ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 4540

2021-09-09 23:06:09 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4500 ボッチは恥 

4540 何様?

4541 コノテーション

 

Nは何様? 

 

<彼は大きい檞(かし)の木の下に(ママ)先生の本を読んでいた。檞の木は秋の日の光の中に(ママ)一枚の葉さえ動かさなかった。どこか遠い空中に硝子(ガラス)の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保っている。――彼は先生の本を読みながら、こう云う光景を感じていた。……

(芥川龍之介『或阿呆の一生』「十 先生」)>

 

「平衡」は、正気と狂気のそれか。あるいは、演技と本音のそれか。「先生」はNだ。

 

<家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私は一寸肱(ひじ)を曲げて、この縁側に一眠り眠る積(つもり)である。

(夏目漱石『硝子戸の中』三十九)>

 

「静かな春」と「春の光」は別。「硝子戸を開け放って」誰かの訪問を待つみたい。読者への別れの挨拶ではない。誰かを歓迎する芝居だ。「恍惚(うっとり)」は、「この稿を書き終る」理由がないことを隠蔽する言葉だ。

ちなみに、『漱石悶々』(NHKエンタープライズ)は、このような場面で終わる。ドラマのNは、夢の中である女に会う「積(つもり)」らしい。〈女はNの夢を見ている〉という夢。

 

<おきかえやあいまい化によって、ものは存在をやめはしない。むしろ増幅された形であらわれる。たとえばなにかを黒い箱にかくしたとすれば、その黒い箱がなにかを意味するようになる。十個の黒い箱の一つにまぎれこませたりすると、ますますひどいことになり、十個の箱がすべてがなにかの象徴になってしまう。つまり、二重、三重に内容をあいまい化してゆくと、それに置きかえられるものの数は二倍、三倍になってゆき、意味があいまいになるほど、それを意味するものは増えてゆくのである。もし性的なものが「口に出していえないなにか」といったものにまで漠然化してくると、この〈なにか〉はあらゆるもののうちに見ることができるようになってしまうのである。性がかくされることで、逆にあらゆるものが性的なコノテーションを帯びてしまうという状況のうちで、ヴィクトリア期は性的な強迫観念におびやかされていた。性は蓋をされて抑圧されてしまうことで、逆にあらゆるものが性の匂いをはなっていた。性がおおわれると、ピアノの脚がその象徴となり、ピアノの脚がおおわれると、こんどはそのおおわれたピアノの脚がその象徴となるという、象徴と意味論のとめどない連鎖がはりめぐらされてゆく。十九世紀後半の絵画の象徴性、神話性、物語性はこのような時代の意味論から生みだされたものだ。

(海野弘『世紀末のイラストレーターたち』「紙の昆虫館」)>

 

「ヴィクトリア期」は、「明治の精神」の「明治」に置き換えられる。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4500 ボッチは恥 

4540 何様? 

4542 愛の定義

 

Nは〈定義〉の価値を貶めたかったらしい。

 

<「元来円とか直線とか云うのは幾何学的のもので、あの定義に合った様な理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、廃(よ)したらよかろう」と迷亭が口を出す。「それで先ず実験上差(さ)し支(つかえ)ない位な球を作ってみようと思いましてね、先達(せんだっ)てからやり始めたのです」

(夏目漱石『吾輩は猫である』六)>

 

最初の話者は寒月。「あの定義」の内容は示されない。「理想」と「現実」は反対語だから、寒月の主張は同語反復だ。〈寒月は理系〉という設定だが、あまり理系らしくない。

「廃(よ)したら」は、〈「作ってみよう」とするのは「廃(よ)したら」〉の略。

「球」の「定義」は、「3次元空間で1定点から一定の距離以内にある点全体の集合」(『広辞苑』「球」)だろうか。だったら、どうやって「1定点」を決めるのだろう。

 

<段々磨(す)って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思って其方(そっち)を心持落すと、さあ大変今度は向側が長くなる。そいつを骨を折って漸く磨り潰(つぶ)したかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取ると又直径に狂いが出来ます。始めは林檎(りんご)程な大きさのものが段々小さくなって苺(いちご)程になります。それでも根気よくやっていると大豆程になります。大豆程になってもまだ完全な円は出来ませんよ。

(夏目漱石『吾輩は猫である』六)>

 

寒月が真球を作ろうとするのは「蛙の眼球(めだま)の電動作用に対する紫外光線の影響」(『吾輩は猫である』六)を調べるに先立って「蛙の眼球のレンズの構造」(『吾輩は猫である』六)を解明するためというが、意味不明。

「半径」の長さをどうやって決めたのか。「直径」の間違いか。

寒月が「珠作りの博士」(『吾輩は猫である』六)をやるのは、本物の博士になるのを「金田令嬢が御待ちかね」(『吾輩は猫である』六)だからだ。

「珠」は〈愛〉の象徴。〈愛〉の「定義に合った様な理想的な」愛は「現実世界にないもん」だ。作者はそんな考えを隠蔽しつつ読者に伝達しようとしている。〈愛〉の「定義」は示されない。作者には理想的な愛のイメージがないから、言葉数が増えるほど、イメージが希薄になる。「珠」が「段々小さくなって」しまう。そうした真相を隠蔽するために「珠作り」を笑い話に仕立てているわけだ。面倒くさい。

寒月の話を遮るみたいに、迷亭は「相思の情」(『吾輩は猫である』六)について語り始める。だが、潜在的には、話は継続している。

『吾輩は猫である』は、「相思の情」に関するNの無知を隠蔽するために出現した模擬作品だ。文明批評などに偽装された座談の主題は満たされない被愛願望だ。作者は、自分が被愛感情を表現できないことを隠蔽するために、「ワガハイ」を死なせて終りにする。

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4500 ボッチは恥

4540 何様? 

4543 『大衆の反逆』

 

苦沙弥からSに至る無名の「先生」どもは人気者だ。中途半端なのに。中途半端だから? 

 

<論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の讃辞に終っている。

(夏目漱石『三四郎』六)>

 

この「論文」の題は「偉大なる暗闇」(『三四郎』六)という。奇を衒ったもの。「論文」を書いたのは「佐々木(ささき)与(よ)次郎(じろう)」(『三四郎』三)で、彼は広田を「偉大なる暗闇」と称する。「文学者」は〈「文学」研究「者」〉のことだが、広田の研究は紹介されていない。この「論文」には「全く実(み)がない」(『三四郎』六)と、三四郎は評する。広田本人には「実(み)」があるみたいだ。「論文」が「二十七頁」(『三四郎』六)あるのは、与次郎が二十七歳だからか。

 

<大衆が「思想」を持つということ、つまり、教養を持つというのは、大いなる進歩を意味するのではなかろうか。いやけっしてそうではないのである。この平均人の「思想」は真の思想ではなく、またそれを所有することが教養でもないのである。思想とは真理に対する王手である。思想を持ちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要があるのである。思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。そうした規則こそ文化の原理なのである。その原則がどういう種類のものであってもかまわない。わたしがいいたいのは、われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところには文化はないということである。われわれが訴えるべき市民法の原則のないところに文化はない。議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念のないところには文化はない。人間がその庇護のもとに身を守りうるような交通制度が経済関係を支配していないようなところには文化はない。美学論争が芸術作品を正当化する必要を認めないところに、文化はないのである。

(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』八)>

 

私なりに要約すれば、〈自分語の使用は落第〉ということだ。

Nの小説に出てくる「先生」どもは、定義を軽んじる胡散臭い「平均人」だ。

 

<「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人は兎(と)に角(かく)、僕は是非とも生死(しょうじ)を超越しなければ駄(だ)目(め)だと思う」

(夏目漱石『行人』「塵労(じんろう)」四十四)>

 

「根本義」は意味不明。夏目語か。「安心」は〈あんじん〉と読ませたいか。

「才人」は高山樗牛らしい。真意は〈軽薄才子〉か。Nは高山に嫉妬していたようだ。「僕」は一郎。彼は自分が「才人」ではないことを認めるが、では、何様? 

(4540終)

 

 


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