな言葉が前提にあるのだろうが、この言葉は逆説だ。据え膳を食う方が、常識的には恥。

据え膳を食う「度胸」があったら、「無鉄砲」だろう。お花の捨て台詞は「あんな女」に特有の負け惜しみが言わせたものだが、作者の意図は不明。「喫驚(びっくり)」は意味不明。

「二十三年」は三四郎の年齢。「弱点」は〈「度胸のない」こと〉だろう。

「親」は「母」だ。彼女は息子に「御前は子供の時から度胸がなくて不可ない」(『三四郎』七)と言っている。「度胸のない方」の真意は〈受動的男性〉などだ。

語り手は、「母」といたときの三四郎が世間知らずだったように語る。だが、無理だ。三四郎が童貞だとしても、売春の知識ぐらいはあるはずだ。お花は、三四郎にとって、人間ではなかったのだろう。「母」の化身のような存在らしい。「母」の生霊が息子に追いすがったわけだ。だから、「恐ろしい」と形容される。作者は、この種の怪談を隠蔽しつつ、その雰囲気を醸し出そうとしている。

 

Ⅰ お花は、娼婦ではなく、男を買う女だった。

Ⅱ お花は「母」の化身だった。

 

Ⅰの物語は無視されている。Ⅱの物語は隠蔽されている。だから、本文は意味不明。

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5130 物語のない「世界」

5133 エクソシスト広田

 

三四郎は、「母」の支配から逃れるために上京する。だが、今度は都会に対する不安が募る。彼の心は揺れている。「母」に対する依存と忌避が交互に起きる。

 

<三四郎は手紙を巻返して、封に入れて、枕元へ(ママ)置いたまま眼を眠った。鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まった。

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

「手紙」は「母」からのもの。

「鼠」も「母」の化身だ。「急に」は不図系の語。

 

<田舎の母の嫌な「気」が来ないように、東京と田舎の間に防御のバリヤーをずっと昔から張っていたのである。母が死んだら大気が軽やかになったということは、母の出す怨霊、生霊が東京の空の下で暮らす我が身に重くのしかかっていたというのだろうか。しかし、バリヤーが破られていたという実感はなかった。東京駅から西北に約55キロほどの所に、某私鉄の「森林公園駅」というのがあって、そのあたりがバリヤーを張ってある場所だったのである。その私鉄を利用して時たま田舎に向かう時など、その駅が近づくと母が出していると思われる嫌な毒ガスのようなものの濃度が強く感じられて暗い気分になったものだし、また逆に帰京する時は、その駅を境に通り過ぎると、空気も新鮮になった。夏などの場合、車輪がレールのつなぎ目を通過する音に混じって、口やかましい母の言葉が耳鳴りのようにセミの泣(ママ)き声と一緒に聞こえたものだが、その幻聴もこの森林公園駅を通過するとともに遠のいていくようだった。

(花輪和一『不成仏霊童女』「あとがき」)>

 

花輪の「セミ」が三四郎の「鼠」に相当する。花輪は「嫌な「気」」を異様なものとして回想できるが、三四郎は違う。

花輪の「森林公園駅」に相当するのが広田だ。彼は東京で三四郎と再会し、「知ってる、知ってる」(『三四郎』四)と言うが、この出会いについて話題にしない。その理由は不明。

 

<髭(ひげ)を濃く生やしている。面長(おもなが)の瘠(やせ)ぎすの、どことなく神主じみた男であった。ただ鼻筋が真直に通っている所だけが西洋らしい。学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教師にしてしまう。

(夏目漱石『三四郎』一)>

 

広田は〈同性の「味方」〉だ。彼は「神主」つまり「バリヤー」を張ってくれるエクソシトであると同時に、普通の「教師」だ。

作者は、〈「神主」は三四郎を救う〉という物語と〈「教師」では三四郎を救えない〉という物語を、同時に、不完全な形で発信している。

(5130終)

 


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