一昨日、初詣で訪れた西宮戎神社の拝殿の前の広場では焚火を参拝者が囲んでいた。
日頃、焚火を見ることもすることもないが、このように焚火にあたる機会があれば必ずといっていいほど子供の頃を思い出す。
60年前の田舎の暮らしの中で、お風呂やかまどは薪で焚くことが多かった頃である。当時は、お風呂が五右衛門風呂で、筆者が好んで火の番をしていた。薪をくべる窓口の前で時を忘れるくらい長く座り込んでいた記憶がある。冬場はもちろん温かいということもあったが、なぜか心地よかったことが記憶に深く残っている。
参拝の前に足が向いたのが焚火である。焚火にあたるというよりかは、焚火のゆらぎにそそられ近づいてしばし佇んでいた。
そのゆらぎは「1/fゆらぎ」といわれるもので、われわれ人間の本来持っているリズムと同じものがあるといわれている。それは科学的に解明され、本能的な快感や快適さを享受できるようだ。
通常は、神社仏閣等で新年を迎えるにあたり門前を明るくするためにお焚き上げをし、また、一年間の厄を払い清めるための焚火ということである。
昔は三日三晩、燃やし続けたようだが、現在は消防法などで参拝時間内で燃やし続けている。
不滅の法灯ではないが、一年間の安全で健やかに暮らせる力を授けてくれるのも焚火の効用といっていいだろう。
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