昨日、図書館で日本画の美術全集をめくっていると白隠慧鶴(はくいんえかく/1686~1769)の「達磨像」が目に入った。独特のタッチの絵を描く画僧であり禅師である。禅の代表的な公案(禅問答)を創始した人で、臨済宗の中興の祖といわれている。
その白隠禅師が創始した公案の一則である「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」を以前も紹介したが、印象深い禅問答なので今回も解る範囲内ではあるが紐解いてみる。
日常で使う禅問答は会話がかみ合わない様子のことをいうが、本来の禅問答は禅宗の僧による言葉や動作のやり取りのこという。修行者が疑問を投げかけ、それに対して指導者が答える一連を問答のことをいう。
禅問答は、もともと中国の禅僧「雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)」によってまとめられた『雪竇頌古(せっちょうじゅこ)』と呼ばれる初の公案集。これに、同じく中国の禅僧「圜悟克勤(えんごこくごん)」によって手が加えられた『碧巌録(へきがんろく)』として現在でも有名な公案集となっている。
まず碧巌録という難しい字に興味を持った。かなり前だが、京都・相国寺に参拝した折に山内にある大通院(相国寺塔頭)の扁額(写真)に「碧巌録提唱」と篆書体のような文字で書かれていた。それが相国寺の修行の専門道場だった。それを見たことで碧巌録への関心がさらに強くなった。
さて、私の印象に強く残っている問答の一つに「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」がある。「隻手(せきしゅ/片手)になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ」という白隠禅師が創始した問答。
(「両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音がするか。それを報告しなさい」という意味)
3年前に佐川美術館(滋賀)で「白隠と仙厓展」を鑑賞したとき、白隠と仙厓のユーモラスで軽妙、かつ大胆な書画に改めて驚かされた。画自体はもちろんだが、禅の意味を画と賛で重層的に表現する禅画には禅問答が示されていて、どこかにヒントが隠されているものの答えは見えない。それは、見た人に考えさせ、みずからの答えを導き出させるためのものある。
白隠の禅画に表されているのは、人としての本質を問うものばかりで、探れば探るほど奥深い。浅見識ではあるが、白隠慧鶴の禅僧としての神髄の一旦を楽しむことができた。
その禅問答を一画で紹介すると、江戸時代に画かれた「隻手布袋図」(写真)は「隻手音声」の禅問答そのものである。「両手を叩けば音がするが、隻手ではどんな音がするか聞いて来い」という、白隠の代表的な公案画。その心は、常識や当然にこだわり、それが正しいと凝り固まっていてはいけないという、まさに禅問答の典型のようなものである。
禅問答集を参照しながら、上記の禅問答を少し解説すると、我々は「物」をみるのは「眼」で、「音」を聞くのは「耳」で、と思い込んでいる。この思い込みが「妄想」だという。この常識や分別を外せば、片手でも音は聞こえるという。
般若心経にあるように、不生不滅。不垢不浄。不増不滅。無限耳鼻舌身意。の意味のとおり一切の対立観念の無い完全無分別の世界、ということになる。
自己と対象が一体とならなければ妙音は出ない。「片手の音」とは、まだ自己と対象が一体になってない状態で自己を見失ったままの状態。思慮分別を捨て、“本来の自己”を究明することから禅の修業が始まる。
リポート&写真/ 渡邉雄二 写真資料/ 日本画大全集・白隠と仙厓展チラシより
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